第四章 獄門

1

 月明かりは分厚い雲に遮られ、山の麓にひたすら冷たい雨が降り注ぐ。


 風は右に左に、気の赴くまま暗闇を鋭く掻き分けて行った。島全体が、風神にでも飲み込まれたかのような喧騒の中、今宵も朽ちた鳥居の上に仮面の少女がひとり。白装束を靡かせ、少女の視線は今、一点に注がれていた。


 視線の先には、いつぞやの少年少女が蹲っていた。さらにそこから少し離れたところに、橙色の袴に身を包んだ山伏……『阿修羅』がいた。『阿修羅』はヤニで黄ばんだ歯を剥き出しにして、下卑た嗤いを浮かべていた。


 実際、『阿修羅』は今興奮していた。滾っていた。さっきまで、島の片隅で何人か捕まえてところだったが、それだけでは全然足りなかった。を見せられちゃあ、こっちも湧き上がらねえはずはねえ。 


 殺したい。人を殺したい。


 心からそう思った。獲物が泣き叫んで、許しを乞い、その顔が絶望に染まるのが堪らなく好きだった。獲物は真人間であればあるほど良かった。真面目で、正義や道徳を疑わず、将来有望な人間など最高だ。そういう奴の未来を、描いていた夢を希望を、自分のような輩の手で汚し穢し蹂躙するのだと思うと、そのまま果ててしまいそうだった。肉を突き刺すと、潰れたトマトみたいに血が吹き出してきて、その匂いを嗅ぐと『阿修羅』はいつも理性を失った。


 紅花染の袴に身を包んだこの山伏は、およそ10年間、九州を拠点とする反社会的勢力の鉄砲玉として活躍してきた。背中に彫られた巨大な阿修羅像。些細なことで激昂しやすく、考えるよりまず手が出る性格が、この仕事に良く合っていた。


 その手口は決して洗練されているプロフェッショナルとは言い難かったが、組織で成り上がるよりも、現場で只管命を刈り取る方を好み、残虐で、たとえ女子供であっても容赦しないその殺り方は、仲間内からも忌み嫌われるほどであった。


 それでも『阿修羅』は気にしなかった。骨を砕くと、壊れた人形みたいに獲物が叫び声を上げて、その音を聞くと『阿修羅』はいつも威勢が良くなった。

殺せればそれで良かったのだ。

一匹狼型ローンウルフ・タイプ。村長の依頼で、六門島に死体を運ぶのはいつも『阿修羅』の役目だった。


 そして今まさに獲物と対峙し、『阿修羅』は嗤っていた。殺し甲斐のある若い肉が目の前にいた。未来ある子供たちの、その未来をこの手で捻り潰す享楽。血と汗と雨で、滑り易くなった鉈を、今度はしっかりと握り直す。


 くるぶしまでズブズブと泥の中に沈めながら、ゆっくりゆっくり、一歩ずつ獲物に近づいていく。先ほどは暗がりで仕留めそこなったが、二度外すほど腕は鈍っちゃいなかった。恐怖に彩られた2人を見下ろし、『阿修羅』は袖で涎を拭った。


 ガキを2人始末したら、次は村長だ。

 あの野郎この俺を嵌めようとしやがって、絶対許さねえ。俺は殺しは好きだが、自分を馬鹿にしたり、見下してくる奴は一生許さねえ。その次はあの舐め腐った管理人と、あとはそうだな……若い女がいい。年寄りばっかじゃ手応えがねえ。殺す。全員殺す。ケケ。ウケケ。ウケケケケ!


 半分白目を剥いたまま、『阿修羅』が拳を突き上げるようにして右手を天に掲げた。雨粒が掲げた得物に当たって、刃が一瞬白く輝いた。顔を強張らせた少年少女が息を飲む。悲鳴は雨音に掻き消された。『阿修羅』は喉を震わせ、斬ると言うよりも叩き潰すように鉈を突きつけた。少年の方が少女を庇って前に躍り出た。

「ケケケ!」

『阿修羅』は愉悦に浸り目を細めた。Tシャツを脱ぎ、小麦色の肌が露わになった少年に、重たい鉄の塊を力の限り叩き込む。


 少年が、勢い余ったポテトチップスみたいに内臓をぶち撒けようとした、正にその時、

「な……」

 一筋の風が『阿修羅』のそばを通り抜けた。その瞬間、『阿修羅』は膝から崩れ落ちた。

「なんだ……!?」

 斬られた、と分かったのはそれからずっと後になってからだった。大きく首を曲げ、背後を振り返るも、何も見えない。暗闇だけが、ぽっかりと広がっているだけだ。暗闇と、ただ……風だけが。


「なんだァア!?」


 ついに異常を察知して、『阿修羅』は獣のような唸り声を上げた。何が起きた!? 分からない。見えない敵に攻撃されている事だけは確かだ。狙撃だろうか。しかし音もなく、気配も何もなく、こちらを攻撃する事など可能なのだろうか?

「う……!?」

 そうしているうちに、再び突風が『阿修羅』の耳元を撫で、気がつくと首元から鮮血が吹き出していた。右手。くるぶし。脇腹。背中。構える間も無く、次から次に切り刻まれていく。

「冗談じゃねえぞ……」

 頭の中で何かがブチンッッ!! と切れる音がして、『阿修羅』は咆哮した。


「出てきやがれ、ゴルァァアアアッ!!!」


 その時だった。『阿修羅』は確かに見た。風が……

「な……」

『阿修羅』は大きく両目を見開いた。あまりにも強い風が、一瞬、厚い雲を吹き飛ばし、空から月明かりが覗いていた。月光の下で、崩れて斜めがかった鳥居が、こちらに向けて長い影を伸ばしていた。その鳥居の上に、白装束の少女がひとり。


「な……な……」

 

 顔は見えなかった。まるで鬼のように、真紅に彩られた、ツノの生えたお面を被っている。『阿修羅』は上唇を舐めた。髪の長い……黒髪の……少女? 華奢で、年老いては見えない。少女の手には、血を滴らせた薙鎌が握られていた。


 俺は……。『阿修羅』は生唾を飲み込んだ。あの時……六門天主堂を覗き込んだあの時。磔にされた死体の前で、コイツは……。


 やがて少女は、ふわりと鳥居から飛び降りた──……。

 


 

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