第10話 甘くない結婚式
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――夏。いまだ膠着状態。
私はしばらくのあいだウィリアムとの接触を断っていた。
そうしていても、チクタク、チクタク……時計の針は進んでいく。二人の結婚式は日取りがすでに決まっていて、それは現状、取り止めになってはいないのだ。
心がすれ違ったままでも、婚約状態は継続されている。
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祖父が吐血したらしい。
クリスティはそれを、モズレー子爵家のメイドから聞かされた。
基本的に、クリスティが祖父と会うのは、月に二度。場所は下町で。これはずっと続いている習慣だ。
ところがクリスティ的に、この頻度では用が足りなくなってきた。祖父の具合が悪いようだと悟った彼女は、もっと頻繁に会いたいと考えた。そこで祖父に、モズレー子爵家のほうに時折遊びに行っていいかと尋ねてみたのだが、断られてしまった。
「そうやって君に心配されるとね、『おや、もしかして私は悪い病気なのかな?』と暗示にかけられそうなんだ。クリスティ――私と会う時間を増やせるのなら、それを使って、もっと君自身の世界を広げるべきだと思う。君がまだ出会えていない、優れたものは沢山ある。素晴らしい絵画や、心躍る音楽、新しい友人――そういった出会いのチャンスを逃すべきじゃない。老いぼれのアドバイスは聞いたほうがいいと思うよ。……お願いだ。私の体調を気遣うのは、どうかやめてくれ。私がつらくなってしまうから」
クリスティは祖父の希望を聞き入れ、『月に二度、下町で会う』という習慣を継続することにした。それでも彼の様子は気になったものだから、こっそりとモズレー子爵家のメイドと外で会うようにして、定期的に情報をもらっていたのだ。
「旦那様が、主治医と話されているのを聞きました。――いくつかの症状が合致するので、おそらく『ソーン病』ではないかと」
「治るのよね?」
「不治の病です。ですが……西側の隣国には特効薬があるのだとか」
「なんとしても手に入れるわ」
「ですが隣国とは国交が途絶えていますし、王室が管理している薬のようなので、どうあっても入手不可能とのことでございました」
メイドはハンカチで目頭を押さえた。モズレー子爵家に長く勤める彼女も弱り切っているようだ。大柄な彼女が、頑健そうな体を縮こませている様子は、なんとも憐れを誘った。
「……旦那様は口には出しませんけれども、クリスティお嬢様の結婚式を楽しみにしているようです。それが支えになっているのではないかと」
クリスティは言葉もなかった。
祖父が吐血したというのがショックすぎて、何も考えられない。
――ただ一つはっきりしているのは、クリスティは絶対に結婚しなければならないということ。
結婚話が潰れたなんてことになったら、祖父をとんでもなくがっかりさせてしまう。それで病勢が亢進(こうしん)するようなことは避けなければならない。
***
相手方、ウィンタース家の希望により、結婚式は内々に行われることになった。
ささやかな式だろうがなんだろうが、クリスティはちっとも構わなかった。祖父が出席してくれて、祝ってくれるのだから、それだけで幸せな気持ちになれる。
神父の前で誓約をして、指輪を交換し、誓いのキスをすることに。
――向かい合った彼は少し躊躇ってから、クリスティの額にキスを落とした。
クリスティは見守ってくれている祖父のほうを眺めたあとで、何か悪戯を思い付いたような顔で、ウィリアムのほうに手を伸ばした。彼のタイに指を引っかけ、自身のほうに引き寄せる。彼は下方に引っ張られて、背を丸める形となった。
背伸びをして、彼の唇にキスをする。
ウィリアムが動揺したのが分かった。クリスティは彼からあっさりと離れると、小悪魔的な仕草で彼を見上げ、美しく口角を持ち上げた。
「――キスはこうやるのよ、お馬鹿さん」
彼のなんともいえない困り顔。眉根を微かに顰め、何か言いたげに瞳を揺らし、照れたように頬に朱が差している。
これが本日のハイライト。あとは粛々と。……ただ粛々と。
クリスティは結婚証明書にサラサラとサインをし、『これで私たちは夫婦なんだわ』と考えていた。けれど――どうしてだろう。これが正しいことだと思えない。
『何かが足りていない』というよりも、『逆に、何か足りているものが一つでもあるのだろうか?』というような状態だった。
傍らに佇む彼は、恋するような瞳で花嫁を見つめてこないし、甘い台詞を告げてもこない。――クリスティはクリスティで、彼のことをこれっぽっちも信じることができずにいた。
サインを終え、ペンを置いたあとも、びっくりするほど感情が揺れなかった。
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