第30話  対決① 罠


 ――祖父が亡くなってから、すでにひと月以上が経過している。悲しみは癒えない。いつ癒えるかも分からなかった。


 それでも日が昇り、目を覚まし、一日過ごして、日が落ちて……ということを繰り返していると、それなりに秩序を取り戻していくものだ。クリスティはウィリアムに悟られぬよう、身辺整理を始めていた。


 そんなある日、モズレー子爵家のメイドに呼び出された。なんでも、急ぎの用があるのだとか。彼女には複数の意味で『借り』があるので、クリスティは応じることにした。


 なんせ面会を求めてきた相手は、祖父の具合を逐一報告してくれていた、例のメイドなのだ。モズレー子爵家には長く勤めており、気心も知れている相手……クリスティはそう思っていた。つい最近までは。


 メイドが指定してきた場所は、ヨーク橋の上だった。王都南西に位置するこの橋は、造りこそしっかりしているものの、繁華街に通じていないため人通りが少なく、もの侘しい雰囲気がある。


 クリスティは少し手前で馬車を降り、一人、キビキビした動きで橋のほうに向かった。


 橋の途中には石造りのアーチが設けられており、その陰から一人の女がフラリと進み出て来た。クリスティが会うはずだったメイドではない。


 こちらを睨み据えているのは、黒髪の女。神経質そうな鋭角な顔立ち。――あれは凶悪暴力女の、カーラ・ミルズである。懲(こ)りずに夫ウィリアムのストーカーをしている、超暇人……クリスティは心の中で彼女をそんなふうに評した。


「やっぱりね」


 クリスティがげんなりしたように鼻の付け根に皴を寄せると、相手も負けず劣らず不快そうな顔付きになった。


「やっぱりね、って何よ。――不意を突かれたくせに。素直に負けを認めたら?」


「不意なんか突かれていないわよ」


 クリスティは『やだやだ』と言わんばかりに、右手を振ってみせる。それは焚火の風下で煙を払っているような仕草だった。


「お前ごとき三流モブ女が、私の不意を突けるとでも? 笑っちゃうわ」


「強がりはみっともないわよ! あんた、モズレー子爵家のメイドを信じて、ここまでノコノコやって来たのでしょう? ――ざまぁみろ! 騙された!」


 ポケットに手を入れたまま、顎を突き出し、挑発してくるカーラ。クリスティも負けじと言い返してやった。


「そっちこそざまぁみろ! やーい、フラれ女! 昔、ウィリアムに付き纏って、ばっさりフラれてやんの! 馬ー鹿、馬ー鹿!」


「なんですって? この!」


「おお怖、ヒステリー女は嫌ねぇ。わたくしみたいな神経の細い淑女は、あなたみたいなチンピラを前にすると、ブルブル震えちゃうのよ」


「暴力イカれクソ女がよく言うわ!」


 カーラが悪態を吐き、傍らのアーチを蹴飛ばす。怒り冷めやらぬ彼女はそのままぐるぐると回りながら足踏みをしていたのだが、少したってからクリスティのほうに向き直った。


「……本当に私がここに来ることを知っていたの?」


 探るような視線。クリスティは軽く肩を竦めてみせた。


「いやぁ、あなたが来るのを見通していたわけでもないのだけれど、何かの罠かな、とは思っていたの。あのメイドが大嘘つきだっていうのは分かっていたから」


「どうして? 彼女を信じて、ソーン病の特効薬を手に入れたんじゃないの?」


「そうね。馬鹿だった」


 苦い思いが込み上げてくる。――祖父に長年仕えてきたメイドが、よ? まさか彼の孫娘を騙すとは思いもしないじゃない? 忠義という概念は、もうどこにもないのかしらね? 世知辛い世の中になったものだわぁ……。


