第38話 セレステ。結婚しよう


 馬で町に出るのは初めてで、セレステはドキドキした。


 ドレスでは馬の背をまたげないため横向きに座る。ほとんどエリシャに抱っこされているような状態なのもなんだか妙に恥ずかしい。


 これじゃあ普通に恋人同士みたいだわ……風は冷たいはずなのに、セレステの頬は燃えるように熱い。


 エリシャは抱え込んだセレステにばかり注意を払っていて、結果的にくまちゃんのことはほったらかしになっていた。


 エリシャがセレステを見おろして、


「……食べちゃいたいくらい、可愛いな」


 と囁くので、セレステは息が止まりそうになり、これは手の込んだお仕置きか何かだろうかと考えていた。先ほど傍若無人なくまちゃんの肩を持ったかどで、セレステを罰しようとしているのかも。


 ソワソワしていたせいかあっという間に時間が過ぎて、目的地に着いた。


 商店街に程近い騎士団の南支部――そこに馬を預けておくらしい。彼が簡易的な柵の中に愛馬を入れるのを、セレステはぼんやりと眺めていた。あれだと簡単に逃げられそうだけれど、頭が良い馬なので自ら脱走することもないのだろう。


 セレステは彼の作業が終わるのを待つつもりだったが、わんぱくなくまちゃんはじっとしていない。


 くまちゃんがお菓子屋さんの甘い匂いにつられて駆けだしたので、セレステは慌ててあとを追った。


 しばらく駆けてから、一軒の店の前でくまちゃんが足を止める。


 店のショーウィンドウには可愛らしい飴が飾られていた。赤と白がツイストして縞模様を作り、カタツムリの甲羅みたいに、棒の上でらせん状に巻いてある。


 セレステはもう大人なので、こういったものを見ても『可愛い』と思うくらいだが、くまちゃん的にドストライクなお菓子だったらしく、ガラスにペタリと鼻を押しつけて夢中で眺めている。


 セレステはくまちゃんの頭を撫でてやり、


「買ってあげようか?」


 と尋ねた。


「いいのか?」


 一気に浮足立つくまちゃん。


「いいよ」


 もうくまちゃん、ピンクの舌が出ちゃってる――視線はずっとショーウィンドウの向こうに注がれたままだ。


「あれ、イチゴ味かなー? で、白の部分がミルク味かなー」


「どうだろう? 舐めてみれば分かるよ」


「でも食っちまうの、もったいないなー。しばらく部屋に飾っとこうかな」


 セレステはにこにこしてくまちゃんを眺める。喋っている内容なんか、もうどうでもいい……飴に夢中なくまちゃんがただただ可愛い。


 店内に入ろうとくまちゃんの手を取ったところで、大柄な店主が中から出て来た。


「すみません、このキャンディーをひとついただきたいのですが」


 セレステが丁寧に頼んでも、顰めツラが返ってくる。


「うちの商品で、あんたらに売ってやるものはない」


 腕組みをしているそのかたくなな佇まいを見て、セレステは戸惑った。


「それはどういうことでしょうか?」


「嘘つきくまなんかに売るものは、何もねぇって言ってるんだ」


「お金はちゃんと払います」


「いいから早く帰ってくれ――詐欺師が店頭に張りついているなんて、けったくそ悪いからな」


 セレステが心配してくまちゃんを見おろすと、つぶらな茶色い瞳で店主を真っ直ぐに見上げている。怒っているふうでもなく、じっと様子を窺っているので、純粋にどうしていいか分からないみたいだ。


