第34話 ダーツの達人


 その日の午後、屋敷に客人がやって来た。――兄のクライヴ、そしてウィリアムの妹シディ、それから菫色の瞳を持つ、可憐なリン・ミッチャム。


 美しい花が咲き乱れる温室で、皆、思い思いに着席し、お茶を楽しんだ。


「――それで結局、お兄様は今後どうするの?」


「どうする、とは?」


 クライヴは相変わらずの堅物ぶりだった。『私の趣味は、辞書と百科事典を隅々まで読むことです』とでも言い出しそうな、独特の雰囲気。


「リンとの婚約は偽装だったみたいだけれど、嘘がきっかけで始まる関係もあるでしょう? 二人のあいだに愛は芽生えた? 隣国に行ってしまうの?」


 クライヴの口が微かに開き、目を剥いてこちらを凝視してくる。……やだ、どうしちゃったのかしら? とクリスティは訝しんだ。


「クライヴったら、もしかして、可愛い妹に会えなくなるかもしれない不安で、パニくってしまったのかしら? ――OK、大丈夫よ、あなたが隣国に行っても、お手紙書いてあげまちゅからねー」


「この馬鹿妹! もしもこの先、お前と会わないで済むとしたら、せいせいするわ!」


「意地張っちゃって~。私のこと好きなくせにぃ」


「もう一回、ヨーク橋から流してやろうか」


「それはだめよ。私がいなくなったら、旦那様が泣いちゃうから」


「おい、馬鹿も休み休み言うんだな!」クライヴが高笑いをする。「彼はお前が大海に流されたら、小躍りして喜ぶさ。――なぁ、そうだろう? ……て、あれ? 嘘だろ?」


 当事者のウィリアムがすっかり赤面し、俯いてしまったので、クライヴは仰天し過ぎて、椅子から転げ落ちそうになっている。


 クリスティはツンとした態度で兄に言ってやった。


「あなたの態度って、いかにも子供じみていてよ? クライヴ。――ほらほら、あなた、リンにプロポーズするの? どうなのよ?」


 しかしクライヴは、ウィリアムの様子がよほど衝撃だったとみえ、いまだ復旧していない。目を剥いてウィリアムを凝視し続けていて、クリスティの問いは聞こえてもいないようだった。


 これを見かねたシディが身を乗り出し、クリスティの手を握りながら、噛んで含めるように告げる。


「あのね、クリスティさん――お義姉様――クライヴさんは、リンとは結婚しないわ。互いにタイプじゃないから」


「あら、そうなの? クライヴはロリコンじゃなかったのね」


「というかね。リンは男の子だから」


「は?」


「リンの本名は、ロンなのよ。そもそも彼、菫姫でもないから」


 シディの暴露は突然過ぎて、クリスティはついていけなかった。目を丸くして、はす向かいに腰かけるリン、改め、ロンを眺める。


 ええ? 嘘でしょう? こんなに可愛い、女の子みたいな見た目の男の子って、存在するの?


 テーブルに肘を突き、上半身をぐい、と乗り出して、ロンのきめ細やかな肌を眺める。


「……あなたいくつ?」


「十二」


 ロンが答えた。


「十二?」


 やだ、信じられないわ……とさらに身を乗り出し、ペタペタとロンの顔を弄り回していると、彼の白い頬にさっと朱が差した。鉄面皮だと思っていたけれど、そうでもないのかしら? クリスティは興味を引かれて、彼の菫色の瞳を覗き込んでしまう。


 すると後ろから腰に腕を回され、ぐいーっと席に引き戻されてしまった。――見ると、隣席に腰かけているウィリアムである。彼は眉間に皴を寄せ、お怒りモードだった。


「クリスティ、他の男にベタベタするな」


「あら、びっくり。ヤキモチ?」


「あのなぁ! そういう言い方は、可愛くないぞ」


「ふふん……本当にヤキモチを妬いているのね? そういうあなたは可愛いわ」


 クリスティの小悪魔ぶりに、ウィリアムはあっさり撃沈した。クリスティの肩にくたりと額をつけ、「……なんだこれ、心臓が痛い。いっそひと思いに殺してくれ」と小声で呟きを漏らしている。


 シディはテーブルに頬杖を突き、面白さ半分、呆れ半分、といった様子で、ヘタレた兄を眺めていたのだが、クリスティから『どういうことなの?』と問うような視線を向けられたので、答えてあげることにした。


「菫姫は幼い頃に隣国を出たきり、一度も戻っていない。つまり彼女の顔は誰にも知られていないから、作戦に参加するのは、本物である必要はないわけでしょう? 危険な役回りだったし、代役を立てようということになって。私が見つけることにしたの」


「本物はどこに?」


「ハモンド卿が安全な場所にかくまっているわ」


「どうして代役を男の子が?」


「女性を絡めると、あとあと面倒じゃない? 全部片付いたら、『陰謀を暴くためのための芝居でしたー』って皆に発表するから、リン・ミッチャムとの婚約が嘘だったことは周知される。だけど芝居とはいえ、美しいご令嬢と一年ものあいだ近くで過ごしていたとなると、色々勘繰るやからも出てくるからね。それに演者の女性が、恋愛感情を抱くかもしれない。問題を残したくなかったのよ」


 なるほど、よく考えられている、とクリスティは感心させられた。


 それにこれは、チャリス教皇に対する強烈な皮肉でもあるのかもしれなかった。隣国との国交が回復すれば、新しい時代が幕を開ける。その立役者の一人が、『女装した少年』というのは、なんとも象徴的ではないか。


