第43話 大混戦


「泣くな、セレステ。悪いようにはしない――君は私と結婚するんだ」


「え?」


 意味が分からない。踏むほど嫌いなのに、結婚するの?


「誤解しているようだが、私は君を愛しているんだ。踏んでも踏んでも、なお足りないほど、愛している。生涯、君を可愛がり続けると誓うよ」


 まったく理解できない! 逃げようと前に進むのだが、さらに強く尻を踏みにじられ、動きが止まる。


「い、痛っ」


「ああ、踏み心地が最高だ! 男のロマンだ」


 何を言っているのだ、この人は……怖い。怖すぎる。イカレている。エリシャもちょっとイカレているなと感じるふしがあったが、比ではない。


 サイツ侯爵は真正の変態だ。この人はおそらく、王都でも五本の指に入る変態だ!


 セレステはさめざめと泣き始めた。


「お、お母さーん……」


 嗚咽混じりに亡き母を呼ぶセレステの姿に、侯爵はうっとりした。


「ああ……可愛すぎて、胸が高鳴る」


 セレステは混乱しながらも、どこか遠くのほうで笛が鳴る音を聞いたような気がした。


 間もなくして怒声や打撃音、争いの気配が近づいて来る。


「――来たのか」


 サイツ侯爵が驚きの声を上げたので、セレステはのろのろと顔を上げた。


 ひときわ大きな音が響き、雇われ傭兵のようなサイツ侯爵の部下が数名、勢い良く地面を転がって行くのが見えた。そしてそれらのゴロツキを踏み越え、廃墟の中を進んで来る、すらりとしたシルエット。


 突如この場に現れたエリシャ・アディンセル伯爵は、とてつもない殺気をまとっている。


「――セレステ!」


 名前を呼ばれ、視線が絡んだ。


 セレステはこんなふうに四つん這いの格好で泣いている自分が情けなかった。羞恥で頬を赤らめ、唇を噛む。しゃくり上げるとさらに情けない気持ちになって、石床の上でぐっとこぶしを握りしめた。


 もうだめ、もうお嫁に行けないよ……サイツ侯爵にお尻を踏まれてしまったし。


 エリシャはゆらりと右腕を動かし、剣先で石床をズズ……と擦った。


 それは危険な兆候のように思われた。肉食動物が獲物に食らいつく前の予備動作に似ている。


「サイツ侯爵――その汚い足を彼女の体からどけろ」


「嫌だと言ったら? もうツバをつけた。これは私のものだ」


「黙れ。その尻は俺のものだ」


 地を這うような声。


 セレステは混乱の極みにあった。


 え……違います。この尻は私のものです……。


 しかしエリシャの佇まいがおそろしすぎて何も言えない。地獄の使者でもたぶんもう少し親切顔をしていると思う。彼がたった今千人残虐に斬り殺してきたと言われても、信じてしまいそう……それくらい、おそろしい。


 敵よりもエリシャが怖かった。サイツ侯爵の手下は十人以上いそうだけれど、たぶん一瞬で殺されると思う。


 あれは人ではない――人智を超えた何かだ。


「え、エリシャ~! 来てくれたかぁ~‼」


 むながいに括りつけられ、ひとしきり暴れて疲れ切っていたくまちゃんが息を吹き返した。ふぎぎぎぎぎぃーと体を伸ばしたり捻ったりして、ようやく拘束から――というより、絡まったマフラーを残して抜け出す。


 そういえば以前くまちゃんは、「ものをすり抜けたりもできる」と語っていたように記憶しているのだが、なぜ今はしないのだろう。頭に血が上って忘れているのか、あるいは先日のカンターとの対決でダメージを受けていて、本調子ではないのか。


 とにかく今は力業(ちからわざ)で縄抜けしたものだから、体がモゾモゾしたらしい馬がタイミング良く跳ねて、その拍子にくまちゃんがポーンと放り出された。


 宙を舞うくまちゃん――着地に失敗し、お尻を石床に強打して、勢いでそのまま尻滑りしている。


 やがて止まったくまちゃんはブチ切れながら立ち上がり、地団太を踏んで喚き始めた。


「い、痛でぇえええええええ‼ 俺の可愛い桃尻がこすれちまったじゃねーか、畜生がぁあああ‼ うんこ投げてやろうか、コラぁあああああああ‼」


 サイツ侯爵に向かって、復讐の鬼と化すくまちゃん。


「その足をどけろ、サイツ――セレステの可愛い尻をどうこうする権利は、俺にある」


 訳の分からない所有権を主張する、暗黒テイストのエリシャ。


 セレステは打ちひしがれ、地面についた肘に額を押しつけた。


 この人たち……なんて下品なの……!