 くまちゃんが無言でいることが、セレステにはずいぶんこたえた。


 普段のくまちゃんなら、すぐにブチ切れて食ってかかっているところだ。それなのにものも言えないほどに傷ついているのだと思うと、やりきれなかった。


 セレステはくまちゃんの手をぎゅっと握り締めた。


「――くまちゃんは嘘つきなんかじゃないです」


「広場での霊能者との対決、俺は見ていたぜ」


「水が苦手なんです、だからそれで」


「言い訳すんじゃねぇよ、そんなのなんとでも言えるわな。人を騙しやがって、クソくまが」


 目の前にいる店主から向けられた悪意は、社会の厳しさそのものだった――他者の失敗に厳しく、弱った相手を平気で踏みつける。


 そして踏まれるほうに正義があるかといえば、そうでもないのだろう。そう言われてしまう原因――たとえば過去の思い上がりや、脇の甘さなどは確かにあるのかもしれない。


 ……頭にきた。


 セレステが腹を立てているのは、自分自身に対してだった。


 くまちゃんはこうなるのが分かっていたから、来るのを渋ったのだ。それなのにセレステは無責任にも、「大丈夫」と請け合った。


 家を出た時はこう思っていた――くまちゃんは誰に迷惑をかけたわけでもないんだもの、買いものをするくらい、なんの問題ないはず、と。


 考えが甘かった――これに尽きる。こんなふうに無防備になれてしまうほど、日頃から私は周囲に甘やかされていたのか……それを思い知らされた。エリシャが優しくしてくれるから、外の世界に対して警戒を緩めすぎた。


 くまちゃんやエリシャはセレステのことを「優しい」と言ってくれる――だけど本当にそうなの? それは周囲にいる彼らが優しいのであって、別に彼女自身の手柄ではない。清流の中にいるのだから、清らかでいられるのは当たり前の話だ。それでは大切な者は守れない。


「と、取り消してください」


 怖くて足が震える。喧嘩は苦手だ。できれば一生したくない、だけど。


「何を取り消せって言うんだ」


 店主が唸るような声を出す。それでもセレステは退かなかった。


「くまちゃんを悪く言ったこと、取り消してください」


「うるせぇな、さっさと帰れよ! 営業妨害で訴えるぞ」


 争いの気配に、周囲に人が集まりつつある。


 店の奥から店主の娘か孫だろうか――五つくらいの女の子がおっかなびっくり出て来た。


「セレステ……行こうぜ」


 くまちゃんがくい、とセレステの手を引いて言う。


「だけど……」


「いいんだ。残念だけど、飴はあきらめるよ」


 物分かりの良いくまちゃんなんて、くまちゃんじゃない……セレステが悲しい気持ちになっていると、くまちゃんの脇の下に後ろから手が回され、ひょいと抱き上げられた。


 くまちゃんを抱き上げた人物を見遣ると、エリシャだった。


 背の高い彼に肩車をされ、くまちゃんは不意を突かれて、あんよをパタパタと動かしている。


「――こら、暴れるな」


「エリシャ! びっくりしたぞ」


「まったくもう。いつものガッツはどうした、くま」


「でもさ……飴を売ってくれないって言うんじゃ、仕方ないだろ」


 くまちゃんがモゴモゴと呟く。


 エリシャが微かに瞳を細めて店主を見おろすと、これまで威勢の良かった強面の店主が怯んだのが、セレステにも分かった。


 なんでもそうだが物事というものは度を越すと、良いものでも悪いものに変わることがある。顔が良すぎるのもまさにそれで、エリシャの佇まいは対面した相手を緊張させるようである。


「店主――くまを目の敵にするのはなぜだ」


「そ、それはその……こいつが詐欺師だからだよ」


「詐欺というと、何か実害を受けたのか?」


「実害……いや、それはないが」


「ならば飴くらい売ってやれ。何も強奪しようっていうんじゃない。金を払うのだから、拒否する理由がないだろう」


「待ってくれ――実害、やっぱりある。うちの娘がくまのファンで、グッズを買ったんだ。広場の対決のあと、胸糞悪いからあれらはゴミ箱行きになった」


「いくらだ」


「え?」


「グッズ代、私が払ってやる――いくらだ」


 思わぬ成り行きに、店主は言葉が出ない様子だ。グッズの件は嘘かもしれないし、もしも本当だったとしても、目の前にいるとんでもない美形騎士に金を出させるのが怖くなったのかもしれない。


