第35話 生きろ


 救貧院跡地では今、建物の取り壊し作業が急ピッチで進められている。


 円形広場に面した堅牢な表門だけはそのまま残されているが、奥の建物のほうはかなり解体が進んでいた。


 くまを掴んだ大男は錆びた門扉の隙間を通り抜け、奥へと進んで行く。


 メティ神父に続いてエリシャもあとを追った。砕けた煉瓦壁を避けながら、北を目指して歩く。


 取り壊し前に売春宿があった辺りに来ると、中庭のようにぽっかりと開けた場所に出た。


 四方を取り囲む壁だけが残り、天井は取り払われている。さらに奥へ進めば、北側の裏通りに出るはずだ。


 浴場の跡地なのか、煉瓦が敷かれた床は一部が四角く掘り下げられ、低くなった部分にも煉瓦が敷き詰められていた。


 くまはフェルトの肩かけカバンを取り上げられたあと、浴場跡地に投げ込まれた。くまの小さな体が床で跳ね、無様に転がる。


 それを見たエリシャはヒヤリとした。飛び出して助けてやりたい気持ちと、くまの正体を暴くには今しかチャンスがないという迷いが交互に押し寄せる。


 大男がカバンをひっくり返し、中をあらためた――ところが出てきたのは飴玉ふたつと、白いハンカチだけ。


 乱暴にカバンを掴んだせいで飛び出したハンカチが、浴槽のふちに引っかかり、その後ヒラリと中に落ちていく。くまのそばに落ちたようだ。


「――中に黒革の手帳はありません」


 男がメティに報告する。メティはやれやれとため息を吐き、浴槽の下で小刻みに震えているくまを見おろした。


 くまの体は先ほど噴水の飛沫が背中からかかったため、少し濡れている。


「手帳はどこに?」


 くまが答えないので、大男は足元に並べてあった木の桶を持ち上げ、そこに入っていた水をくまの顔に向かってぶちまけた。


 くまは正面から水をかぶり、恐怖で目を見開く。ふわふわしていた毛が濡れそぼり、ぺしゃんと潰れて顔に張りつくと、急激に痩せたように見えた。


 ぽっちゃりしていると思い込んでいたのだが、あれはモコモコの毛で膨れて見えていただけなのだとエリシャは気づいた。


 ガタガタガタガタ……ものも言えずに震えるそのさまはあまりに惨めで、痛々しかった。


 くまはほとんど上の空で、右手の親指のあたりを、反対の手で引っ張っている。何度も何度もそれを繰り返す。その動きは衝動的で意味がなく、追い詰められているように見えた。


「――もうやめろ」


 思わずメティの腕を掴む。しかしメティは冷ややかにエリシャを流し見て口を開いた。


「やめてどうなります? あなたはあの得体の知れないくまを、このままセレステのもとに帰すのですか? 何ひとつ疑念が晴れていないのに?」


「こんなのは間違っている」


「あのくまはね、手帳に貴族の後ろ暗い秘密を書き溜めていたのですよ。まともな精霊がそんなことをしますか? あなたは冷静になって、よく考えてみるべきだ――くまが震えているから、可哀想? それこそがアレの手なんですよ。いたいけなフリをして、人間を騙している。あなたはもう少し静観し、真実を知るべきです」


 エリシャはメティの腕から手を離した……何が正しいのか分からなくなってくる。


「もう一杯かけてやれ」


 メティが促すのを聞き、くまが恐怖のあまり体を捩った。


「あ……手帳……今日は、持ってこなかった……」


「どうして?」


「何か、嫌な予感がして……」


「どこにある?」


「か、隠した……」


「どこに?」


「あ……安全な……とこ……」


 さらに水がかけられる。


 くまは震える足を曲げてかがみ込み、白いハンカチを大事そうに拾った。それを握り締め、うつろな目でじっと前を見ている。恐怖の度が過ぎて、焦点も合っていない。つぶらな茶色い瞳の奥にある、凍えるような恐怖。


