3
「危なかったわね!」
軒下に走り込むなり、バケツをひっくり返したような雨が曇天から降り注いだ。羊も、風音も、肩で息をしながらその場に座り込んだ。廊下に掲げられた鳩時計が鳴き声を上げ、ちょうど夜中の1時を知らせた。これは確かである。今時鳩時計かよ、という驚きと、もうそんな時間か! というのも相まって、2人ともそれを記憶していた。
「ありがとう。今日は楽しかったわ」
隣で風音が白い歯を零した。羊の心臓がカエルみたいに跳ねた。
「荒草くんと一度話してみたかったの。じゃんけんに勝った甲斐があったというものだわ」
「あー……沖田も、アレはアレで、根は良い奴だよ」
羊は一応友人をフォローした。風音は露骨に嫌な顔をした。
「ダメよ
「まぁ……確かに……」
否定はできない。
「チャラいし、慣れ慣れしいし、ナヨナヨしてるし……ちょっとマザコンっぽくない?
「どうして分かるの?」
「女のカン……よ!」
「じゃ、僕は?」
このままじゃ沖田への悪口が尽きない。話題を変えようとした一言だったが、しまった、と羊は思った。風音は少し驚いたように目を丸くして、やがて口元に意味深な笑みを浮かべた。聞かなきゃ良かった。羊はゴクリと生唾を飲み込んだ。
「荒草くんは……そうね」
「…………」
「表向きは好青年を演じてるように見えるけど……」
「え……」
「だけど、何だか頭の中にもう何人かいるような気がするわ」
「え?」
羊は目を瞬かせた。そんなことを言われたのは初めてだった。
「それって……裏表がありそう、って意味?」
「そうじゃなくて、裏だけじゃなくて、もっと……もっとよ。5~6人、いや10人くらいはいるんじゃないかしら」
「僕は多重人格者かい?」
羊は戯けたように肩をすくめたが、風音は至って真剣だった。
「聞こえない? 頭の中で、もう1人の自分が……色々な自分が、泣いたり笑ったり、歌ったり踊ったり……」
呪ったり恨んだり。
妬んだり羨んだり。
人を殺したいほど、誰かを憎んだり。
「いや……その」
「ねえ、あなた」
「何人……?」
「自覚がないのかしら……まぁ、良いわ」
……何を言われているのか、さっぱり分からなかった。何か見えちゃいけないものでも見えている……彼女には霊感でもあるのだろうか? 羊がその場で固まっていると、やがて風音もフッと息を吐き出した。
「その謎も、いつか私が解いてあげる。貴方のそのミステリアスな感じ、嫌いじゃないわよ」
それから風音は踵を返し、妖艶な笑みを浮かべ階段を登っていった。後に取り残された羊は呆然とそれを見送るしかできなかった。羊は冷や汗を拭った。
これは……脈アリ、ということだろうか? 少なくとも彼の心臓は、いつもより大分元気なカエルになっていた。
何だかふわふわと宙に浮いたような足取りで、それからいつ部屋に戻ったのかは覚えていない。気が付いたら羊は布団の中にいた。沖田はまだ戻っておらず、電気も点っていなかった。暗がりの中、布団に潜り込み、枕に顔を沈める。さっきまでの出来事が、まるで夢のように感じられた。
しばらくして彼は眠りにつき、今度は実際に夢を見た。
夢の中で、羊は幼馴染の立花さんと海岸でデートしていた。2人は手を繋ぎ、羊はとても楽しい気分だったのだが、ある時彼は間違えて彼女のことを「黒上さん」と呼んでしまい、立花さんはたちまち口から火を吹いた。ヤマタノオロチみたいに、首がニョキニョキ生えてきた。複数の首が絡み合って、逃げ惑う羊を取り囲む。
違う……違うってば! ごめん……間違えた。許して……
はっ
、と目が覚めると、午前2時を回っていた。
目が覚めると、布団が、全身が汗でびっしょりと濡れていた。部屋に廊下の光が差し込んでいた。襖が半分ほど開き、その下に誰か立っている。羊は目を細めた。
沖田だった。
「フラれた……」
沖田もまた、雨で全身ずぶ濡れだった。だがそれ以上に、両目から涙が止め処なく溢れ出てきている。羊は上半身だけ起こした。