 エリシャが落ち着いた声音で続ける。


「このくまを見てみろ、店主」


 促され、店主はエリシャに肩車されているくまちゃんを見上げる。


「この小さなくまが、世紀の大悪党に見えるのか? ただの子供だ」


「いや、しかし」


「ただ飴を欲しがっているだけじゃないか。久しぶりの外出ではしゃいでいる、幼い子供だ――よく見てみろ」


 諭されて、店主の顔に後悔の色が浮かぶ。


 ……言われてみればそのとおりで、目の前にいるのは、生誕祭で気分が高揚してお菓子を欲しがっている小さな子ぐまにすぎない。自分が虐めていた相手が、あまりに幼いのだということに店主は気づいたようだ。


 エリシャはちらりと視線を下げ、店から出て来た幼い娘を見遣った。


「娘の前で、まだくまに対してひどいことを言うのか? 今日は生誕祭だぞ」


「分かったよ。それじゃあ包むから、ちょっと待ってくれ」


「リボンをかけて、可愛くしてくれ」


「ああ……お詫びにチョコレートバーもつける」


 くまちゃんは表情を変えなかったのだけれど、嬉しすぎてどうしていいか分からなかったみたいだ。その証拠にモコモコしたお手々でエリシャの耳を塞いでみたり、あんよを意味なく動かしてみたりと、なんだかモジモジソワソワしていた。


 セレステは思わずエリシャの腕に縋った。


「あの、ありがとう、エリシャさん」


「礼などいい。それよりも来るのが遅れてすまなかった」


「いいえ。いいえ――私、この気持ちをなんと表現したらいいのか」


「素直に口にしたらどうだ?」


 エリシャは彼女が、「助かった」だとか「一緒に出かけられて嬉しい」だとかの、当たり障りのないことを口にするものと考えていた。腕に縋って一生懸命エリシャを見上げて喋るセレステが可愛すぎて、もう十分満たされた気持ちだった。


 ――ところが、意外なところで予想を超えてくるセレステ。


 エリシャは天然の恐ろしさを思い知ることになる。


「あの、エリシャさん、好きです! すごく大好きです。言葉では伝えられないくらい、好きです!」


 リンゴのように頬を赤く染め、精一杯な様子で訴えてくる。


 これは、どうすればいいのだ……エリシャは自制を失いつつあった。体の中を電気が走り抜けて逃げ場をなくしているみたいな、奇妙に衝動めいたものが込み上げてくる。


 瞬きをひとつしたエリシャの瞳がいつになく揺らいでいた。セレステは彼の目元が朱に染まるさまを、意外な気持ちで眺めていた。彼が照れているところを初めて見た。


 考えてみればセレステはいつも受け身で、彼に素直に思いを伝えたことがなかった。伝えたとしても、サラッと流されるような気もしていたし……なんとなくエリシャはセレステが好意を伝えても、涼しい顔で「そうか」と頷くだけかと思っていた。


 それがまさか、こんなふうになるなんて……とそこまで考えて、セレステは『いや、でも、待って』と引っかかりを覚えた。


 いえ、あのね――エリシャはもっとほかに照れるべき場面があったのではないかしら? たとえば今朝ふたりきりになった時に彼が仕かけてきた、『スキンシップ』という名目のあの行為に対してとか……。


 考えごとをしていたら、エリシャに腰を抱かれる。


「セレステ――結婚しよう」


「え? はい、そうですね?」


 セレステの勘違いでなければ、婚約というのは将来結婚する関係を指すはずだ。エリシャとセレステは婚約者同士なのだから、いずれは結婚することになると思う。


 けれどエリシャのほうは、そうではないと距離を詰めてくる。


「明日、しよう」


「あ、明日? それはさすがに、無理では……」


 彼が冗談を言うなんて、珍しいこともあるものだ。


 セレステが笑みをこぼすと、エリシャが真顔でじっと見つめてきたので、互いのあいだに重大な行き違いが発生しているような気がしてきた。


 え……明日結婚って、冗談よね……?


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