第42話 さらわれたセレステ


 敵ながら、サイツ侯爵の立ち回りは見事だった。


 表向き、三つの名家が牽制し合っており、それは伯母上のボンディ侯爵家、ペッティンゲル侯爵家、そしてサイツ侯爵家の三家だ。


 ペッティンゲル侯爵家とサイツ侯爵家――この二家は対立構造にあった。そして伯母上のボンディ侯爵家は中立。


 しかし実態はまるで違ったわけだ。


 サイツ侯爵は裏でペッティンゲル侯爵と手を組んでいた。サイツ侯爵のほうが立場は上で、ペッティンゲル侯爵はただの手駒にすぎなかったのだろう。


 サイツ侯爵は表向き敵対関係を装うことで、ペッティンゲル侯爵に不満を持つ人間を炙り出すことができた。


 くまは悪い精霊だとボンディ侯爵夫人に吹き込んだのも、サイツ侯爵に違いない。ボンディ侯爵夫人はサイツ侯爵には気を許していた。


 それはペッティンゲル侯爵に対する嫌悪感が作用していたと思われる。下劣なペッティンゲル侯爵と比較することで、男ぶりのよいサイツ侯爵の印象は良くなった。


 大司教ですらただの下っ端――すべてがサイツ侯爵の手のひらの上だったのだ。


 彼はおそらくサディスティックな性的嗜好を持っており、セレステを狙ったのは政治的な理由というよりは、彼の性的衝動に絡むことが動機なのではないか。


 どこだ――彼がセレステを捕まえたとして、どこへ連れて行く? エリシャは考えを巡らせる。


 侯爵の屋敷は除外。


 彼は狡猾な男だ。いずれ落ち着いたら自邸に連れ込む気だろうが、きっとすぐにはそうしない。それにサイツ侯爵の屋敷は現在地から遠すぎる。彼はセレステと今すぐふたりきりになりたいと考えるだろう。


 では大聖堂は? あそこには手下である大司教がいて、便利な拠点ではあるが……。


 いや――サイツ侯爵は執着しているセレステを、ほかの男が管理する檻に入れたりしないだろう。あの男は独占欲の塊だ。


 では残る可能性はひとつだった――彼女はきっとそこにいる。




   * * *




「おい、下ろせってんだ、このクソ野郎‼」


 馬のむながいにマフラーを括りつけられたくまちゃんが、足をバタバタと暴れさせている。モコモコ尻尾が左右に揺れていた。


 カンターに敗北したあとはめっきり大人しくなっていたくまちゃんだが、こうして荷物のように扱われて怒りがスコンと突き抜けたのか、すっかり平常運転に戻っている。


 セレステはセレステで、やはり荷物のように扱われていた。


 サイツ侯爵の馬に無理矢理担ぎ上げられ、腹ばいのような不安定な姿勢のまま運ばれている。


 セレステは手を伸ばし、馬の横首あたりに括りつけられたくまちゃんの胴体を必死で掴んだ。くまちゃんが暴れているし、なんだか滑り落ちそうで怖かったのだ。


 サイツ侯爵はいつになく強引だった。


 初め「一緒に来てくれ」と頼まれ、彼に恩を感じていたセレステは、一度は従いかけた。


 しかし今日は生誕祭……家で家族と過ごすのが慣例なので、侯爵については行けない……彼の馬に乗る前に、土壇場で足が止まった。


「あの、サイツ侯爵、すみません……私やっぱり帰らないと」


 断りを入れた途端、サイツ侯爵の態度が一変した。彼は苛立ちをそのおもてに乗せ、くまちゃんの首根っこを掴むと、馬の胸部を固定するベルトにマフラーを括りつけてしまったのだ。


「やめてください! どうしてこんなことを?」


 抗議も虚しく――。


 セレステは暴力こそ振るわれなかったものの、有無をいわさず腰を抱かれ、気づけば馬の上に押し上げられていた。腹ばいの彼女に体勢を変えることすら許可せず、侯爵は馬にまたがり、すぐさま前進させた。


