第41話 嘘つきに気を付けろ
「くまちゃん、行こう」
繋いだ手を引っ張ると、くまちゃんが頭を後ろに倒すようにして、じぃっとセレステの顔を見上げてきた。
「……ね、行こう?」
促しても、くまちゃんは足に根が生えたみたいに動こうとしない。
セレステが困ってしまって小首を傾げると、くまちゃんがやっと口を開いた。
「セレステ……それでいいのか?」
「うん」
「本当に?」
「大丈夫」
微笑んでみせる。くまちゃんはきゅっと眉間に縦皴を刻み、への字口になった。少し拗ねた様子ではあるが、やっと足を進めてくれる。
歩きながら、セレステは背中にエリシャの視線を感じていた――震えないようにしなければ。どうかそこの角までは、しゃんとしていられますように。
セレステは平静を装って歩き、角を曲がってやっと大きく息を吐いた。
くまちゃんがふたたびセレステの顔を見上げてくる。
「本当にいいのかよ、セレステ――エリシャに行かないでって、縋りつけよ」
「そんなことできないよ。それに……そうしたって無視されるかも」
「エリシャはそんな冷たいやつじゃないよ。そうだ――クローデットのことは騎士仲間のリッターが助けにいけばいいさ。エリシャにそう提案してみれば?」
くまちゃんは名案みたいに言うのだけれど、それはどうだろうかとセレステは思った。
エリシャの性格からして、クローデットが売春宿にいることを、気安くほかの人に言わないのでは? たとえ友人のリッターが相手でも、秘密にするだろう――クローデットの名誉のために。
セレステは首を横に振ってみせる。
「もういいのよ」
「セレステ」
「帰って、七面鳥を焼こうね」
「だけどさ」
押し問答していると、不意に誰かがセレステの左手を掴んだ。右手をくまちゃんと繋ぎ、そちらにしか注意を払っていなかったので、かなり驚いた。
エリシャが追いかけてきてくれたのだろうか――セレステは咄嗟に考える。
期待して、振り返ると、そこには――。
「セレステ、どうか私と来てほしい」
力強い腕で彼女を引き寄せる、ロバート・B・サイツ侯爵の姿があった。
* * *
エリシャはメティ神父が掲げている白い封書を眺める。
そこでふと、ボンディ侯爵夫人の言葉を思い出した。
クローデットに気持ちがないのなら、彼女の今後に関わるべきではない……ああ確かに、それは正しいのかも。
去って行ったセレステは冷静に見えたけれど、実際のところはどうなのだろう……傷ついただろうか。
何が正しいのか分からなくなってきた。
先ほどまではこう思っていた――クローデットを助け出して家に帰してやれば、それで荷が下りるのだと。
しかしクローデットには感情がある。居場所をこちらからあちらに移してやるからそれでいいだろう? あとは自力で頑張ってくれ――それが通用するだろうか。
エリシャに助け出されたら、クローデットは期待するのでは?
それで縋られたら、どうする? その時になってまた拒絶するのか? 拒絶しても、また懲りずに訪ねて来たら? そうしたらまたセレステを傷つけてしまう。
先ほど見たセレステの寂しそうな瞳が忘れられない。彼女をこのまま失ってしまうのでは……そんな不安が込み上げてきた。
クローデットの話題に絡めて、セレステがサイツ侯爵の言葉を伝えてきた時、理屈も何もかもすべて抜きにして、はらわたが煮え返るようだった。
自分は彼の話題が出ただけでも嫉妬するくせに、セレステには「これから俺はクローデットを助けに行くから、待っていてくれ」とよくぞ言えたものだ。
そもそも自分は本心からクローデットの身を案じているのか?
兄の想い人であった彼女を守ることで、兄に義理立てしたいだけでは?
大切な家族であっても、失ったあとは段々と記憶が薄れていく……そのことに罪悪感を覚えていた。
当時は刃物で斬りつけられたように痛んだ胸も、月日の経過がそれを癒し、やがては思い出に変えていった……それがなんだか薄情なような気がして。
クローデットを大切に扱えば、兄に孝行しているような気になれた……ただそれだけなのかもしれない。
「今すぐ手紙を開封しないと、クローデットは別の場所に移ってしまうかもしれませんよ。あなたが彼女を助けられるのは、ワンチャンス、今だけ――さぁ、手紙を取りなさい」
悪魔が囁きかけてくる。エリシャは手を伸ばした。封筒に指先が触れ――……その瞬間、ピタリと動きを止めた。
「……利き手を怪我?」
呟きが漏れる。
セレステが先ほど語った、ロバート・B・サイツ侯爵と交わした会話の内容――クローデットがわざと転んで、利き手を怪我したふりを装ったのではないか――サイツ侯爵はそう語ったらしい。もちろんこれはセレステの言い間違い、記憶違いという可能性もある。
しかしセレステはクローデットの利き手がどちらか知らないはずだし、先ほどの発言はサイツ侯爵との会話を思い出しながら、そのまま口に出したという印象を受けた。
そう――あの日確かにクローデットは『左足』と『左手』を強打した。
しかしなぜ侯爵は、クローデットが『左利き』である事実を知っていたのだろう?
クローデットはあの場所で、たとえば書類にサインするだとかの、利き手がどちらか分かるような行動は取らなかった。あそこでは立ち話しかしなかったのだから、それは確かだ。
そして以前エリシャは湖で、セレステとサイツ侯爵が親しげに話している所に出くわしている。その時、彼はエリシャに向かって、
「まぁ私もクローデットのことは、先日の感謝祭で初めて見た程度で、よくは知らないのだがね」
と言ってきた。
やはり矛盾がある――サイツ侯爵はクローデットを感謝祭の時に初めて見たと主張しているのに、その時に転んだ彼女を見て、「利き手を怪我した」のが分かったのだという。初見の令嬢の利き手など、普通なら分かるはずがない――つまり侯爵は以前から、クローデットを知っていたことになる。
知っていたのに嘘をついた――それはなぜだ?
騎士団で積んだ経験から、エリシャは学んでいる――嘘の上手い人間は要注意だ。
エリシャはメティ神父の差し出す手紙を無視して歩き始めた。
セレステが去ったほうへ向かう。急ぎ足はすぐに駆け足に変わった。
角を曲がると、すでに彼女の姿は消えていた。
どこだ――……道の端に、黒革の手帳が落ちているのに気づく。これは、くまが持っていた虎の巻。肩かけカバンに入れて、家から持ってきたのだろう。
それがなぜ道端に落ちている? 緊急事態で、敵の目を盗んでくまがなんとかここに残していったに違いない。エリシャに異変を知らせるために。
手帳を拾い、中を手早くあらためる。救貧院北区画、売春宿の常連客というページで手が止まった。
『セルズニック侯爵、コールマン伯爵、ザナック伯爵、ブラムウェル、ペッティンゲル侯爵』
苗字のあとには必ず爵位が記されているのに、一名だけ、名前だけの記載があることに気づいた。
ブラムウェル……それは不自然に浮いて見えた。
「――ロバート・B・サイツ侯爵」
エリシャは顔色を失った。
ブラムウェル――それはサイツ侯爵のミドルネームだ。
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