5
遠く離れた水平線近くで、船がゆっくりと南下しているのが見えた。西の海は鮮やかな橙色に染まり、時折穏やかな風が、潮の匂いを運んでくる。昨日までこの島で起きた騒乱が、まるで夢だったかのような寂静であった。
実際、羊は白昼夢でも見ている気分だった。
由高教授が死体で発見された。
自らの犯行を認める遺書を残して。
羊は由高教授とはそれほど親しい訳ではなかった。しかし、快活で、どちらかというとワイルドなアウトドア派を思わせる彼女が、これほどまでに悩んでいたとは思いも寄らなかった。確かに扱っている研究対象は人身御供やキリシタンの迫害など、後ろ暗いものではあったけれども、それでも教授は人前ではいつも明るく振舞っていた。
案外人に弱音を零せないような人間ほど、内に抱え込んだ闇も濃くなるのかもしれない。少なくとも木村刑事に見せてもらった遺書の内容は、普段の教授の姿からは全く想像もつかなかった。
南下していた船がゆったりと島の向こうに消えた。夕刻。羊は1人、小さな灯台のある岬に立っていた。此処から教授が飛び降りたのだ……そう言われても、何と感想を持てば良いのか分からなかった。
さらなる捜査の結果、教授のバッグからは、血のついたシャツや犯行時に使ったと思われる軍手などが見つかったらしい。どうやら異論を挟む余地はなさそうだった。犯人は六門島出身の大学教授……ということで落ち着きそうだった。
当てもなくただぼんやりと、絶壁に打つかり飛沫く白い波を見つめていた羊は、やがて目を伏せて踵を返した。
明日にはもう帰らなければならない。正直に言ってもうそんな時間かと驚いた。一週間が慌ただしく過ぎて行き、本当にあっという間だった。トボトボと民宿へと戻る道すがら、唐突に前方から叫び声が聞こえて来た。
顔を上げると、見知った老人が目に入った。村長だった。向こうから両脇を屈強な警察官に挟まれた、沼上村長が連行されてくる。その両腕には銀の錠がかけられていた。
沼上村長が、一体何の罪に当たるのか知らないが、死体の斡旋や、葬儀代の詐欺などでしょっぴかれているようだった。
さらにその後ろから、同じく手錠をかけられた白装束の男たち……恐らく教団の幹部だろう。こちらは『臓器移植』の件だろうか……と、彼らに縋る、大勢の信者たちが追いかけて来ていた。皆一様に涙を流し、裸足のまま幹部たちにしがみ付こうと、必死に手を伸ばしている。
奇しくも場面は逢魔刻。まるで百鬼夜行のような、異様な光景だった。羊は思わず脇に避け、その場で一行が通り過ぎるのを見送った。
村長はじりじりと、足を引きずるような速度で羊のそばまでやってくると、
「……かね?」
「……え?」
ふと足を止めて、その乾ききった瞳でジロリと羊を見据えた。
「これで満足か、小僧? 探偵ごっこは気が済んだかね?」
「…………」
「『神も仏もない』……か。フン。それが『真実』だとでも宣うつもりか」
「…………」
村長は目を細めると、その場で顎で後ろを指した。
「……少なくとも
「…………」
「神を信じることは愚かかね? それで、貴様らの暴き出した『真実』とやらは、一体誰を救ってやれるんじゃ? 拠り所を失い、これから路頭に迷う此奴らを、貴様はどうやって泣き止ませるんじゃ? ええ?」
「牧師様ーッ! 行かないでください!!」
「どうか……どうか我々をお導きください……!」
「我々に赦しの言葉を……お願いします、牧師様……ッ!」
「おお、見ろ此奴らを。フッ……」
背後から次々と慟哭が湧き上がる中、村長が揺れる羊の瞳の奥をじっ……、と見つめた。
「……神を信じるより、人を信じる方が、よっぽど愚かだと思わんかね?」
信者たちの大合唱は、瞬く間に積乱雲のように広がり、そこらじゅうで降り注いだ。苛立った警察官が負けじと大声を張り上げ、縄についた村長たちを引っ張っていく。村長たちは最後まで不遜な態度を崩さなかった。泣き声はそれからしばらく、羊が民宿に帰ってからも、しばらく止むことはなかった。
「信じてたわ! 荒草くん!」
羊が民宿に帰ってくると、玄関先で待ち構えていた風音が飛びついて来た。
「概ね荒草くんの推理通りだったわね! さすが名探偵……」
「……僕は何もしてないよ」
「……どうしたの? 元気ないわね」
「いや……うん。確かにちょっと落ち込んでる」
羊は話すべきか迷ったが、やがてポツポツと先ほどの村長との会話を風音に話して聞かせた。風音はしばらく黙って聞いていたが、羊が語り終わると、小さく肩をすくめた。
「全く宗教って、そう言うところ不健全だと思うわ。一度入信したら生涯信じきらないといけないなんて。イマドキもうちょっと臨機応変に、サブスクみたいにできないのかしら」
「サブスク……って??」
「月額数百円で、世界中の神信じ放題。今日は天国に行ったり、明日は極楽に行ったり。もちろん気軽に退会できるの」
「はぁ」
「まぁそれは冗談として」
正統派クール系美女で知られる黒上風音が、慣れない冗談で励まそうとしている。それが何だか嬉しくて、羊も少し落ち着きを取り戻した。
「それに……そうね。教授もあんなことになっちゃったし……私、ミステリィ小説は好きだったけど、実際に人が殺されたら、本当に怖くてしょうがなかったわ」
「うん……」
「……戻りましょう。ね、大学に戻ったら、今とは全然違うことしましょうよ。少なくとも、人が殺されない話をしましょう?」
「うん。いいよ」
それから2人は笑い合い、やがてそれぞれの部屋へと戻って行った。
羊が部屋に戻ると、沖田は部屋にいなかった……が。
が、人影があった。
誰かが部屋の中で羊を待っていた。羊は目を丸くした。
ソイツは、羊の布団に寝そべり、聖書を逆さまに持って時々頷きながら、薄ら笑いを浮かべていた。
「お前は……!」
「やぁ」
小柄な体格。青白い肌。腰辺りまで伸ばした真っ白な髪。着ているのは何故か高校時代のセーラー服だった。いや、そもそもソイツは高校時代から見た目も中身も一切成長していなかった。
何故ならソイツは、おりょうさんと同じく元々人間ではなかった。羊は思わず叫んだ。
「淀橋兎彦!」
淀橋兎彦。
おりょうさんと同じ、高校時代の羊の友人。
いや、友人というのは向こうが勝手に言ってるだけで、羊としては全くそんなつもりはないのだが……とにかく。
元々幽霊・淀橋兎彦……いや今は色々あって因幡兎子となった彼女が、何故かそこにいた。兎子は布団に寝そべったまま、逆さまに羊を見上げると、ますます薄気味悪い笑みを浮かべた。
「おかえり荒草羊くん。相変わらず愚かだねぇ」
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