 クリスティは小さくため息をついた。


「祖父にソーン病の薬を渡したのに、それは効かなかった。そういうこともあるのかもしれないけれど、少し気になってね。祖父の主治医に確認したのよ。――そうしたら、祖父はソーン病ではなかったし、過去、そのような話をしたことは一度もないと言うじゃない? あのメイドは『旦那様が、主治医と話されているのを聞きました』と私に話したのに、奇妙なことよね」


「確かに、彼女は買収されていた」


 カーラが意地の悪い顔でこちらを眺めてくる。別にカーラの手柄ではないのに、クリスティが騙されたことがよほど嬉しいらしい。


「そう。あのメイドは、私を引っかけたの。だけどなんのために? 何が目的だったのか? 正直なところ、それがよく分からなかった。祖父が亡くなって、混乱していたのもあったしね。でも隣国――キーワードは隣国なのよね。――隣国の菫姫、それこそが全ての起点なのだと気付いた。ああ、私、馬鹿だったわ、と叫び出したかった。全てが菫姫に始まり、菫姫に終わる」


 ウィリアムから突き付けられた突然の婚約破棄。彼は菫色の瞳をした、美しい娘を連れていた。外国訛りがある、謎めいた令嬢、リン・ミッチャムを。


 あの時クリスティが予想外の行動を取ったために、婚約は破棄されることなく、そのまま継続されることとなった。――クリスティはリン・ミッチャムが何者であるかなど考えもせずに、ただ邪魔者として扱った。


 そもそも菫姫の存在自体が当国では有名ではなく、クリスティはそういった姫がいること自体知らなかったのだ。だからリンの菫色の瞳を見たところで、『もしや、隣国の姫……?』などと結びつけられるはずもなかった。(クリスティは単に、リン・ミッチャムの外国訛りに注意を引かれ、隣国出身では? と考えただけだった)


 隣国とは国交が途絶えていたし、菫姫のことを知らなかったとしても、クリスティが不注意だったというわけでもない。以前は皆、一律にそうだったのだから。


 『菫姫という存在の周知』と、『リン・ミッチャムがそうなのでは?』という見解は、セットにされて、一気に拡散された。時期的にはウィリアムが婚約破棄騒動を起こす、少し前のことだ。この筋書きはハモンド卿が描いた。


 ――実はクリスティ、『リン・ミッチャム、イコール、隣国の菫姫ではないか?』という噂を、長いあいだ知らずにいたのだ。というのも、クリスティがあまりに『苛烈』で『高貴すぎた』ために、彼女に、『あなたのダーリン――ウィリアムが熱を上げている相手は、たぶん隣国の姫ですよ。実は隣国には、菫色の瞳をした美しい姫がおりまして……』と耳打ちしてあげる命知らずが存在しなかったためである。


 そのためクリスティは当事者でありながら、何も知らずに暮らしていたことになる。彼女がそれを知ったのは、本当につい最近のこと。


 ――結局、リン・ミッチャムはクリスティの兄、クライヴと婚約することに。


 当国の貴族たちは、『恋のさや当て』を眺める気分で楽しんでいた。――隣国の美しい姫君(?)を、見目麗しい貴族子息が取り合っているのだ、面白いじゃないか、と。


 しかし菫姫の政敵には、別の構図が透けて見えたことだろう。ウィリアムとクライヴはジェラルド殿下の側近で、殿下はハモンド卿という、菫姫をバックアップする人物に協力している。


 菫姫の政敵は、ウィリアムかクライヴにコンタクトを取ろうとするに違いない。それは必ずしも、敵対的な態度ではないかもしれない。彼らをなんとか買収して、菫姫を裏切るように仕向けたほうが、ことはずっと楽に運ぶ。


 そしてウィリアムとクライヴ、そのどちらにも深く関係しているのが、クリスティだった。――だから敵はクリスティの欲しがるものを、鼻先にぶら下げることにした。隣国の王室でしか取り扱いがない、ソーン病の特効薬を。


「だけど、どうしても分からないの」クリスティは眉根を寄せる。「特効薬を手に入れようと私自身もアレコレ動いていたのだけれど、その時に、おかしな連中がすり寄って来たりはしなかったのよ。これってどういうこと?」