「お前はチャラいし……下心見え見えだって……」
「え……あぁ……」
「マザコンとロリコンの二刀流だって」
「それは、すごいじゃないか……。二刀流……」
「あぁぁあ……!」
それからしばらく沖田の慟哭が部屋に谺した。
羊は放っておくことにした。
羊は再び夢の続きを見た。沖田が間違えて教授のことを「お母さん」と呼び、女性陣から
甲高い悲鳴が民宿を貫いたのは、その時だった。
暗闇の中、羊は飛び起きた。下の階が騒がしい。手探りで明かりを点ける。沖田は部屋にいなかった。
「うぉっ!? うぉぉぉおおッ!?」
その時、階下から沖田らしき叫び声が聞こえた。羊は部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。
「何事!?」
同じように悲鳴を聞きつけた風音や麻里、蓮たちが、次々に部屋から飛び出してくる。羊の後に続いた。
「今の、英里ちゃんの悲鳴じゃない!?」
「露天風呂の方だ!」
4人が廊下を曲がると、ちょうど「女湯」の暖簾から一条英里奈が、「男湯」の暖簾から沖田二刀流が飛び出してきた。
「いやぁぁああ……っ!?」
「どうしたの!?」
「大丈夫!?」
「沖田! テメー!!」
「ちょ……待てよ! ちげえって!? 俺何もしてないって!」
とりあえず沖田が一発殴られた後、英里奈が声を震わせ事情を話し始めた。
……トレーニングしてたら雨が降ってきたからさ。ひとっ風呂入ろうと思ってたんだよ。雨だから露天風呂は無理だろうなーってガラス越しに覗いたら、そこに……。
「人がいた!?」
「そう! めっちゃデカイ、巨人みたいな奴!」
「いやぁ何それ!? 覗き!? 変質者!?」
「沖田! テメー!!」
「違うって言ってるだろ! 俺、そんなデカくないし!」
沖田が再び一発殴られ、女性陣が咽び泣く英里奈を取り囲んだ。
「見間違いじゃなくて?」これは風音である。
「違うよ! 違う……と思う。風呂の先の、薮ン中にぬぅ〜って……俺、目が合ったもん」
「裸だったの!?」麻里が尋ねた。英里奈は首を横に振った。
「うぅん……何だか橙色の袴みたいなの着て……頭に白い布みたいなの巻いてて……」
「袴?」
「山伏かな……」
羊は昨日道路ですれ違った、歩く山伏を思い出した。蓮は無言で、英里奈の背中をひたすらさすり続けていた。
「あなたたち、こんな夜中に何やってんの?」
「あ、先生!」
すると、廊下の先から由高教授が顔を出した。彼女も風呂上がりなのか、金の短髪が濡れそぼっている。
「先生、さっき風呂場で変な奴見ませんでしたか? 英里ちゃんが覗きにあって」
「覗きぃ!?」
教授は素っ頓狂な声を上げると、近くにあったデッキブラシを持って、ずんずんと女湯の中に入っていった。一同しばし無言で唐紅色の暖簾を見守る中、やがて教授が廊下に戻ってきた。
「誰もいないよ」教授が拍子抜けしたような顔をして言った。
「ホントなんです! 俺、見たんです!」英理奈が涙声になる。
「分かったから。明日警察に届けよう。沖田は? お前は何か見たの?」
教授に問いかけられ、廊下で大の字になっていた沖田は首を振った。
「いえ……俺はただ、隣の女湯から悲鳴が聞こえたんで。それに驚いて叫び声を上げただけです」
「何それ!? そういう時こそアンタが飛び出して行って、変質者を捕まえなくちゃいけないんじゃないの? これだから二刀流は……」
「二刀流?」
「とにかく!」
教授が腰に手を当て、深々とため息をついた。
「今日はもう遅いから。皆部屋に戻りなさい。2人とも、早く服を着なさいな」
「え?」
「あ……」
英里奈も沖田も、裸のまま飛び出してきて、タオル一枚しか持っていなかった。しばしの沈黙、やがて協議の結果、沖田が
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます