第19話 恐怖の朗読会


 後日。


 二人は本を持ち寄り、ルビー先生立ち合いのもと、読み合わせをすることになった。場所は先日の客間である。


 夫妻が長椅子に腰かけ、ルビーは対面の席に着いて、瞳をキラキラと輝かせていた。このカウンセラーは心底楽しそうだな、とウィリアムは思った。


「――ではクリスティさんから始めましょうか」


 骨ばった手をパン、と叩き、ルビーが気取った仕草でクリスティを促す。


 クリスティは口元に笑みを浮かべ、深緑色をした革装丁の本を持ち上げた。


「この本は、人生における大切な気付きを与えてくれます。――タイトルは『愚か過ぎた男 ~命尽きる時、彼は蠟燭の炎の中に、何を見たのか~』。読む前に簡単に説明しますと、『ビリー』という名前の、粗忽(そこつ)な大間抜け男が、ある女性に不義理を働いた結果、しっぺ返しを受ける物語です。――ビリーは踏んだり蹴ったりの人生を歩み、泥水をすすり、惨めにめそめそ泣きながら老いさらばえていきますが、最期は屋根裏部屋で、うっかりネズミ捕りの罠に足を挟まれてしまい、そのまま脱け出すことも叶わず、一人寂しく死んでいくんです」


 『ビリー』という名前を聞いたウィリアムは、ピクリと肩を揺らしていた。一般的に、ウィリアムの愛称は、ウィル、ウィリー、そしてビリーも該当する。これは絶対に偶然ではあるまい。


 クリスティは背筋を伸ばし、本を音読し始めた。彼女の落ち着いた艶のある声が、不思議な悲しみを誘いつつ、部屋の中に響いた。


『ビリーはとんでもなく愚かな男でした。彼はなまじ顔だけは良かったもので、周囲にチヤホヤされ、その甘ったれた性格が矯正されぬまま、不幸にも大人になってしまったのです。――彼はある日、美しい少女、リリーに出会いました。ビリーがフリーの立場だったなら、このリリーと幸せになる権利もあったでしょう。しかしビリーには婚約者がおりました。婚約者のクリスは一途で、貞淑な女性でした』


 ウィリアムがぐい、と近寄ったため、クリスティは眉根を顰めて彼の肩を押しやった。


「ちょっと、何よ? ルビーさんが居る前で、戯れはおやめになって?」


「別にムラムラして近付いたわけじゃない」


「はいはい、もう、意地張っちゃってぇ。難しいお年ごろね。反抗期?」


「僕を何歳だと思っているんだ!」


「いい子にしていたら、あとで太腿を触らせてあげますからね」


「――クリスティ!」


 冗談の通じないウィリアムは頬を赤らめて声を荒げる。クリスティは憐れみを込めて隣を見遣った。


「あなたってなんて落ち着きがないのかしら。太腿くらい、リンに沢山触らせてもらったでしょうに」


「馬鹿を言うな。そんなこと、するわけないだろ」


 生真面目にウィリアムがそう言い返してきたもので、クリスティはパチリと瞬きして、まじまじと夫の顔を覗き込んでしまった。


「え、やだ、嘘、本当に?」


「なんで未婚の令嬢の太腿を揉むんだ。どんな流れでそうなる?」


「――ほら、ダーリン、触っていいわよ? って言われなかった?」


 クリスティが自身のドレスの裾を摘まみ、大胆に引っ張り上げたもので、彼女の引き締まったふくらはぎや、形の良い膝小僧がさらけ出された。


 ウィリアムは反射的に彼女の手を取り、ドレスの裾を下げさせた。


「馬鹿者! 何をしとるんだ」


「ジョークじゃないのぉ」


「どこがジョークなんだ、太腿まで裾を上げやがって!」


「言葉遣いが乱れていてよ? 旦那様」


 二人がいちゃいちゃ(?)しているのを、対面のルビーが膝の上で頬杖を突き、ニヤニヤ笑いを浮かべて眺めている。それに気付いたウィリアムは気まずい思いをしながら咳払いをして、体勢を直した。


「――クリスティ、それ、本当に書かれているのか?」


「何が?」


「本を一冊持って来て、お前がたった今適当に創作した話を、言葉に出しているだけだろう?」


「あら、失礼しちゃう」


 クリスティが本を差し出して来たので、文字を目で追うと、確かに『粗忽な大間抜け男、ビリー』の物語が綴られている。


 ウィリアムはぞっとした。……なんだこれ? 怖すぎる……。


 それから地獄の十五分間が流れた。ウィリアムは『ビリー』がネズミ捕りの罠にかかったあたりで、すっかり俯き、ブルーな気持ちになっていた。ちょっと泣きたくなってきたほどだ。