 ジェラルド殿下からの、皆に向けたメッセージにもなるだろう。王室は多様性を受け入れ、差別をしない、という。


「ロンはどこで見つけてきたの?」


「下町の繁華街よ。正直に言うと、ちょっとエッチなお店ね。ロンはそこで下働きをしていて、もうすぐ男娼として、お店に出されるところだった。彼に事情を話して、協力する気があるかと尋ねたら、『うん』というから、連れて来たの。――ちなみに、あなたはこのことで、私の兄を脅したのよね? 私が男遊びをしていると言って。いかがわしい店に出入りしていたのも、業務のうちだったんだけれど、ぬかったわぁ。誰にも見られないよう、気をつけていたのだけれど」


「兄のコリンが下町で暮らしているから、行き慣れていて。……そうね。あなたの素行を勘違いして、その件でウィリアムを脅したのは悪かったわ」


「まぁいいけれど。済んだ話だし」


「寛大ね」


「あなたには恩を売っておいたほうが、敵対するより、得になりそうだから」


 シディが人懐こい笑みを浮かべたのだが、性格を把握しているせいか、禍々しさしか感じられなかった。


 クリスティはやれやれと思いながら、ロンのほうに視線を向けた。


「あなたの隣国訛りは、どうして?」


「少し前まで、隣国から来たおじさんと、一緒に暮らしていたから」


「え?」


「母の愛人。なんだかんだ……数年くらい一緒に居たかなぁ……訛りが面白くて、真似しているうちに、癖になってしまって。そいつに襲われそうになったから、家を飛び出して、それきり帰っていないんだけど」


 答えるロンの喋りは流暢で、まったく訛っていなかった。


「あなた、苦労しているのね」


「まぁ、それなりに」


 ロンは見た目こそ儚い感じだが、実際はかなり肝が据わっているようだ。――『リン・ミッチャム』として行動していた時は、貴族の暮らしに馴染んでいなかったために、あんな感じになっていたのかも。探り探り行動していたことで、全てが自信なさげに見えた。


「じゃあ、あなた、あの喋り方はわざとやっていたの?」


「うん。――菫姫の設定にちょうどいいから、訛りを生かそうってことになって、おじさんと同居していた頃のことを思い出してさ。普段もずっと訛りモードで喋るようにしていたんだ。今は必要なくなったから、戻したけど」


「賢いわね、気に入ったわ。行くところがないなら、私が面倒を見てあげる」


「ありがとう。でも僕、ハモンド卿に高額で雇ってもらえることになっていて」


「そう。良かったわね」


「あのね、僕もクリスティのこと、気に入っているんだ。以前、パンの食べ方を間違った時、馬鹿にしなかったから」


 ロンがにっこり笑う。


「それから別の日には、抱きしめてくれたよね。おっぱいもフワフワだし、いい匂いがしたから、僕、興奮しちゃった。――時間よ、止まれ! と願ったくらい。ウィリアムと上手くいっていないなら、僕が夜の相手をしようか?」


 ウィリアムがドス黒いオーラを発散しながらゆらりと立ち上がったので、クライヴが「わぁ落ち着け、ウィリアム! ロン、謝るんだ! 上辺だけでも!」と叫び、てんやわんやで仲裁に入ったのだが、荒れた空気はしばらく元に戻らなかった。



***



 シディが、『お義姉様、猫を見せて』とおねだりして、クリスティが『どっちが猫に好かれるか、勝負よ』と了承し席を立ったので、温室には三人の男たちが残された。


 ロンはまだ菫姫の扮装をしていたために、『私ぃも、女の子たちに、混ざるぅ』と隣国訛りを復活させて、ちゃっかり出て行こうとしたのだが、ウィリアムに首根っこを掴まれ、引き戻されてしまった。


 ――ウィリアムは椅子の背に体を預け、やれやれと額を押さえた。


「この先、クリスティに勝てる気がしない……」


「勝とうとするのが間違っている。受け流せ。そういう作業だと自分に言い聞かせるんだ」


 クライヴは自分だって上手く受け流せたことがないくせに、なぜか人生の先輩風を吹かせて、こうアドバイスをするのだった。


「しかし、なんていうか」ウィリアムは途方に暮れていた。「結局のところ、僕は、九分の一の男なんです」


「なんだ、それ」


「知っているでしょう? 僕はダーツで彼女に選ばれた」


「ああ、あれか……」


「政略結婚ならば、自分の意志は関係なく、縁組が決まることもある。それは別にいいと思うんです。でも――ダーツって、強烈だな、と。僕以外の名前は、誰だったんだろう? とか、変なことが気になって」


 聞いていたクライヴが眉尻を下げ、気の毒そうに、そしてなんだか可笑しそうにこちらを見つめてきた。


「まさか君が、そのことをまだ気にしていたとは……ちゃんと教えてやれば良かったな」


「なんです?」


「実は、妹はダーツの達人なんだよ」


「え?」


「あいつは狙い通りのところに、矢を刺せる。――クリスティは君の名前を、狙って射貫(いぬ)いた」


 クライヴが笑み交じりに矢を投げるジェスチャーをして、ポンポン、とウィリアムの肩を叩いた。


 ウィリアムは呆気に取られてしまった。そしてクライヴの話には納得できる部分もあると考えていた。


 彼は以前、確かに見ているのだ――コリンの性的嗜好の件で口論になった時、クリスティが肉切りナイフを手に取り、見事な手捌きでそれを放ったのを。ナイフは狙いすましたかのように、ウィリアムの目の前に置かれたステーキ肉に突き刺さった。


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