第31話 対決② カニ漁船から逃げ出した女


「最後に勝ったのは、私よ! 私の顔を見なさい、クリスティ! あなたに勝った女の顔を!」


 カーラは笑う時に眉間に皴を寄せる癖があって、そのせいで、笑顔がしみったれて見えた。クリスティは小首を傾げてしまった。


「なんであなたの勝ちなの? あなたは菫姫の政敵に雇われた、ただの下っ端でしょう?」


「いいえ、私がやつらを利用してやったのよ!」


「そういえば不思議なのだけれど、あなた、ウィリアムの妹にトドメを刺されたんじゃないの? あの子がちゃんとやるって言うから、私は任せたのだけれどね」


「――シディ、あのクソビッチ!」


 怒りの炎が何度目かの激しい燃え上がりを見せた。カーラは鳥のように首を動かしながら、先ほどそうしたように、その場でぐるぐると回りながら足踏みを始めた。どうやら彼女は、怒りが最高潮に達すると、この動きをしたくなるらしい。……こういうオルゴールみたいね、とクリスティは思った。


「シディはあなたになんて言ったの?」


「私が彼女の屋敷で働いていた時に盗んだものを返せって。返せないって言ったら、『じゃあ窃盗罪ね』ですって! 友達なのに、なんなのよ!」


「いやあなた、友達のものを盗んじゃだめでしょう」


「友達なんだから、私が困っていたら援助すべきよ! それから過去に私がした、ちょっとした些細なことを、あれこれ大袈裟に責めてきたの。メイド仲間への暴行とか、器物破損とか、ウィリアム様に近寄った女に嫌がらせをしたこととか。シディは私に言った――『全ての罪をひっくるめると、二十年は牢屋に入らないと』――はぁ? 何様よ? 偉っそうに」


「でもあなた、牢屋に入っていないでしょ」


「牢屋は勘弁してやるから、カニ漁の船に乗れと、あの女は言ったの! 私はカニ漁船に売られたのよ! 『これで窃盗の件はチャラにしてあげる』とか言って、信じられない! 私は危うく、遠い北の島で、カニ漁をして暮らしていくところだった!」


 へぇ……とちょっとにやけてしまう。楽しそうじゃない、カニ漁。ウィリアムと別れたら、私もその船に乗ろうかしら、とクリスティは思った。


「乗らずに済んだのね」


「――おお、神様! 私はツイているわ! 私がウィリアム様に執着していたから、たぶん目立ったのね。日頃の行いって、本当に大事だと思ったわ。――私がウィリアム様を手に入れるためなら、どんな苦難にも立ち向かうに違いないと思われたようで、菫姫の政敵からお声がかかったの。スカウトされたわけよ! 私はすんでのところで、船から逃がしてもらえた!」


 不屈の女、カーラ。彼女が自叙伝を出したなら、逃げ腰で損をしている層には、意外と刺さるかもしれないわ。彼女は自己主張を続けたことで、誰かの目に留まったわけだ。カーラが賢く口を閉ざしているような女だったら、そのままカニ漁の船に乗せられていただろう。


 いや……? ここでクリスティは訝しげに首を傾げた。――違う違う。それは間違っているわね。だって初めから口を閉ざしていたら、そして正しいことをしていたら、そもそもカニ漁船に乗せられるような目には遭っていないはずだもの。カーラの勢いに騙されるところだったわ。危ない、危ない……。


「で? 結局あなた、何がしたいの? 私を今更どうこうしても、菫姫にダメージは与えられないでしょう?」


「そうとも言い切れない。だけどこれは、どちらかといえば、私へのボーナスね。上に一生懸命交渉して、これからも真面目に悪事を働くから、ウィリアム様を手に入れるために、本件に協力してくださいと頼み込んだのよ。これが成功した場合のメリットも説明してね」


「交渉上手ね。敵ながらアッパレだわぁ」


「褒めてもらえて嬉しいわ」


 カーラは満更でもなさそうだった。にっこりと笑みを浮かべている。相変わらず眉間に皴は寄っていたのだが。


「――それでどうしたいの?」


「これにサインして」


 カーラは異様に大きなカバンを斜め掛けにしていたのだが、そこから書類を引っ張り取り出し、ぐい、と差し出して来た。クリスティはそれを受け取り、眺めおろした。


「……『婚姻無効申請書』……何これ?」


「当国が原則、離婚を認めないのは知っているわね?」


「ええ」


 そのことでカウンセラーが派遣されたくらいだ。――ちなみにルビー先生のレッスンはまだ続いている。いまだ結論は出されていなかった。というのもこのところウィリアムは『良い夫』になっていて、持ち点が減ることもなかったからだ。


「離婚を成立させるためには、それが正当であると、国に認めさせないといけない。そして一度離婚が成立すると、同じ相手と復縁することはできない決まりよ。つまりあなたは、ウィリアムと離婚したら、この先クォーリア侯爵家の威光を使おうが、何をしようが、もう二度と彼とは結ばれないの」


「まぁそうね。それで?」


「離婚が比較的簡単に認められるケースがある。――それは、どちらかが姦淫罪を犯した場合よ。この申請書類は、自らの不貞行為を認めるものなの。姦淫罪により神前での誓いが無効になったことを明らかにして、法律上もそれを適用してもらうという」


