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九州の西部・長崎県に広がる八十八島は、古くからアジアとの貿易の通り道としてその影響を受けて来た。島自体は全部で208個からなり、潮の満ち引きで海面に現れたり、沈んだりと刻一刻と変わり続けるその姿は見る者を飽きさせない。
佐世保のフェリーから船で揺られること50分。
他の島から少し逸れた
漁業が盛んで、牡蠣やふぐが名産。島の中心にある『六門天主堂』は六角形の建物に装飾された六つの門、
天門
獄門
生門
死門
神門
鬼門
を持つ大変珍しい建造物である。かつては迫害されたキリシタンたちの潜伏場所にもなっていたようで、地元の集落と宗教が密接に関わって来た島だった。
はじめ遠目で見た時は、海の上に突如現れた亀の甲羅のような、そんな印象を羊は抱いた。甲羅の上にびっしりと木々が生い茂っている。そんなはずはないのだが、まるで今にも島全体が動き出して、海の中に潜っていってしまいそうな気がした。
波に反射する太陽の光。
潮の匂い。
入道雲は、どれだけ首を曲げても足りないくらい上へ上へと伸びていて、空はこんなに広かったのだと、羊は改めて驚かされた。
1日に3便しか出ない船の一つが、ゆっくりと動かぬ亀に近づいて行く。羊は目を細めた。青々とした海にポツンと浮かぶ孤島。この島で、約一週間、羊たちは過ごすことになっていた。
幸い何事もなく、正午過ぎには無事島に到着した。港に着くと、羊は早速
港は小型船やら大型船で賑わいを見せていた。船から降りて来るのは、地元の人と思しき人々ばかりだ。近隣の島に大きな海水浴場や釣り堀があり、観光客はもっぱらそちらの方に出向いているのだろう。今晩この歴史ある離島に泊まるのも、自分たちくらいだった。
「見て! 砂浜がある」
「ホントだ。泳げるのかな?」
一条英里奈と住吉麻里が楽しそうに笑い、左手の方を指差した。釣られて視線をやると、三日月型に弧を描く湾に、白く輝く砂浜があった。人影は見えないが、羊は数百メートル先の海面に、Tの形をした黒い
「あれは……」
「あれはきっと鳥居の跡、でしょうね」
「鳥居?」
振り返ると、スラッと背の高いスレンダーな女性が、羊のすぐ後ろに立っていた。
短く切り揃えた髪を金色に染め、ド派手なサングラスをしている。この人物こそ、羊たちのゼミの教授、今回のフィールドワークの責任者・由高環であった。
向こうから悪のカリスマ……いや沖田が、由高教授の膨れ上がった胸部を興味津々に覗き込んでいるのが垣間見えた。
「まさにこれが私たちが探求してきたものよ。隠れキリシタンはキリスト教を信仰したと思われがちだけど、実際には何百年もの間、日本は鎖国だったじゃない? だから神父も聖典もなくて、それぞれの隠れ場所で独自の教義が発展して、先祖崇拝や土着文化と複雑に結びついていた……って説もあるの」
マリア観音とかね。てりやきバーガーとか、コロッケとか。日本人って、何でも海外の文化取り入れてアレンジするの好きでしょう?
「つまりガラパゴス諸島のような進化を遂げた……って言えば分かりやすいかしら。その調査こそが今回の狙いよ。嗚呼、海面の上昇によって海に沈んでいるのが残念だけど……旅行中にどうにか近くに行けないかしら。ボートでも良いから出してもらえないかな……」
残念ながらゼミ生たちが教授の早口のご高説を聞いていたのは「まさにこれが」までで、その後は皆別の方角に気を取られていた。真っ赤なアロハシャツを着た中年男性が、巨体を揺らしながら右手を仰々しく降ってこちらに近づいて来る。
「ヤァ〜、長旅ご苦労様です! ようこそ六門島へ!」
「誰? あの髭ダルマ」
「こら、マリちゃん!」
「私この村で旅館を経営しております、沼上丈吾と申します」
沼上丈吾、と名乗った男は、そう言って麦わら帽子を脱いで見せた。
「お待ちしておりました、由高環様御一行でございますね。あちらにタクシーを用意しておりますので、早速旅館の方にご案内しましょう。長崎限定・カステラ味のかき氷も用意してますよ」
その言葉にゼミ生たちは湧き上がった。もちろん遊びに来た訳ではないが、この若さで浮かれるなと言う方が土台無理なのである。みんな沈んだ鳥居なんかより、断然かき氷な気分であった。カステラ味というのはちょっと引っかかるが……。
女性陣が賑やかな笑い声を花咲かせ、みんなぞろぞろと髭ダルマの後ろについて歩き始める。沿岸には艶やかな赤い花が揺れていた。南国は夏真っ盛りだ。羊は軽く伸びをして、何となしにもう一度砂浜の方を振り返った。
その時だった。
羊は目の端で何かを捉えた。その時彼は確かに見た。黒いTの字の、海面から突き出た鳥居の上に、小柄な人影を。
羊は思わず固まった。小柄な……まだ幼い、子供のような背格好である。真っ白なワンピースと黒髪が潮風に揺れていた。この島に住む少女だろうか? ツノの生えたお面で隠されていて、顔までは判別できない。頬や額の部分に真っ赤な装飾が施された、奇妙なお面であった。
お面の少女は。こちらをじっと見ていた。正確には、目の位置に開いた真っ黒な二つの穴が、無機質な無表情が羊の方にじっと向けられていた。底の知れない暗い穴に、羊の視線が吸い寄せられていく。……変だ。明らかにおかしい。さっきまでは確かにいなかったはずだ。いや、そもそも、あんなところに人が……?
「……オイ! 羊、置いてくぞ!」
鋭い声が背中から飛んできて、羊は我に返った。遠く離れた視界の先では、みんな既にタクシーに乗り込んでいるところだった。沖田が叫び声を上げ、大きく両手を振って羊を手招きしている。
「ごめん、ごめん!」
仲間たちに急かされ、羊は慌てて駆け出した。途中、もう一度鳥居の方を振り返ると、人影は姿を消していた。
……見間違いだろうか?
視線の先では白い波が沈んだ鳥居にぶつかり、刹那の輝きを放って霧散していく。後は、青青とした海と空だけが広がっていた。羊は息を切らしながら、ひとり眉を潜めた。
何だったんだろう?
まさかこんな真昼間から、幽霊でもあるまいし……。
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