2
外は肌寒かった。星は降っていなかったが、遠く向こうに見える長崎の夜景が、煌々と輝く街の明かりが、天の川のように空と海の間に浮かんで見えた。
風は強く、波の音が荒い。
決して散歩に適した夜ではなかったが、それでも羊は、ふわふわと内臓が浮き上がるような気分を抑えられなかった。何せ彼の隣にいるのは、学園イチの美少女と名高い、あの黒上風音なのだ。
「やっぱり! あなた、立花さんの同級生なのね」
浴衣姿の大和撫子が弾んだ声を出した。
立花さん、と言うのは羊の地元の友達だった。風音は大学の華道部に入っており、別の大学に通う羊の旧友と、部活を通じて知り合ったらしい。まさかそんな繋がりがあったなんて。世の中狭いもんだな、と羊は思った。
「彼女から聞いてるわよ。荒草くん、あなた、名探偵なんですってね」
風音の目が細められた。羊は内心驚いていた。これほど感情を表に出す風音を見るのは初めてだった。もしかしたらこっちが素で、普段は冷淡を演じてるのかもしれない。思えば週に一回、ゼミで顔を合わせる程度で、彼女とじっくり話すのはこれが初めてだった。
「色々と難事件を解決してるんですって?」
「イヤァ、それほどでも……」
「私もミステリィには目がないのよ」
風音は目を輝かせた。思わぬところで、思わぬ人と会話が弾み、羊はますます驚いていた。
「私、お父さんが警察官なの」
「そうなんだ」
「それで、色々な事件とか興味を持ってね。子供の時から自分なりに調べたりして……」
歩きながら、羊はひたすら相槌を打った。
親の職業というのは、子供にとってある種のステータス、アイデンティティのようなものである。冷静に考えればその子個人とは何も関係がないはずだが、どうしても若い頃は、周りからもそういう目で見られてしまう。〇〇の子。警察官の子。公務員の子。会社員の子。海の子。人の子。神の子……。
「ま、お父さんは何も教えてくれなかったけどね。私がそういうのに入れ込むのは、逆に反対だったみたい」
風音はそう言って笑い飛ばした。
三日月型の白い砂浜は何処までも伸びていて、端まで行くのに相当時間がかかった。はずなのだが、羊にとってはあっという間の体感速度だった。
それから2人は自分が犯人だったらどんなトリックを仕掛けるか、何メートル下に埋めれば死体の臭いを消せるか、どれくらいの強度の刃物だったら人体をバラバラにできるか……など、普段人前では話せないようなことを熱心に話し合った。知らない人が聞き耳を立てていたら、きっと通報されていたに違いない。
「……つまり最近の探偵小説は、キャラクター小説に偏り過ぎなのよね。〇〇探偵とか。〇〇刑事とか。そんなのばっかりでしょ? 事件そのものよりも、探偵の個性で売ってるような感じ」
「本格派は難しいよ。後発になればなるほど、トリックも出尽くして限られてくる訳だしさ」
「たまにトリックも動機もないがしろにして、ミステリーの皮を被ったコメディ路線に走る作家もいるじゃない? なんなのあれ? ああいうの許せないわ」
「しかし、所謂バカミスも、エンタメとして見れば決して……」
話は尽きなかった。これだけ気分が高揚したのも久しぶりだった。
湾の端は断崖絶壁になっていて、そこを登ると、小さな灯台があった。ここからだと夜景がさらに蠱惑的に、幻想的に浮かんで見えた。
「きれい……」
とは言わなかった。
台風がすぐそこまで迫ってきていた。海は荒れていたのだ。「きれい……」の代わりに、風音は「ここから突き落とされたらひとたまりもないわね」と呟いた。羊は笑った。
その時、ふと背後から視線を感じて、羊は振り返った。
見ると、茂みの奥に隠れ
地元の子だろうか?
年齢は恐らく、まだ二桁にも行っていない。
少年の方は浅黒く日焼けし、タンクトップに半ズボンという出で立ちだった。虫取り網を持たせたら良く似合いそうだ。その顔つきに、羊は何となく見覚えがあった。
一方少女の方は物憂げな、何処か病弱な印象を与える。真っ白なシャツに真っ白なスカート、冬だというのに真っ白な手袋とマフラーまでしていた。
少年少女は珍しい動物でも見るかのように、目を丸くしてこちらの様子を窺っていた。そこで羊はようやく違和感に気がついた。
この子たち、何でこんな茂みの中に潜んでいるんだろう? まるで、誰かに見つからないようにかくれんぼでもしているような……。
風音も少年少女に気づき、あら、と小首をかしげた。
「あなたたち……」
「……われろ」
「え?」
「呪われろ!
そう叫ぶと、少年は白装束の少女の手を取り、茂みのさらに奥へと踵を返した。葉の擦れる音や、小枝を踏む音が遠くなり、やがて灯台の下は再び吹き荒ぶ風の音で満たされた。
「今の……」
羊と風音はしばらく呆然とその場に立ち尽くし、顔を見合わせた。あの格好。少女の身にまとっていた、あの白装束に2人は見覚えがあった。誰の子だろう?
「戻りましょう」
渦巻く暗雲を見上げ、やがて風音がポツリと呟いた。その表情は、いつもの冷静さを取り戻している。
「……一雨来そうだわ」
この時、まだ雨は降っていなかった。
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