第2話 愛する人
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彼との縁ができたのは、春――
たぶん二人は出会う前からしっくりきていなかった。見通しは暗く、嵐の予兆があった。
……私は傲慢であったかしら? それについては今でも時々考える。確かにそうだったかもしれない。あの頃の自分は、彼を好きに扱っていいと思い込んでいた。
計算外であったのは、ウィリアムがこちらを拒絶したこと。
この一年戦争の始まりは、意外にも、愛から始まる。そう――私は祖父を愛していた。この世界で一番愛していたのだ。
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祖父と会うのはいつも下町だった。その時ばかりは二人とも、『モズレー子爵』と『クォーリア侯爵令嬢』という肩書を外し、変装をして、庶民のふりをして会う。
なぜわざわざそんなことをするのか? ――不思議に思われるかもしれないが、これはもうそういうものだとしか説明のしようがない。理由はあるにはあったけれど、そんなに深い背景はなかった。これは単にクリスティと祖父の悪戯心が働いた結果だといえた。
クリスティは祖父の顔を見るだけで安心できる。彼は上品な面差しをしていた。平均よりもかなり鼻が高くて大きく、そこだけ自己主張が激しいのだが、瞳がとても優しかった。年とともに増えた目元の深い皴が、クリスティを眺める時に、さらに深まる。
彼が時折顎を引き、物思うように頭を傾ける、あの感じが好きだった。
祖父は肥満体ではなかったが、背がとても高く、骨格もしっかりとしていた。食欲も旺盛なほうで、若い人顔負けによく食べる人だった。
下町にある大衆食堂に入り、メニューを眺めていたクリスティは、祖父の様子がおかしいことに気付いた。
「ねぇ、具合が悪いの?」
心配になって尋ねると、祖父は柔らかな笑みを浮かべてみせた。なんとなく無理をして笑っているようにクリスティには感じられた。
「そんなことはないよ。ちょっとここへ来る前に、食べて来てしまったものだから」
――嘘だ、とクリスティは思った。ここで会うことを約束してあったのだから、そんなことをするはずがない。
よくよく観察してみると、顔色があまり良くないことに気付く。
クリスティは手を伸ばし、テーブルに置かれた祖父の手に重ねた。ひやりとした感触。その冷たさにたじろぐ。血行が悪いのだろうか。
クリスティは心細さを感じた。当たり前にずっと続くと信じていたものが、ガラガラと音を立てて崩れていくような感じ。
彼女の眉尻が下がったのを見て取ったらしく、祖父が空(から)元気を出す。
「ほらほら、いいから好きなものを選びなさい。君が沢山食べているところを見られれば、私はとても元気になるよ」
クリスティは祖父がそれを本当に望んでいると悟ったので、にっこり微笑んでみせ、よく食べ、元気に振舞った。
いつもは美味しく感じるはずなのに、この日は味が全く分からなかった。
***
クリスティは王宮勤めの兄に会いに行った。
「――私、結婚するわ」
彼の執務室に入り、彼女がそう言うと、案の定、兄は呆れ顔になった。
クリスティから見て兄のクライヴは『頑固な偏屈者』に他ならなかった。高慢で頑固なクリスティが『気難しくて嫌なやつ』と思うくらいだから、相当な変わり者であるのか――あるいは逆に、常識人であるがゆえに、自由奔放なクリスティとは対極の位置にいるだけなのか。これは双方に言い分がありそうである。
クリスティからすると、兄は性格も陰気であるし、見た目も地味だった。
彼は髪色も瞳もブラウンで、そう目立つ要素はない。顔立ちはパーツをよく見ると整っているのだが、少し下がった眉と瞳が、彼の印象を曖昧模糊としたものに変えていた。そのせいで『なんとも掴み所のない人』という感じがするのだ。
彼は、女性から『ハンサム』とは言われず、『キュート』と言われるタイプだった。ただこれもまぁクリスティからすると、『この男のどこにキュートさがあるのか』と言いたいところではあったけれど。
兄は書類を忙しなく束ねながら、ちらりとこちらを流し見てきた。
「どうした。頭でも打ったか」
「私は健康よ。判断力も記憶力もしっかりしている」
「どうだか」
「それじゃあ白状するけれど、あなたの十五歳の誕生日に、ベッドにニシキヘビをこっそり入れておいたのは、私よ。――あれ、従兄のせいにしたけれど、犯人は私」
兄は一瞬仕事の手を止め、引き攣った顔でこちらを凝視してきた。クリスティは兄にダメージを与えることができて、とても満足した。
「おい、いい加減にしてくれ! 僕はお前と違って忙しいんだ!」
「やだ、いるわよねぇ……世界で自分だけが忙しいと思っているやつぅ」
「なんつー言い草だ、忌々しいな! 僕はもっと可愛げのある妹が欲しかった」
「可愛いじゃないの。ほら、とびきりの美人でしょ。あなた視力、大丈夫?」
「外見じゃなくて――」
「あなたラッキーよ、こんなに美しい妹がいて。感謝なさいな」クリスティは真顔でそう言い放ち、「ねぇ真面目な話――お祖父(じい)様の具合があまりよくないみたいなの。彼を元気付けたいのよ、私」
「モズレー子爵の具合が悪いのと、お前が結婚するのと、何がどう繋がるのかまるで理解できん」
「以前お祖父様が、『孫の花嫁姿を早く見たい』って言っていたのを思い出して」
「いやあのな、お前は結婚する前に、まず常識を身に着けるべきだ」
これを聞いたクリスティは体をくの字に折り、爆笑していた。
「う、け、るー! この常識人に向かって、常識を身に着けろ、ですって! クライヴがこれまでに口にした冗談の中で、最高傑作だわー」
「……今のはジョークじゃなく、本音なんだが……聞く耳を持ってくれ、頼むから」
「それでね? 私ってまだ婚約者もいないじゃない? あなた、良い相手を知らないかと思って」
クリスティは十八歳であるが、このとおり性格がアレなせいか、まだ婚約者がいなかった。
「イカレ娘とは会話が成立せんな……。僕は頑丈な木箱を買って、お前を詰めて、国外に出荷したいよ」
クライヴはこの不毛なやり取りに心底うんざりしたらしく、机上の書類をかき集め、そそくさと席を立った。
「とにかく僕は、お前の犠牲になる可哀想な青年を見付けてやるのは、御免こうむるからな。――とっとと帰ってくれ」
帰れと言ったくせに、彼のほうが執務室から出て行ってしまった。
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