 内容を流し見ると、確かにそういう内容になっている。――自分は不貞を犯したから、神前での誓いを無効にしてくださいという内容。


 定型文らしきものが綴られており、最後の、日付、サインのところだけが空欄になっていた。


「こんなのにサインするわけないでしょう? 離婚については検討してもいいけれど、やってもいない不貞を認めるなんて、絶対だめ。実家にダメージが行くもの」


「離婚については前向きなの? やったぁ! それって敗北宣言よね? あなたの口からそういう台詞が飛び出すなんて、感激だわ! これでやっとウィリアム様とのスイートライフが始まるのね! 夜とか超楽しみぃ」


 ひゃっほうとか飛び上がっていないで、落ち着きなさいよ。クリスティが半目になっていると、ひとしきり喜びを爆発させていたカーラが、やっと地上に舞い戻ってきた。


「――上からの指令で、クォーリア侯爵家にダメージを与えよ、ってことなの。だからそれにサインしてもらうわ」


「嫌よ。別の手を考えて」


「こっちだって嫌よ。あなたが不貞を認めるのが、一番、手っ取り早いのよ」


「カニ漁船から逃げ出した執念の女なくせに、何、手抜きしようとしているのよ。冗談じゃないわ。もっとガッツを見せなさいよ」


「カニ漁のことはもう言わないでよ! 思い出しちゃったじゃない! 船の匂いとか!」


「やーい、カニ漁女~」


「うっさい!」


「ゆでる以外のオススメの食べ方とか教えてよ。漁師飯、みたいなやつ」


「だから航海には出てねぇんだよ! 直前で逃がしてもらえた、つってんだろが!」


 ……やだもう、怖いわぁ。青筋立てて怒っていますわよ。野蛮だわぁ。クリスティは『私は気弱な淑女です』というていで、困ったように眉尻を下げてやった。カーラの品のなさには、温室育ちのご婦人であるクリスティはもう、ドン引きなのである。


「――いいからほら、それにサインしなよ、このクソ女」


 カーラが右手を大きく振ると、橋の左右から、屈強な男たちが姿を現した。――二、四、六、八……そのあたりでクリスティは数えるのをやめた。カーラがこれだけの手下を集められるわけもないから、菫姫の政敵から、人材を横流ししてもらっているのだろう。男たちの身のこなしには隙がなく、荒事に慣れていそうな雰囲気があった。


 視線を戻すと、カーラが対面の位置から、クロスボウを油断なく構えていた。矢はクリスティの足元に向いている。


「呆れた。どこにそんなものを隠していたのよ?」


「カバンよ」


「どうりでね。大きなカバンだと思った。……中に盗んだカニでも入っているのかと思っていたわ」


「カニのことを言うんじゃないわよ!」


 カーラは歯を食いしばりながら怒鳴り、ぶるぶると体を震わせたので、その反動でうっかりクロスボウの引き金を引いてしまったらしい。


 クリスティは野性の勘でさっと左足を持ち上げたのだが、彼女がついさっきまで足をついていた正にその場所に、凶器が突き刺さった。石と石の継ぎ目に矢尻が嵌り込み、ビィン……と矢全体が揺れている。


 クリスティはこれを眺めおろし、ぞっと鳥肌を立たせた。


「ちょっと! 私が華麗に避けなかったら、足の甲に刺さっていたわ!」


「チッ、惜しい!」


「惜しい、じゃないわよ。――あなたね、脅迫の正しいやり方が分かっている? 普通は『矢で刺されたくなかったら、サインしなさい』という順序で進めるでしょ」


「……矢で刺されたくなかったら、サインしなさい」


 カーラが機械的に繰り返してきたのだが、驚愕の棒読み具合だった。


 視線を巡らせると、男たちが段々と距離を詰めてきている。――クリスティはハントされる子鹿も同然だった。こんな扱いをされるのは我慢ならない。


「ねぇ、カーラ。この私がノープランでここへ来たと思うの?」


「どういうこと?」


 カーラは尋ねながらカバンに手を入れ、次の矢を取り出し、装填する。


 クリスティはこの隙を突き、ドレスのポケットから金属笛を取り出し、口元に近付けた。


 思い切りそれを吹く。強い木枯らしが吹き抜けたような音が響き渡った。


「――出でよ、地獄の番犬たち!」


 クリスティはここへ来る前、実家のクォーリア侯爵家に立ち寄り、精鋭のドーベルマン五匹を借り受けてきたのだ。橋の手前に待機させておいたので、この犬笛を聞き、賢い彼らはまっしぐらに駆けて来るはずだった。


 ……駆けて来る……はずなんだけれど……あれ? 来ないわね……?


 クリスティが小首を傾げていると、男五人が向こうのほうで、ぐったりしたワンコをそれぞれ一匹ずつ抱っこして、こちらに見せつけるように掲げているのが視界に入った。


「あー! なんてことするのよぉ! この人でなし! 犬殺し!」


「人聞きの悪いこと、言うんじゃないわよ」とカーラが眉を顰める。「私はわんちゃんが好きだから、危害を加えたりしないわ」


「何をしたのよ?」


「睡眠薬入りのおやつを食べさせた。――あんたのことはずっと見張っていたからね、ここに来る前に実家に寄って、犬を借りて馬車に連れ込んだのは知っていたの。あんたがどういうつもりでワンコを連れ出したのかは分からなかったけれど、誘拐する際に吼えられると面倒だと思ってね。薬入りの肉を急いで用意したってわけ。あのとおりよ。チョロイわね」


 畜生……! クリスティは臍(ほぞ)をかんだ。


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