 助けに来てくれたエリシャも、反撃に出ようとしているくまちゃんも、どっちもどっちで大概下品だ……やだもう、泣けてくる。




   * * *




 大混戦になった。


 エリシャは見晴らしの良い空間で、何人もの敵に取り囲まれている。


 多対一ならば、背後を取られない場所で応戦したいところだが、セレステを心配して急ぎ駆けつけたエリシャには条件を整えている余裕はない。


 くまちゃんはといえばすっかり怒り心頭で、肩かけカバンを探って武器を探している。するとしなびた人参――エリシャの馬をからかう用に仕込んでおいたアイテムが出てきた。


「てめぇ、この野郎ー!」


 漁師町の喧嘩っ早い海の男よりも、ずっと血気盛んなくまちゃん。人参を振り回しながら、


「とぉう‼」


 威勢の良いかけ声を響かせ、セレステの尻を踏むサイツ侯爵の顔に飛びかかる。


「てめぇのケツに、この人参をぶち込んでやるからな‼」


「ぐっ……!」


 くまちゃんのモコモコぽっちゃりボディーの猛攻を浴びるサイツ侯爵――彼はたまらずよろよろと後ずさったものの、物理的ダメージはゼロであることにようやく気づいたようだ。


 サイツ侯爵はくまちゃんの後ろ首をむんずと掴み、顔面から引きはがした。そしてくまちゃんの小さな体を天高く持ち上げる。


「この忌々しいくまめ、串刺しにしてくれる」


 サイツ侯爵が部下から剣を奪い取り上向きに構えたので、セレステは膝に力を入れて立ち上がった。


「やめて、刺さないで!」


 ところがセレステの体はすぐに拘束されてしまう――サイツ侯爵の部だ。背後から抱きすくめられ、身動きが取れない。


 セレステは泣いて許しを乞うた。


「やめてぇ、くまちゃんを殺さないで!」


「くま!」


 混戦中のエリシャは六人目を沈めたところだったが、遠くにいてすぐには駆けつけられない。七人目が隙を突こうと右手死角から躍り出て来たのを、流れるような剣さばきで払いのける。


 サイツ侯爵がくまちゃんの腹に向けて、剣を突き出す――……万事休すか、と誰もが思った。


 その刹那。


 泣き濡れたセレステの視界に、栗色の何かが飛び込んで来た。


 ドカン‼ というすさまじい衝撃音。


 その何かはサイツ侯爵とくまちゃんを問答無用で跳ね飛ばし、横手に消えて行った。


 疾風のように去って行ったのは、なんとエリシャの愛馬だ。トップスピードでぶちかました場面は、現象よりも衝突音が少し遅れて聞こえてくるくらいの迫力があった。


「ぐほぉ……‼」


 こもった悲鳴を上げて、くまちゃんの体が弧を描いて空を飛ぶ。


 もれなくサイツ侯爵も飛んだ。彼のほうは背骨をよじり、ほとんど白目を剥いて気絶している。


 ――実は先ほど響いた笛の音は、エリシャが遠くにいる愛馬を呼んだ時のものだった。単身敵地に侵入したエリシャは『馬上からの攻撃が有効』と見て、入口付近で笛を吹いたのだ。


 馬はここから近い騎士団南支部にいたのだが、あの程度の簡易柵ならば容易に抜け出せる。


 愛馬はあるじの期待に応えるべく、一路駆け、ここへ来た――ところが現地着後、遠目にくまちゃんを目視確認。


 にっくき天敵(くま)があの忌々しい人参を振り回しているのを見て、プチンと切れた。積もりに積もった鬱憤が弾け飛んだ瞬間だった。


 エリシャの愛馬はあるじをまるっと無視して、くまちゃんに向かってまっしぐらに駆けた。


 今度チャンスがあれば、絶対に頭からぶちかましてやるぞ――馬は心に強く決めていたのだ。


 そして見事悲願を達成した。


 馬は格好良いフォームでウィニングランを決めながら、感動に胸を震わせた。


 やった……俺はやってやったぜ……!


「く、くまちゃーん!!!!!!!!!!」


 セレステの悲痛な叫びが、周囲に響き渡ったという。


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