第32話 対決③ ウィリアム!
「さぁほら、サインしないと、あんたの膝を射抜くわよ」
本当にやりかねない。クロスボウを揺らすカーラは楽しそうで、むしろ射貫きたがっているように見えた。
クリスティはサインするしかなかった。日付と氏名を記入する。――『クリスティ・ウィンタース』――
「これを渡したら、帰っていい?」
だめ元で尋ねてみたら、カーラは鼻で笑いながら書類を奪い取り、首を振ってみせた。
「――答えは『NO』よ! ウィリアム様と結婚していた女がのほほんと生きているなんて、ムカつくもの。あんたには消えてもらう」
「え、殺すってこと? ちょっとそれは、どうかなぁ……」
人として、そこまであくどいことをするのは、どうかと思うけどなぁ……。
「貴族社会から抹殺してやるって意味よ。あんた、顔と体はいいものね。大金持ちのド変態サディストに売りつけてあげる」
こういう時『大金持ちの親切なイケメンに売りつけてあげる。三食昼寝付きよ、お幸せに!』という流れにならないのは、どうしてだろう、とクリスティは考えていた。それなら『あらそう? じゃあ、まぁ……』ってなるかもしれないじゃない?
とりあえず連中は、『ド変態サディスト氏』に売却するため、クリスティのことを生け捕りにするつもりのようである。男たちの包囲網が狭まりつつあった。
誘拐犯の馬車に乗ってはだめ――クリスティは幼い頃、家庭教師にくどいくらい念押しされた教えを思い出していた。乗ったら最後、絶対に戻れないから、と。
じりじりと下がる。背中が橋の欄干に触れた。振り返って見おろす。――遥か下を川が流れていた。水面まで十五メートル以上はありそうだ。流れも急だった。
「そこから飛ぶ気? やめなさいよ、死ぬわよ!」
カーラが高笑いしている。クリスティは唇を噛んだ。――究極の二択だった。落ちて死ぬ危険を冒すか、このまま捕まって、サディストにいたぶられる生涯を送るか……。
川を見おろしていると、馬車の蹄の音が響いて来た。……一体、どこから? クリスティは眉根を寄せた。下のほうから聞こえる。
ここヨーク橋周辺は、国が莫大な費用を注ぎ込んで、水路として整備をしてあった。川の両端には石畳の通路が平行して作られている。
「――クリスティ!」
名前を呼ばれた。五十メートルほど向こうに、別の橋がある。突如、その下――橋脚と橋台のあいだから飛び出して来たのは、ウィリアムだった。
金色の眩い髪。青灰の瞳。馬を駆る彼の姿は勇ましく、厳しい表情を浮かべている。
ウィリアムは水路横の石畳の道を、馬に乗り、真っ直ぐに突き進んで来る。クリスティの位置から見ると、遥か下方だ。
「ウィリアム!」
クリスティは欄干から身を乗り出した。
ウィリアムはあっという間にヨーク橋の下に辿り着き、手綱を引いた。馬が急ブレーキをかけ、九十度回転する形で止まる。ウィリアムはクリスティの背後に複数の男たちが迫っているのを見て取っていた。
ウィリアムの位置から上の通りに直接出ることはできない。直進して百メートル以上進んでから階段があるはずだが、そのルートを進んでいるあいだに、クリスティは連れ去られてしまうだろう。
あとで取り戻せたとしても、さらわれてからのたった数時間で、彼女の身に取り返しのつかないことが起きるかもしれなかった。絶対に行かせるわけにはいかない。
「――飛べ、クリスティ!」
「だけど」
「来い、受け止める!」
彼が手を伸ばしている。それを見て、クリスティは瞳を輝かせた。
――ウィリアムが来てくれた! クリスティにはそれだけでもう十分だった。
今朝方ウィリアムの目を盗んで、こっそり屋敷を抜け出したので、彼がクリスティのあとをつけて、楽々ここへ辿り着いたとは考えられなかった。水路横という変な場所から突如現れたということからも、それは明らかである。
彼はきっと必死で探し回ってくれたのだ。もしかするとカーラに協力している一味の誰かを捕まえて、クリスティを害する計画や場所を聞き出したのかもしれない。
とにかくはっきりしているのは、彼がクリスティのことを本気で心配してくれていなければ、このタイミングで助けに現れるのは不可能だったということ。
クリスティの頭から恐怖が吹き飛んだ。彼がそこにいる――私、あそこに行かなくちゃ! ウィリアムが居てくれるなら、何も怖くないわ!
膝を曲げ、地を蹴って、ふわりと飛ぶ。――突いた手を軸にして、欄干を飛び越え、下へ――
追手が慌てて伸ばした何本もの腕が空を掻く。そのうちの誰かの指が、クリスティの美しいダークブロンドに一瞬触れたが、彼女はそのまま落ちて行った。
ウィリアムの端正な顔が、驚愕で強張る。
「馬鹿、川に落ちるやつがあるか――」
ドレスのスカートがはためき、膨らむ。クリスティは落ちながら顔を両手で覆った。――きゃあ、大迫力ね! なんて思いながら……。
落水時の大きな水音。それに間を置かず、もう一つ水音が響く。ウィリアムは彼女が川に向かって落下したのを見て取り、馬から飛び降りて、岸を蹴って水面に飛び込んでいた。
クリスティは少し不格好に泳ぎながら岸を目指そうとした。けれど水を吸ったドレスが想定外に重く、沈みかける。ウィリアムは彼女のもとまで泳ぎ、しっかりと抱き留めた。
「この馬鹿! 死んだらどうする気だ! この川は浅い場所も多いのに」
水深があれば落下の衝撃を殺せるが、浅瀬に落ちていたら、クリスティの体はグシャリとなっていただろう。
「だけどあなた、私の体を馬上で受け止めるなんて、無理よ! あれだけの高さだもの、私は助かったとしても、あなたが死んじゃう」
クリスティの髪は水を重く吸い、頬にも、額にも、水滴がついている。彼女のヘーゼルの瞳はキラキラと輝いていた。濁流の中にあっても、なお眩く。
ウィリアムは眩暈を覚えた。彼の顔が泣きそうにくしゃりと歪んだ。
「クリスティ……もうお転婆はやめてくれ……心臓が止まる」
「私、あなたを下敷きにして殺すわけにはいかなかったの。だってね」
クリスティはダイブをしたことですっかり興奮していた。頬を上気させ、彼に言い募る。
「だって私、まだ未亡人にはなりたくないわ! 処女なのに!」
「――ああ、なんてこった、もう黙ってくれ!」
「いいえ、黙らない! あなたは私に教えるべきだわ! 幸せはこういうことだと、私に教えるべきよ!」
彼と視線を絡ませていると、クリスティはとうとう我慢できなくなり、天を仰ぐようにして愉快に笑い出した。
「ねぇ信じられる? 私、飛んだわ! あの高さから飛んだの! やだ、嘘みたい!」
クリスティの唇に浮かぶ、美しい笑みの形。ウィリアムは困り顔で彼女を眺め、結局、つられたように笑い出してしまった。
まったくなんて子だろう! とウィリアムは思った。――僕のクリスティは、追手をかいくぐり、なんの躊躇いもなく、橋の上から飛べてしまえる女なのだ。
どうかしている――彼女は規格外にイカレているし、信じがたいほどキラキラ輝いている。まるで太陽みたいな人だ。
***
――この騒動で人目を引き過ぎたため、カーラたちは蜘蛛の子を散らすように、ヨーク橋の上から姿を消した。
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