第40話 彼はきっと戻らない
「クローデットは今、売春宿で働いています」
メティ神父の言葉は初め、軽々しく響いた。
「馬鹿な」
エリシャは信じなかったし、それはセレステも同じだった。
そもそもの話、マーチ子爵はいまだ逮捕されていない。ペッティンゲル侯爵周辺の調査は慎重に進められており、侯爵にもっと近しかった側近は数人ほど挙げられているようだが、子爵についてはいまだ手つかずの状態だった。
――思うに、マーチ子爵は末端も末端すぎて、ペッティンゲル侯爵にとっては弱点にもなりえないから、今のところ難を逃れているのではないだろうか。
つまりは捜査する側からすると、マーチ子爵は叩いたとしても、その労力が報われない程度の小物なのではないか。そうなってくると子爵はこのまま逃げ切れる可能性すらある。
親が断罪されなければ、その家の娘であるクローデットだってペナルティなしだ。
とにかく現状親がなんともなっていないのだから、娘のクローデットがそんなひどい目に遭っているわけがない。売春宿にいるという話は、どうにも辻褄が合わないように思えた。
セレステはメティ神父が掲げた手紙を眺めながら、クローデット自身の狂言を疑っていた。
……そうやってまたエリシャの気を引きたいだけではないの?
「親であるマーチ子爵がそんなことを許すはずがない」
エリシャがもっともな指摘をすると、メティ神父は片眉を上げてみせる。
「ところがね……父親はだんまりを決め込んでいるのですよ」
「なぜ」
「一連の事件ですが、ペッティンゲル侯爵がすべてを仕組んだとは、まさかあなたも考えてはいないでしょう? 彼はただの手駒にすぎず、その上には黒幕がいる――その御方がね、怒っていらっしゃるんですよ。マーチ子爵令嬢には、あなた――アディンセル伯爵を口説き落とすという重要な役目を与えたのに、彼女は失敗した。だから当然、ペナルティが必要だとね」
そんなことでクローデットを売春宿に入れたと? にわかには信じがたい。
しかし一方ではこうも考えられる――元々売春宿にはさしたる理由もなく、たくさんの令嬢たちが入れられてきたのかも。親の借金、家の醜聞など、本人にはなんの責任もないような理由で。クローデットの身に起きたことが理不尽なように思えても、それは売春宿にいる誰にとってもそうなのかもしれない。
クローデットがもしも『力のある大人たちを利用してやる』という考えで、エリシャとお近づきになれるよう色々助けてもらっていたのなら、それは『アディンセル伯爵を誘惑する』というビジネスを請け負ったことになる。それに失敗した場合、相手が「アンラッキーだったね、仕方ないよ」と寛容に許してくれるだろうか? 彼らはクローデットに投資したぶんを、きっちり回収しようとするだろう。
……メティ神父は真実を述べているのか? 考えれば考えるほど、セレステは分からなくなってきた。
「黒幕というのは、大司教か」
エリシャが確認すると、メティ神父は口元に淡い笑みを浮かべた。その人を食ったような態度を見て、セレステは焦りを覚えた。
話が向こうのペースで進んでいる。エリシャが手紙に手を伸ばしてしまいそうで怖い……それでつい、衝動のまま口を開いていた。
「だけどそれは――クローデットさんの嘘、かも」
エリシャとメティ神父が一斉にセレステのほうを振り返る。
セレステは追い詰められていた――エリシャに恋しているからこそ、失うことを恐れていた。
「クローデットさんは不安定になっていて、気を引きたいのかもしれません。売春宿にいると言えば、エリシャさんは会いに来てくれると」
「しかしそんな嘘をつくだろうか? 噂が広まった場合、貴族令嬢としては致命傷だ」
「だけど彼女は以前にも芝居をしていますよね? 感謝祭の日、私に突き飛ばされたふりをして、あなたの前で転んでみせたわ」
「君が突き飛ばしたわけではないのは分かっている。しかしだからといって、クローデットが演技をして君を陥れたということにはならない」
……どうしてエリシャはクローデットをかばうのだろう? 彼が反論するたびセレステは傷ついた。
もしもこの時彼女が冷静だったなら、エリシャはクローデットの味方をしているわけではなく、セレステが変に思い詰めないように気を遣っているのだと理解できただろう――事実、エリシャはクローデットの味方をしたわけではなかった。
彼は婚約者であるセレステを大切に想っているから、彼女が不安になる要素など何ひとつないと胸を張れるのだ。ただしそれをセレステが汲めるかどうかは別の話で……。
セレステはこくりと喉を鳴らし、か細い声で続けた。
「サイツ侯爵がおっしゃっていました――クローデットさんが中央広場で転んだ場面を見ていたそうです。彼女は私に突き飛ばされていないのに、わざと転んで、利き手を怪我したふりを装ったのではないかと。そのあとでアディンセル伯爵に色々かまってもらえるから」
気まずい沈黙が流れた。
楽しんでいるのはメティ神父くらいのものだ。彼はにやにや笑いを隠しもせずに、交互にセレステとエリシャを眺めている。
セレステは不意に『エリシャはあの手紙を受け取るだろう』と思った――彼は優しい人だから、きっとあの手紙を受け取る。
セレステは目の前が暗くなり、ひどく悲しい気持ちになった。
もうこれ以上は耐えられそうにない……みっともないところを見せたくなくて、意識して背筋を伸ばす。
「ごめんなさい……私、あなたを困らせて、どうかしていたわ」
「セレステ」
エリシャもつらい立場だった。
とはいえセレステは冷静に見えたし、あとで話し合えば分かってもらえるだろう……エリシャはそんなふうに考えてしまった。過去、セレステには何度も好意を伝えている――だからきっと理解してくれるに違いない、と。
「クローデットが本当に売春宿にいるのなら、助けてやらないと……彼女は、俺の兄が愛した人なんだ」
――「俺が愛する人」の間違いでは? セレステの胸が痛む。
「でもあなたのお兄様はもういない」
「兄が存命だったら、彼女は幸せな花嫁になって、俺の家族になっていたはずの人だ。彼女が身を落としてしまったら、兄が悲しむ」
「そうですか……私、先に家に帰ります」
「いや、一緒に帰ろう」
「あなたにはこれからすることがあるでしょう? 私は辻馬車を拾って帰るので」
「しかし」
「クローデットさんの力になってあげてください。彼女はあなたしか頼れる人がいないのだから」
もの分かりのよい台詞……セレステは彼を信じているような言葉を口にしながら、心の中で「さようなら」を告げていた。
彼はきっと戻らないだろう。クローデットが売春宿にいるのが事実ならば、ボロボロになった彼女に縋られれば、エリシャは彼女を拒絶できない。
これでセレステは永遠に彼を失う。
「セレステ――あとでちゃんと話そう」
彼が真摯にそう告げてくれたけれど、セレステの胸には届かなかった。
それでもセレステは真っ直ぐに彼の目を見返し、小さく頷いてみせた。
どうせ今の約束が果たされることはない……だから早くここから去りたかった。
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