「それはあなたを焦らすため、ね。すぐに手に入ったら、ありがたみがないでしょう? 求めて、求めて、それでもだめで絶望していたら、親切な誰かが『私なら手に入れられますよ』と申し出てくる。――どう? あなたはその人になんでもしてあげたくなるでしょう?」


 確かにそうだ。けれどそうはならなかった。


「結局、ウィリアムが手に入れてくれたわ。――これって、どういうこと? ウィリアムは敵に買収されたの?」


「馬鹿言わないで! ウィリアム様は誠実で、素敵な方よ! そんな卑怯なことをするわけがないでしょ!」


 カーラはジェラルド殿下の邪魔をしているので、国を裏切っているわけだし、過去には友達だったシディの信頼も裏切っている。彼女自身はどんなに薄汚いことでもいとわない性分のくせに、ウィリアムについては、彼の清廉さを賞賛しているのだから、一体どういう感覚でいるのだろうか。――自分のことは棚に上げて、がいくらなんでも露骨過ぎないかしら?


「じゃあウィリアムはどうやってあれを手に入れたの?」


「ハモンド卿に頼み込んだのでしょうね。――菫姫本人は、隣国にまだ地盤を築けていないから、彼女にお願いしても薬は手に入らなかったはず。だけど菫姫を援助しているハモンド卿には、隣国に協力者がいる。だから彼に頭を下げて、手に入れてもらったのよ」


「そう……」


 ウィリアムらしいわ、とクリスティは思った。お人好しすぎて、将来が心配。


 彼は今回の件で、相当な恩をハモンド卿に売れたはずだった。だけどクリスティのせいで、その得点はどんどん減っていった。――初めの、クリスティに対する婚約破棄騒動。これを遂行できなかった件で、彼は窮地に立たされた。


 けれどそれはクライヴがフォローしたのね、きっと。クリスティは兄を疎み、あなたは冷たい人だと好き勝手になじった。けれど兄はクリスティの知らないところで、こっそり助けてくれていたのだ。


 クリスティがペナルティを受けないよう、兄が菫姫の婚約者に名乗りを上げた。幼い見た目のリン・ミッチャムに手を出したということで、二十五歳で、年齢より落ち着いた雰囲気のあるクライヴには、好奇の視線が集まることとなった。――彼には幼女趣味の気があるのではないか、と。けれどクライヴは黙ってそれに耐えた。


 祖父はクライヴのことを、『よくやっている、意外と優しいのだ』と言っていた。祖父はこのことを知っていたから、クリスティのほうから折れるように忠告したのだろう。けれどクリスティは聞き入れなかった。


 ――そしてやはり、クリスティに一番振り回され、わりを食ったのが、夫のウィリアムだった。クリスティがリン・ミッチャムに薬の件を話し、それがウィリアムに伝わり、彼はハモンド卿に頭を下げて、薬を手に入れてくれた。これでもしかすると、彼が今回頑張ったことは、チャラにされたかもしれない。


 ウィリアムはもっと賢く交渉することもできた。出世や名誉、金銭を求めるなど。けれど彼の努力は、ソーン病の特効薬と相殺されてしまった。


 ――祖父はソーン病ではなかったのに!


 クリスティがあの薬を渡した時、祖父は『私は別の病気だよ』と訂正しなかった。……できなかったのだろう。だって孫娘が、得意満面に、あれだけハッピーな様子で手渡してきたら、そんなこと言えるわけもない。祖父は不治の病だったから、今更何を言っても同じだと思ったのだろうか。


 ごめんなさい、お祖父様。クリスティは胸を痛めた。どんな気分だっただろう? つらい思いをさせてしまった。


 だけどもう、ごめんなさいも言えないの。クリスティは祖父に告げることができなかったいくつかの言葉を、これから先もずっと、胸に抱えて生きて行く。


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