第20話 ウィリアムのピンチが続く


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 ――物理的な距離と、精神的な距離って、比例するのかしら? 彼の体温を感じられるくらいの距離で過ごしたら、何かが変わる? それとも変わらない?


 変わるとしても、悪化するケースもあるかもしれないわね。


 それで、私たちはどうだったのかしら。――解釈は、人それぞれ。


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 ルビー・クリビンスの仕事ぶりは見事なものだった。次のカウンセリングで、彼女はウィンタース夫妻の寝室に立ち入ると宣言したのだ。


 ――寝室といえば、夫婦の聖域。部外者がそうやすやすと入り込んでよい場所ではない。


 ウィリアムは当然これに反発した。しかしルビーにはそうする権限があった。彼女はやりたいようにやる。そういう契約になっているからだ。


 クリスティは夫を横目で眺め、『あらあら、浮気夫は後ろ暗いことがあるから、こんな時は大慌てねぇ』と他人事のような感想を抱いていた。


 そしてクリスティからすると、ウィリアムの窮地はまさに他人事であり、なんならこの件でルビーがまた夫の持ち点を減らしてくれれば、『彼を丸裸にしてやる計画』がさらに前進するわけだから、どちらかといえば望ましい展開なのである。


 クリスティは華やかな笑みを見せながら、


「こちらですわ! さぁどうぞ、いらっしゃって」


 とノリノリで寝室まで彼女をいざなうことにした。


 しかし二階に上がったところで、クリスティの足がピタっと止まってしまう。……あれ、どこだったかしら? 扉がいっぱいあって、クイズみたいだわぁ。


 するとウィリアムが彼女の腰に手を当て、


「――こっちだ」


 と小声で告げてきた。


 クリスティはぱちりと瞬きし、隣を歩くウィリアムの端正な横顔を見上げた。彼はもう諦めがついたのか、顔を顰めてもいなかったし、取り繕って笑みを浮かべるでもなかった。真顔で、ただ淡々とした態度だった。


 彼が歩くと金色の髪がさらりと動き、日向に飛び出した時のような、あの明るい輝きを思い出す。付き合っていた時に、リンは彼の髪に触れたのかしら……クリスティはふと、そんなことを思った。


 クリスティもウィリアムも、夫妻の寝室に入るのは、これが二度目のことである。彼らがここに立ち入ったのは、初回、新妻クリスティを案内した、あの一度きり。彼らにはそれぞれ自室があり、家庭内別居をしているから、二人のための寝室など必要ない。


 ベッドは部屋の中心よりも、少し窓寄りの位置にあった。――落ち着いた色合いの寝具を眺めおろし、クリスティが呟きを漏らす。


「このシーツの色、好みだわ。私のベッドもこの色に――」


 クリスティの独り言は大変危険だった。『ここ以外の、私のベッドでいつも寝ているのです』と言っているわけだから。


「クリスティ」ウィリアムが耳元で囁く。「黙ってくれ」


「あら、どうして?」


「僕はあと九点しか持ち点がないんだぞ! 妻である君が、普段ここで寝ていないことを仄めかすな」


 ポイントを死守せねば、ホームレス生活が幕を開ける。ウィリアムは少々焦りながら、室内を点検しているルビー・クリビンスの姿を流し見て、傍らのクリスティに言い聞かせなければならなかった。


「ものは考えようよ? あと九点もある! と思わなくちゃ」


「君も減点されてみろ! 同じことが言えるかどうか」


「だって私、良い子だもの。減点されるいわれがないわ」


「どこがだ。夫に対して反抗的、非協力的だろう」


「あら、びっくり」クリスティは頬を膨らませ、ウィリアムを見据える。「あのね。私、ここに入って来た時、声を大にして、『入るのはすごく久しぶり、二度目なの!』とルビーに告げ口してやってもよかったのよ。かばってあげたのに、恩知らずだこと。あなたは感謝すべきだわ」


「う……まぁ確かに」


「私の親切心がやっと理解できた?」


「そうだな」


「貸し一、ですからね。というわけで、今日のディナーは、外食にしましょう。人気店のリデルでご馳走してもらうわ。――OK?」


「分かった」


「恩に着る?」


「恩に着る」


 クリスティはこの『繰り返し』がとても気に入った。


「リピート・アフタ・ミー! ――わたくしめは」


「一体、何がしたいんだ」


「いいから、ほら」


 クリスティが手を大きく振り、ジェスチャーで『繰り返せ!』と煽る。ウィリアムは渋々これに従った。


「……わたくしめは」


「どうしようもない」


「どうしようもない」


「クズな女たらしです」


「……この、くそ女」


 ウィリアムが吐き捨てると、クリスティは「先生! ルビー先生!」と挙手をした。


「あら、どうしたの? クリスティさん」


「うちの旦那様ったら、最低なんですぅ! というのも」


「待った、クリスティ!」


 ルビーのほうに歩いて行こうとするクリスティを、ウィリアムが後ろから抱き留める。クリスティの首下に右腕、お腹のあたりに左腕を巻きつけて、彼女の肩に顔を埋めるようにして、懇願する。


「なんでも買ってやるから、告げ口しないでくれ」


「なんでも? じゃあイヤリングが欲しいわ」


「分かった」


「エメラルドよ。私に似合うものを、あなたが選んで」


「OK」


「石は透明度の高いやつね」


「いくらかかってもいい。君ならどんなものでも似合うだろうから、買われる宝石は幸せだろうよ」


「あらそう。――愛しているわ、ダーリン」


 クリスティはニコニコ顔で機嫌を直した。ウィリアムは彼女の体に回した腕に微かに力を込め、後ろからきゅっと抱きしめ直した。


 ……どういうわけか、しばらくのあいだウィリアムは、クリスティの肩に埋めた顔を上げなかった。


 宝石の出費が痛いから、落ち込んでいるのね、きっと……クリスティはそんなことを考えていた。


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