第37話 Yes!


 日は巡り――……寒風に吹かれて、色褪せた新聞が空を舞う。


『インチキくま、霊能者カンターに完全敗北! 民衆の怒りを買う』


 顰めツラをしているくまの白黒写真が掲載されたその記事は、先日かなりの部数が刷られ、王都中で配られたようだ。人々は興味深くこれに目を通し、『奇跡の精霊は作り話だったのか』と落胆を味わった。


 フィーバーの際に飛ぶように売れたくまちゃんグッズは、各々の家庭でゴミ箱へ直行。大衆の熱気は一気に冷め、あの子ぐまについては腹立たしさすら感じる始末だった。


 さて、ホプキンス家の様子は――……一時潤っていたこの家も、すっかり元のとおりに。庭木は荒れ、貧しく、惨めな有様である。


 玄関ホールにて、セレステは優しい瞳でくまちゃんを眺めおろした。カバンを肩に斜めかけしたくまちゃんは、バツが悪そうに俯いている。


「なぁ、セレステ……買いものはやめたほうがいいんじゃないか?」


「だめよ。今日は年に一度の生誕祭だから、ご馳走を買いに行かないと」


「俺が行くと、石とか投げられちゃうかも」


「そんなこと、気にしないで。くまちゃんも一緒にお出かけしたいでしょう?」


「うん……」


「じゃあ、いいじゃない。一緒に行こうよ」


 セレステは膝を曲げて座り、くまちゃんのお手々を取って、励ますように撫でる。


 くまちゃんはチラチラとセレステの瞳を覗き見ては、モコモコ足をモジモジさせた。買いものには行きたいけれど、セレステに迷惑をかけてしまうのではないかと遠慮しているのだ。


 かたわらで様子を見守っていたエリシャが小さなため息を吐く。


「殊勝なくまはなんだか気味が悪いな」


「気味が悪いって、なんだよ――エリシャ、口が悪ぃぞ」


「お前はずっと好き放題、やりたい放題だったじゃないか。今さらどうした」


「俺だって、ちょっとは大人になったんだ」


「何を一丁前に。小っちゃいナリして」


「からかうなよ、嫌なやつだな」くまちゃんが鼻の上に皴を寄せる。「なんだよ、そっちがその気なら、こっちもからかってやる。朝、セレステにチューしてるの見てたんだからな――どんだけする気だよ? 窒息させて殺す気か? さらにはセレステが嫌がっているのに、お前――」


「わぁああああ!」


 とばっちりを食らったセレステは真っ赤になってうろたえ、くまちゃんの口を慌てて塞ぐ。くまちゃんはさらに過激なことを言おうとしたところだったのに、強制終了させられ、ふごぉと喉を鳴らしている。


 そして肝心のエリシャのほうは、くまのからかいごときなんとも思っていない様子で、シレッと涼しい顔を崩さない。


「セレステは全然嫌がっていなかった」


 エリシャがそんなことを言うものだから……。


 なんだとう? くまちゃんはセレステの手のひらをひっぺがして叫ぶ。


「でもセレステは『だめ』って言ってたぞ!」


「意訳すると、あれは『もっとして』の意味だ」


「馬鹿か、クソが――お前イカレてるぜ」


 この時ばかりは、セレステもくまちゃんに同意だった。近頃のエリシャはふたりきりになると、確かにイカレている。


 エリシャははぁと深く息を吐き、膝を折ってセレステと並び、くまちゃんの瞳を覗き込んだ。


「ほら、くま――行くぞ。外を歩いても、石なんか投げられないから安心しろ」


「本当か?」


「私が一緒にいるのに、石を投げる度胸のあるやつはいないだろう?」


 エリシャの人間離れした美貌を見上げて、くまちゃんは『確かにな』と納得することができた。


「お前が俺を守ってくれるんだな?」


「そうだ」


「俺のこと、好きか?」


「……まぁ、そうだ」


「濁さないで、好きってちゃんと言えよ」


「……嫌ってはいない」


 ちゃんと「好き」と言わないエリシャのつれない態度に、くまちゃんのご機嫌が斜めになる。


「セレステ~!」くまちゃんがセレステに訴えた。「こいつにはもうドレスのボタンを三つ以上外させるんじゃない! あれ以上はマジでやばい、だってほとんど乳が――」


「きゃぁああああああああ‼」


 ふたたびセレステが大慌てでくまちゃんの口を塞ぐ。


 エリシャもエリシャで、「どこで見ていたんだ」と呟きを漏らし、うな垂れている。


 こんな具合に、お出かけ前にどっと疲れた人間の男女と、(おそらく)悪気のないくまちゃん。


 セレステは気を取り直してくまちゃんの首にマフラーを巻いてやった。紺地に赤と白と黄のラインが入ったタータンチェック柄で、くまちゃんの茶色い毛並みによくマッチしている。