『ビリーは死ぬ前に、自分の人生を振り返ってみました。――おお、私はなんと愚かで、粗忽だったのだろう! 彼は愕然としたのです。あんなに聡明で、親切で、私を愛してくれたクリスを捨てて、若いリリーに走ったばかりに、こんな目に! なんということだ! オー・マイ・ガー! ネズミ捕りに挟まれた右足は、すでに感覚がありませんでした。彼には最期の時が迫っていました。屋根裏部屋に入った時に持ち込んだ燭台の蝋燭は、もうなくなりかけています。――ビリーは悟りました。あの炎が消えた時、私のこの苦しみも、終わるのだろう。彼はオレンジ色の炎を覗き込みました。するとその中に、幸せな家族の団欒(だんらん)風景が見えました。彼が浮気をしなかった場合に、辿ったであろう、別の人生です。年老いた彼は、貞淑な妻クリスと食卓を囲み、楽しそうに過ごしています。息子、娘、孫も遊びに来ていて、にぎやかです。――けれど現実はどうでしょう? ビリーは空腹に震えながら、薄暗い屋根裏部屋で、ネズミ捕りに足を取られています。どん底です。惨めです。けれどビリーは最期まで、どうしようもないやつでした。炎の中に浮かぶ食卓のビーフシチューを眺め、『わしはビーフシチューよりも、クリームシチューが好きなんじゃが……クリスめ、馬鹿嫁め、鞭打ってやりたい』と、気持ちの悪いモラハラ発言を残して、そっと目を閉じました。めでたし、めでたし』


「――めでたいことあるか!」


 ウィリアムがブチ切れると、クリスティが『あらあら』と、憐れみを込めた目でこちらを流し見てきた。


「創作物にブチ切れぇ……引くわぁ……」


「作者誰だ!」


 表紙をめくると、作者名が『C』となっている。――C――クリスティ!


「書いたのは、お前か! 手の込んだことしやがって」


「ルビーさん、お聞きになりまして? うちの旦那様ったら、妻のことを『お前』呼ばわりですの。私の細やかな神経は、こういうことで参ってしまうんですわ」


「確かに『お前』呼ばわりはないですね。モラハラ気質――減点一」


 ルビーが手帳にメモしているのを眺め、ウィリアムは『なんだこの、あと出しルール』と寒気を覚えた。


「減点一、ってなんですか」


「十点引かれると持ち点ゼロとなり、あなたの負けです」


「負け?」


「財産没収。クリスティさんに全財産が渡ります」


「そんな話、聞いていない!」


「だから今、聞いたでしょう?」


 ルビーは真顔だ。


 ウィリアムは段々と血の気が失せてきた。……これまで気付いていなかったのだが、もしかすると自分には本当にモラハラ気質があるのかもしれず、十点くらいなら、簡単になくなってしまいそうだと思ったのだ。


「ウィリアム」クリスティが慈悲深さを装い、優しく声をかけてきた。「老後は、屋根裏部屋に近寄ってはだめよ? くれぐれも足元には気をつけて」


「恐ろしいわ、やめろ」


「今のうちから、ネズミ捕りから脱出する方法を学んでおくべきね」


「学ばんでもできるわ」


「でもビリーは死んじゃったからぁ」


「僕はビリーじゃないぞ!」


「そう思っているのは、あなただけなんですけどね」


 とクリスティが言えば、


「ね! 呑気~」


 とルビーが鼻で笑う。


 どこにも中立性が見つけられない。ウィリアムは逃げ場がなかった。



***




 今度はウィリアムの番だった。彼はある詩集を持ち寄っていた。


 ウィリアムは自身と同じ名前の詩人が記した、一編の詩を朗読した。




 目も眩むようなかつての輝きは


 私の前から永遠に消え去り


 鮮やかに広がる草原、満開の花


 ふたたびそれが戻ることはないけれど


 嘆くことはない


 あとに残されたものの中に力強さを見い出すのだ




 この詩があまりに素敵だったので、クリスティは胸がジンとしたのだが、ウィリアムにそう告げるのは癪であったので、なかったことにした。


 ルビーも無言だった。――ケチの付けようがないと感じたからだ。





【後書き】


 ※ウィリアム・ワーズワースの詩を引用しています。和訳は私のアレンジです。

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