 セレステは殺されるかもしれないという恐怖を抱いた。このまま落馬したら、落ち方にもよるが、頭か腰の骨を折りそう。下は硬い石畳だし、馬は絶えず動いている。


「お、落ちる! 落ちます‼」


 首を回して侯爵の顔を仰ぎ見ると、どういう訳か彼はうっとり陶然とした表情を浮かべていた。


 父が秘蔵のウィスキーを飲んでいる時の目つきだわ……セレステは混乱しながらそんなことを考えていた。


「ほら、あぶみを使いなさい、セレステ」


 彼が左足を乗せていたあぶみを譲り渡してくれたので、セレステは足をバタつかせ、なんとか自身の右足をそこにはめ込んだ。


 た、助かった! やっとひと心地つける……這い上がるように馬の背にお腹を乗り上げ、くまちゃんの体をしっかりと抱え込む。とはいえくまちゃんはむながいに絡まっているので、落ちないよう補助するくらいがやっとであったのだけれど。


 移動中ずっと侯爵にお尻を撫でられているような気がするのだが、とにかくセレステはそれどころではなかった。腹ばいになっていると振動が胃の腑に伝わり、気持ちが悪くなってくる。


 くまちゃんが終始叫んだり暴れたりしているので、サイツ侯爵は人目につかないように裏道に入り込んだらしい。王都の繁華街も一本道を奥に入ると、こんなにうらぶれた雰囲気になるのか……セレステは怯えながら周囲の景色を眺めた。


 石造りの建物は古くくすんで、どこもかしこも寒々しく映った。関わり合いになるのが嫌なのか、拘束されて連れ去られつつあるセレステと目が合うと、住人は建物の中に引っ込んでピシャリと戸を閉めてしまう。


 サイツ侯爵には目的地があってそこを目指しているようだが、くまちゃんが騒いで進路を変えたので、かなり遠回りになっているのかもしれない。


 セレステ自身は引きこもり生活が長かったし、この辺りの地理にも詳しくないので、侯爵がどこを目指しているのか皆目見当もつかない。


 このまま彼がこの無軌道なドライブを続ける気ならば、うつ伏せになっているセレステの内臓は潰れて、ソーセージになってしまうかもしれない……彼女は本気でそれを心配し始めていた。


 しかしその心配は杞憂に終わった。内臓が潰れる前に、目的地に着いたようである。


 塀と門が中途半端に取り払われ、奥の建物が半壊している奇妙な場所だった。彼は速度を緩め、騎乗したまま敷地の中に進んだ。


 ここ、もしかして……こちらの入口を使ったことはなかったが、セレステはこの場所に心当たりがあった。建物の外壁や雰囲気でなんとなく分かる。


「……救貧院跡地?」


 中庭のような開けた場所まで進むと、侯爵はやっと馬を止めてくれた。彼が軽やかに馬上から下りたのが、横目で確認できた。


 セレステのほうは滑るように馬の背から下りて、なんとか地面に着地したものの、足がガクガク震えてそのまま膝をついてしまう。立ち上がろうと肘を突くのだが、どうにも上手くいかず、気づけば尻を突き出すような体勢で四つん這いになっていた。


「うぎぃいいいいい! お・ろ・せー、クソじじい‼ この阿呆‼」


 いまだ馬に括りつけられた状態で口汚く喚くくまちゃんを見て、セレステは血の気が引く。


 あのちょっと、くまちゃん――お願いだから、ちょっとは口を慎んで!