「似合う」


 セレステが愛らしくてたまらないという顔でくまちゃんを見つめると、くまちゃんはちょっとだけ舌をはみ出させて、じっとセレステを見返した。


「――ほら、行くぞ」


 エリシャがくまちゃんのモコモコ頭をポンと叩く。


「エリシャ、これ似合うか?」


「ああ、似合う」


「俺、可愛いか?」


「ああ……まぁ、なんというか」


 濁すエリシャをセレステが切羽詰まった顔で見上げる。


「エリシャさん――懲りもせず、さっきのやり取りを繰り返す気ですか? ちゃんと可愛いって言ってあげてください」


 エリシャがくまちゃんを怒らせると、なぜかセレステが痛い目に遭うのだ。減るもんじゃなし、「可愛い」「好き」くらい、百回でも二百回でも言ってあげて。


 セレステに対してはふたりきりになると「もういいです」というくらい繰り返し言うのだから、彼の辞書に「可愛い」「好き」という文字が載っていないわけではないのだから。


「はいはい、分かったよ……お前は憎らしいくらいに可愛いな」


 エリシャがくまちゃんを小脇に抱え立ち上がる。


 くまちゃんはエリシャの腕にテローンと掴まり、斜め上を苦労して見上げた。


「俺のこと、好きか?」


「好きだ。ものすごく好きだ」


「そうか、俺とチューしたいか?」


「…………」


「エリシャさん――どうか大人になってください」


 くまちゃんの問いに対する答えは、すべて「Yes」でお願いします。あるいは「Yes!」で――こうなってはセレステも必死である。


 エリシャは哲学について考えているかのような難しい顔つきになり、しばし黙して考えを巡らせていた。そしてやっと折り合いをつけた様子で、セレステのほうを流し見た。


「セレステ――このツケはあとで君に払ってもらう」


「え?」


 どうして? セレステは呆気に取られた。意図を確認したいのに、彼はそれを許さない空気を醸し出してくる。


 エリシャは感情を読み取らせない、隙のない笑みを浮かべて言う。


「くま――キスは俺からする。お前からはしなくていい」


「そうなのか? お前からしたいのか?」


「そうだ」


「なんでだ?」


「されるより、するほうがマシだからだ」


「マシ? なんだよ、ちょっと嫌そうだな」


「気のせいだろう。俺なりの愛情表現だと思ってくれ」


「じゃあ、いつするんだ?」


「馬に乗ったあとだ」


「馬に乗るのか?」


「そう」


「エリシャの馬か?」


「ああ」


「セレステも一緒か?」


「うん」


 おそらくエリシャは勘の良い人なのだとセレステは思う。『相手をするしかない』と割り切ってしまえば、くまちゃんの扱い方は段違いに上手くなっている。


 たとえるならば、口の中にまだキャンディーが残っているのに、次のキャンディーを突っ込むようなやり口だ――気の逸らし方が絶妙である。


「セレステは乗馬服じゃないけど、いいのか?」


 確かにセレステは普段着のドレス姿だった。


「横抱きにして乗せるから、問題ない」


「ズボンのほうが動きやすいんじゃないか?」


 どういう訳かくまちゃんは『なぜなぜ期』に突入した模様。


 セレステと話す時はそうでもないのに、エリシャにはいやに質問したがる。もしかするとくまちゃんはエリシャのことが大好きで、こうしてお喋りできるのが嬉しいのかもしれないとセレステは推察した――そうなるとこれまでの悪たれぶりも、すべて愛情の裏返しだったのかしら?


 ……などと余計なことを考えていたから、罰が当たったのだろうか。


「あれはもうほかの男には見せない」


 とエリシャがいけしゃあしゃあと語り、


「ああ、だから夜、馬にも乗らないのに、エリシャはセレステにあれを着させて――」


 身も凍る話が展開され始めたので、


「うわぁあああああああああああああ‼」


 セレステはよろけながらくまちゃんに飛びつき、慌てて口を塞いだ。


 生きた心地もしないよとセレステがひとり冷や汗をかいていると、元凶のエリシャはどこ吹く風というやつで、くすりと笑みを漏らすのだった。


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