第29話 『愛している』と伝えればよかった


 自宅に戻ると、ウィリアムが出迎えてくれた。――こんな時ばかり、夫らしいことをしなくていいのにと、クリスティは少し恨めしく思った。


「あらダーリン、私と離れ離れになって、寂しかったのね?」


 空元気を出してウィリアムにそう告げて、彼のそばをすり抜けようとしたら、腕を掴まれてしまった。強引さはなく、しなやかな手付きだったから、クリスティはかえってそれを負担に感じた。彼がもっと無神経に扱ってくれたなら、思い切り振り払ってやれたのに。


「何かあったのか?」


「何もないわよ」


「だけど」


「あなたへの嫌がらせを考えているのだから、簡単に手のうちを明かしたりしないわ。……ねぇ、私、着替えるから」


 彼の腕を外してから、野山を駆ける子鹿のように、一人、軽やかに階段を上って行く。自室に入り、後ろ手で扉を閉めたところで、はぁと一気に力が抜けた。


「ウィリアムには言えないわ……」


 彼には以前、コリンのことで脅しをかけられたことがある。つまり彼は同性愛者に対して、ネガティブな感情を持っているということだろう。


 今夜は色々あって頭がぐらぐら煮詰まっていた。中でも一番ショッキングだったのが、コリンが危険だという話だ。


 ――彼が異端審問にかけられたら、どうしよう? 自分が静観できるかどうか自信がなかった。けれどクライヴの言うとおりで、コリンのためにアクションを起こせば、クォーリア侯爵家全体に危険が及ぶ。


 こういった政治的な判断は夫のウィリアムのほうが得意だから、本来ならば相談して意見を聞きたいところだった。


 けれどそれはできない。


 ――彼に愛されていないから、こういう時に頼ることは許されていない。甘えてはいけないし、きっと彼は受け止めてくれないわ。彼女はそう考えていた。


「……お願いだから、優しくしないでよ」


 クリスティは眉尻を下げ、小声で泣き言を漏らした。クリスティは世界で一人ぼっちような心細さを感じていた。





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 ――悲しい知らせを受けた時のことを思い出すと、どうでもいいことが印象に残っていたりするわよね。


 私はあの日見た空の色が忘れられないの。今でもはっきりと思い出せる。……いっそ雨なら良かったのに、と思うくらい。


 空は深いほどの青で、雲はあまりなかった。陽光がキラキラと輝いていた。まどろむような、穏やかな午後。


 ウィリアムが温室に入って来て、花を眺めていた私に『クリスティ』と呼び掛けた。その呼び方で、振り返る前に、何かよくないことが起こったのだと分かった。


 歩み寄って来た彼が、対面で何か言っている。暖かな景色の中、彼の瞳だけが曇り空だった。


 よろけた私を彼が抱き留める。私はウィリアムに縋りつき、彼の肩に額を埋めた。


 ――大好きなお祖父様は、天国に行ってしまったの。


 どうして? どうして? 私はウィリアムに縋りつき、何度もそう問うた。実際に言葉に出していたかは分からない。私は泣きじゃくっていたから。


 頭の中は嵐だった。私は子供のように泣いた。もう一生分泣いたと思う。


 お祖父様は私に『寛容さが足りない』と忠告してくれた。そのとおりだわ。私は寛容さを持たず、怒ってばかりいたせいで、取り返しのつかない失敗をしてしまった。


 どうして私はお祖父様と最後に会った時、『愛している』と言わなかったのかしら?


 世界で一番大好きなお祖父様と、喧嘩別れしてしまった。――私は彼に伝えなかったの。『愛している』と伝えなかった。


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 ――ねぇ、ほら、一年戦争も、もうすぐ終わりを迎える頃よ。冬が終わろうとしている。


 そろそろ前へ進むべきね。勇気ある前進。


 だけど道がなかったら? ――その時は、思い切って飛び下りてみるのはどうかしら。遥か下に水面が見えたなら、一か八か。運が良ければ押し流されて、大海に出られるかもしれないわよ。


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 クリスティは読みかけの本を開き、途中に挟んであった栞を取り出した。ピンクの押し花が挟まれた、ガラスプレート。


 ウィリアムが初めてクォーリア侯爵家にやって来た日付が刻印してある。


 寛容さを身に着けなさい――クリスティは祖父の教えを守ることにした。私には、他者に対する思い遣りの心が足りていなかったわ……彼女はそんなことを思った。


 とにかくウィリアムには悪いことをした。


 手に持っていた栞を愛おしげに眺めおろす。――バイバイ、ウィリアム。クリスティはそれをゴミ箱に放り込んだ。


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