 エリシャはくまが握り締めているハンカチに注意を引かれた。手に持ったせいで向きが変わり、刺繍のされている部分がこちらにも見えた。


 以前セレステが、亡くなった弟グレッグの話をしてくれた。


 ホプキンス家の玄関ホールでいつか眺めた、姉弟の肖像画が脳裏によみがえる。指を反対の手で引っ張る、あの独特な癖。


 そして弟だけが描かれた別の絵――彼のお気に入りなのか、その手にきつく握り締められていた、白いハンカチ。あれには特徴的な刺繍がなかったか。


 そう――今くまが握り締めているような、馬の絵柄が。


 そんな、まさか……まさか、このくまは。


「やめろ!」


 エリシャは浴場に飛び込み、くまをさっと抱え上げた。元々小さかったくまの体がさらにしぼみ、以前のエネルギッシュな弾力が失われていることに気づく。くまはうつろな目でカタカタ震え続けている。


 触れた瞬間、その冷たさに驚く。元々体温はなかったように記憶しているが、今は氷を抱いているかのようだ。


 精霊だから少々追い詰められても大丈夫だろうと、悠長に構えすぎた――まさかここまでのダメージを負うなんて。


 大男が浴場に下りて来る。


「アディンセル伯爵、くまを渡してもらおうか」


「断る」


「痛い目に遭いたいのか」


 そう大男がエリシャを脅すのだが――三下風情にずいぶんなめられたものだ。エリシャは殺気を放ち、剣柄に右手をかける。


「邪魔するならば斬る」


 結果は分かり切っている。退かぬつもりなら、容赦はしない。


 すんでのところでメティ神父が制止をかけた。


「行かせなさい」


「しかし」


「どうせお前では、アディンセル伯爵に勝てない」


 エリシャはくまを抱え直し、身軽に浴場の窪みから飛び上がった。放り捨てられていたフェルトの肩かけカバンを拾い上げ、足早に歩き始める。


 すぐに駆け足になった。


 懐に抱えたくまに声をかける。


「大丈夫か?」


 くまはぼんやりと空を眺めていた。震えはずっと続いており、瞳もトロンとしている。それでも握り締めたハンカチだけは離すことがなかった。


「おい、しっかりしろ」


「……セレステに会いたい」


「すぐに連れていってやる」


「セレステ」


「もう喋るな」


「セレステに会いたい」


 うわごとのように繰り返す。


 ここからは騎士団の南支部が近い――駆け込み、馬を一頭借り受ける。


 エリシャは急ぎホプキンス邸を目指した。くまの瞳は虚ろで、覇気がない。エリシャはただ『死ぬな』と念じることしかできなかった。




   * * *




 ホプキンス邸に辿り着いたあと、くまはセレステのベッドに寝かされた。


 暖炉に火をくべ、セレステがどんなにさすっても、くまは弱々しい反応しか見せない。


「セレステ……」


 くまの呟きを聞いて、セレステがボロボロと涙をこぼす。父の具合が快方に向かいホッとしたところで、まさかこんなことになるなんて。


「くまちゃん、ああどうして……くまちゃん」


 セレステが乾いた布でくまの毛についた水滴を拭ってやり、額を撫で、腕を撫でる。それでも濡れそぼった毛並みは元に戻らない。


「寒いよぉ……セレステ、寒いんだ……抱っこしてくれよぉ……」


 セレステは震える手で布団をまくり、中に滑り込んだ。慈しむようにくまを抱く。


 セレステの手つきは優しく、愛に満ち溢れている……献身的で、それだけにどこか哀れだった。


 彼女の頬や耳は、泣いた時の生理反応で赤くなっている。


 エリシャはベッド脇の椅子に腰を下ろし、痛ましげにそれを見つめた。


 セレステの献身は裏切られ続けてきた……看病した母も、可愛がっていた弟も死んだ。くまも弱り切っている。