 侯爵がイラッとした様子で、


「私は阿呆ではない‼」


 と良い声で宣言する。


「間抜け!」


「間抜けではない‼」


「ド変態!」


 これについて侯爵は言い返さなかった。


 ド変態という自覚はあるのね……セレステは思わず呻き声を漏らした。


 それにしても胃の中がぐるぐるして気持ちが悪い。セレステが這うように進もうとすると、いつの間にか距離を詰めていたサイツ侯爵が、セレステの尻に靴裏をガツッと押しつけてきた。


 ぐりぐり抉るように尻を踏まれ、セレステは首を回して、涙目で侯爵を仰ぎ見る。


「や、やめてくださ……」


「良い眺めだな、セレステ」


 湖で会っていた頃の彼はセレステに対して好意的に接してくれたのに、まさか尻を踏みにじりたいほど嫌われていたとは……ショックが大きい。


 侯爵は頬を赤らめ、興奮状態にあるようだ。彼の目の焦点が飛んでいるように見受けられて、その常軌を逸したさまが、ますますセレステを不安にさせる。


「今日は乗馬服ではないのだな」


「あれは、エリシャさんがほかの人に見せたらだめだって……」


「ふぅん?」


 ひゃあ、靴先でコツコツ蹴るのはやめてぇ! セレステは唇を噛む。


 その耐え忍ぶ様子こそが侯爵の体を熱くしているのだが、不幸にもセレステ本人はそのからくりに気づいていない。


「ああ、今すぐお前のドレスをまくり上げて、視姦しながら、じかに白い尻を踏みたいものだ」


「やめてくださいぃ」


「しかし、まだだ……ここだと部下がいるからな。部屋に入ってから、たっぷり可愛がってやる。君のそのあられもない姿を見ていいのは、私だけだからね」


 なぜ! セレステは叫び出したかった。その姿を見ていいのは、サイツ侯爵――あなたではない。


 では誰ならいいのか? よくよく考えた末、誰にも尻は蹴られたくないし、見られたくもない――これが結論として導き出された。


 人としての尊厳の問題だ。どうして自分の尻を誰かに見せねばならないのか……。


 ノリノリの侯爵のそばに、部下と思しき大男が歩み寄って来る。


「サイツ侯爵――確認ですが、エリシャ・アディンセル伯爵にこの件を気取られてはいませんね?」


「問題ない。やつはクローデットを助けに、大聖堂へ向かった」


「大聖堂に売春宿の拠点を移したことを、やつに明かしてしまって大丈夫なのですか?」


「大司教絡みのビジネスはそろそろ畳むべきだと思ってね。折を見て、メティ神父に仕切らせる形で、ここでまた再開すればいいさ。救貧院跡地は立地的に完璧だからな」


 部下の男は警戒したように顎を引き、サイツ侯爵を見つめた。その訴えるような視線を鬱陶しそうに受けて、侯爵が腕組みをする。ちなみに侯爵の足は相変わらずセレステの尻を踏みつけたままだ。


「何を心配している」


「アディンセル伯爵ですが、婚約者がさらわれたことに気づけば……ここへ来るかもしれません」


「なぜだ?」


「以前彼はここへ立ち入っています。その際に、瓦礫の中に不自然に掃き清められた一角があるのを見ているはず。違和感として頭の片隅に残っていれば、地下の隠し部屋の存在に気づく可能性は高い。ここはセレステ嬢をさらってきた地点から近いですし」


 救貧院北区画があったこの場所には、堅牢な地下室が存在する。そこはVIP専用の隠し部屋なので、元々地上階とは完全に切り離されていた。


 隠し扉自体が非常に凝ったからくりになっており、普通では絶対に気づかれないような代物だ。それで第二王子の手入れが入った時に、秘密の地下室は隠しおおせたのだ。


 現状うわものの解体は進んでいるものの、その地下室だけはまだ残してあった。上は廃墟のようでも、隠し扉を開いて階段を下りて行くと、宮殿のように豪華絢爛な空間が広がっているのだ。


「案ずるな。やつはクローデットとズブズブの関係だ。しばらくはあの女につきっきりになるから、セレステどころではないさ」


 愚かな男だとサイツ侯爵は鼻で笑う。


 一方のセレステは静かに絶望していた。そのうちに……数カ月くらいたって、セレステが行方不明だと気づいたら、エリシャは探してくれるだろうか。売春宿に監禁されているクローデットを助けに行ってあげたように。


 助けてもらえたとしても、その時はもうセレステは彼の婚約者ではなくなっている。二度と元には戻れないけれど、助けに来てくれたら、自分はそれを嬉しいと感じるのだろうか。


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