第一章 天門

1

 やがてゆっくりと、少女は目隠しを外された。沁みるような光が瞳の奥に飛び込んでくる。真夜中だったが、四方で火が焚かれ、寒さは感じない。蠢く橙の炎に目が慣れるまでしばらくかかった。森全体が火事になったようだわ、と少女は思った。


 辺りは騒がしかった。絶え間なく鳴り響く太鼓の音が心臓を震わす。その合間を縫って、角笛や、法螺貝の音色も聞こえて来た。少女を送り出すため、村人たちが汗まみれになりながら楽器と戦っている。奏でられる鎮魂歌は、厳かで、それを聞いている村人たちも、ただ黙って前方にひれ伏し、くねくねと身体を揺らしながら祈りを捧げていた。この間の豊穣祭りとは全く異なる、重々しい雰囲気が漂っていた。


 今夜は特別な日だった。村人全員が今夜、この森に集まっているようだった。少女は光を得た両の瞳を、素早く左右に走らせた。

レオは何処かしら。

少女は少年の姿を探したかったが、あいにくみだりに動くことは禁じられている。喋ることも。泣くことも、笑うことも。神聖なる儀式にあって、少女はもはや、少女だけの身体ものではなかった。


 少女は貢ぎ物だった。この村に生まれて、もう七歳になる。七つまでは神の子だった。これから彼女は、その身を、心臓を、偉大な神に捧げるのだった。


 前方を見上げる。

 どのみちこの程度の明るさでは、顔を判別することすら難しかった。諦めてゆっくりと足を踏み出す。割れた海のように、二手に分かれた村人たちの間。その真ん中に出来た道を、黙って進んでいった。


 不思議なもので、顔は見えないのに、皆の視線を感じた。暗闇の中、全員が自分をじっと見つめている。一歩、また一歩……と踏み出すごとに、場の雰囲気に気圧され、吐く息がだんだんと乱れていく。


 短い道のりではあったが、少女には永遠にも、一瞬にも感じられた。その先には階段があった。石畳の階段を登ると台座があり、その上に寝そべるように指示された。上で待っていた司祭は、見たこともない、ツノの生えたお面を被っていた。無表情で、目の部分に底の見えない真っ暗な穴が二つ空いている。頬や額の部分に真っ赤な装飾が施されたそれは、鬼のようにも見えた。


 少女は息を飲んだ。


 ……大丈夫、怖くない。少女は自分に言い聞かせた。


 私は神様に選ばれて、この身体を食べてもらえるんですもの。これってとっても名誉なことなんだわ。私はこれから黄泉の国に連れていってもらって、そこでたくさんの動物たちと、お花に囲まれて暮らすの。


 少女はゆっくりと横になった。ひんやりとした台座から、背中越しに、小刻みに振動が伝わってくる。震えているのは村人たちが足を踏み鳴らしている、だけではなかった。


 風が通り抜け、木々の隙間から、明るすぎるほど明るい星が垣間見えた。月は見えない。最後にもう一度だけ、お月様が見たかったな……。


 寝ている少女に猿轡が噛まされ、両手両足をしっかりと縛り上げられる。その間も太鼓は鳴り続け、鎮魂歌はやがて讃美歌へと変わった。


 少女がぼんやりと星空を眺めていると、ふと視界の端に鋭いものが飛び込んで来た。司祭が刀を構えたのだ。供儀に使用する神聖なる刀だ。見届けられたのはそこまでで、やがて再び目隠しが巻かれた。


 村人たちが一斉に、祝詞を天に投げかける。今まで聞いたこともない声だった。小さな鼓膜が痺れるほど震える。やがて叫びが森全体を包んだ時、


 少女はあっ、と驚いた。


 ふわりと宙に浮くような感覚。

 気がつくと少女は満天の星空を見上げていた。自分の魂が、肉体を離れ、幽体として抜け出しているのだった。驚いて後ろを振り返ると、そこに自分の身体があった。


 いや、自分の身体ものだ。鋭利な刃によって引き裂かれた胸から、真紅の血が、滝のように溢れ出ている。


 今や台座は真っ赤に染まっていた。肋骨は槌で砕かれ、肉はヘラで削られ。供物を取り出し易いよう、胸にぽっかりと穴が空いていた。今まさに、大動脈を引き千切り、少女の方に向かって掲げられようとしているのは、紛れもなく脈打つ小さな心臓であった。


 まるで小動物の赤子のように、小刻みに震える心の臓を見て、少女は感嘆の息を漏らした。


 すごい……。

 何と禍々しく、そして美しい……思わず目を逸らしたくなるような、と同時に、一度惹きつけられると二度と目を離せなくなるような。美醜一体の造形がそこにあった。これほどの創造物は、やはり神からの贈り物に違いない。作ろうと思って作れるものではないのだ。心臓の作り方など、少女は知る由もなかったが、今度黄泉の国に行ったら神様に聞いてみようと思った。


 やがて脈が弱まり、天に掲げられた心臓が動かなくなると、今度は少女の手足が切り落とされ始めた。両腕は脇の部分から、両足は太ももの付け根からそれぞれ切断された。


 神人共食が直会の儀礼であり、儀式によって神と一体化した少女の身体は、これから余すところなくのだった。食べられない骨などは、首輪や腕輪として再利用され、次の儀式のための神器となる。これは村長ですら手の届かない、大変な誉であった。


 儀式も無事終わろうとしていたその時だった。ふと、暗闇から鋭い慟哭が谺し、村人たちが、少女もまた、空中に浮いたままそちらを振り返った。見ると、一人の少年が、泣き叫びながら少女の身体に突進しようとしている。


「レオ……!」


 少女ははっとした。その顔に見覚えがあった。最後の最後に、思いを寄せていた少年の姿が見られて、少女はたちまち嬉しさがこみ上げてきた。


 と同時に悲しくなった。


 どうして? 少女は戸惑った。

 泣かないで? 少女は空の上から、少年に語りかけた。


 どうしてそんなに泣いてるの? レオ、どうしてそんなに怒っているの? 私、立派だったでしょう? 立派に心臓を捧げられたでしょう。もう悲しまなくて良いんだよ。だって私はこれから……。


 やがて少年は村の大人たちに羽交い締めにされ、森の外へと連れ出された。静まり返った空の上で、少女は、もう二度と自分の声が少年に届かないのを知って、ほろほろと涙を零した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る