 セレステは身も世もなく泣き伏して、くまの頬に額をすりつけて神に祈った。


「どうかくまちゃんを助けてください。お願いです、お願いです……神様」


 意識せずにエリシャの体が動いた。ベッドの端に腰を下ろす。手を伸ばして、セレステのそれに重ねた。


 くまの額、セレステの手、エリシャの手が重なる。エリシャは心をこめて励ました。


「頑張れ、くま――いなくならないでくれ」


 くまのトロンとした瞳がゆっくりと動き、エリシャを見上げる。そこにはなんの恨みもなく、いつもの陽気で純粋な、あの輝きがわずかに戻ったかのように感じられた……それはもしかするとエリシャの願望が見せた幻なのかもしれなかったが。


 くまが瞬きして、ゆっくりと口を開く。


「まだいなくならねぇよ。しけたツラすんな」


「助けるのが遅れて、悪かった。私がもっと――」


「いいんだ――いいんだ、エリシャ」


「くまちゃん、死なないで」


 セレステに縋られて、くまちゃんは一瞬目を閉じた。


 ああまったくよ――指一本動かせないと思っていたのに、セレステに泣かれると俺ぁ弱いなぁ。


 くまちゃんは気合を入れて必死で目を開けた――死ぬもんか、と思った。強く思った。


 そうしたら少しだけお腹の奥のほうが、あったかくなったような気がしたのだ。


「馬鹿やろー、死ぬもんか」


「いなくならないで」


「ずっとそばにいるって、約束しただろ」


「くまちゃん」


「セレステ、大好きだぞ」


 セレステが抱きついてくる。


 セレステに抱っこされると、胸がぽかぽかする。


 セレステに良い子だと撫でられると、日向でお昼寝してるみたいに幸せだ。


 セレステに作ってもらったラザニアは、天上の食べものみたいに美味しかった。


 セレステは肩かけカバンを作ってくれた。薄茶のフェルトで、俺のお気に入りだ。


 セレステは泣き虫だ。俺がいなくなったら泣きっぱなしだろうな。


 セレステは俺が大好きだ。だって俺は可愛いからな。


 俺もセレステが大好きだ。セレステは良いやつだ。あったかいし。優しいし。


 俺はセレステが嫁に行くのを見届けるぞ。


 セレステの子供の名づけ親になるのが夢だ。


 まだミルナーに観光に行ってない……だけどパレードの件は、もうどうでもいいや。


 セレステをミルナーに連れて行きたい。だってずっと行きたいって、言っていただろう?


 だから俺――俺はさ――。


「くまちゃん、世界で一番好きだよ」


 おい聞いたかエリシャ――世界一だ、やったぞ! エリシャより好きだって。


 くまちゃんはへへ、と笑った。とっても良い気分だった。


「少し……くまちゃんの体があったかくなってきました」


 セレステのか細い声が寝室に響く。


「もっとさすってやれ、セレステ」


「はい――エリシャさん、そばにいて」


「ずっといる」


「くまちゃんのことも、守ってくれる?」


「君が愛する者だから、守ると誓う」


 エリシャはセレステのほうにかがみ、額にキスを落とした。


 くまちゃんを励ましながらも、心細さを感じていたセレステは、エリシャの存在に安らぎを覚えた。


「……エリシャさんも布団に入って」


 可愛いセレステにそう頼まれ、エリシャは上着を脱ぎ、くまを挟んで横たわった。手を伸ばし、セレステの頭を抱えると、あいだに挟まれたくまが呟きを漏らした。


「エリシャが間接的とはいえ、俺を抱っこするとはね」


「喧嘩はやめだ、くま」


「そうだな、それがいい」


 そのままくっついて仲良く眠った。


 夜が明ける頃にはくまの体はすっかり乾き、元のとおりに戻っていた。


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