第33話 メティ、仕掛ける


 父が風邪をひいて体調を崩したため、セレステは朝から看病で手一杯だった。


 今日はくまちゃんが新聞の企画で、霊能力を披露することになっている。


 くまちゃんとはあの喧嘩以降どうにもギクシャクしており、仲直りできていない。話しかけても拗ねたようにそっぽを向くし、日中もどこかへ出かけてしまうので、取りつく島もなくて。


 しかしセレステが作った料理は残さず食べるし、


「美味しい?」


 と尋ねると、無言で小さく頷いてはくれるので、セレステは期待を持ち続けていた。本気で拒絶されているわけではない……きっと元に戻れる、と。


 結局のところ、セレステ次第なのかもしれない。くまちゃんはただ拗ねているわけではなく、前向きな答えを待っているのだ――「ミルナーに行きたい」「一緒にパレードに出たい」とセレステが言ってくるのを。


 分かっているのに、セレステはどうしてもその言葉が口から出てこない。


 セレステが勇気を出せば、くまちゃんが喜んでくれるのは分かっている。だけどどうしてもそれができない――やはりパレードが嫌だ。大勢から好奇の視線を向けられるのだと思うと、胃がズシリと重くなる。


 今日の新聞の企画はセレステも楽しみにしていたし、見学に行きたかった。くまちゃんが大活躍して、皆から「可愛い」「すごい」と褒められるのを見ることができたら、友達として幸せな気持ちになるだろう。


 しかし父がこの様子では、家を空けられそうにない。父は「たいしたことないよ」と言うのだが、それが強がりなのは明らかで、頬は赤らみ、瞳も充血し、熱も高い。吐き気もあるようだ。


 エリシャが気を利かせて、


「くまのことは私が見てくる。屋敷の護衛役にはリッターを残しておくから」


 と言ってくれたので、近頃ではすっかりエリシャに信頼を寄せているセレステは、この申し出をありがたく受け入れることにした。


 玄関口でしゃがみ込み、くまちゃんの瞳を見つめ、


「頑張ってね――新聞の記事を読むのを楽しみにしているね」


 と伝えると、くまちゃんはまぁるいお目々をじっとこちらに向けてきた。


 なんだかそのさまが寄る辺なく感じられて、セレステはくまちゃんのモコモコお手々をそっと握り締めた。


「……緊張しているの?」


 くまちゃんは少し舌をはみ出させて、しばらくのあいだ黙ったままセレステを眺めていた。


「くまちゃん?」


「セレステ……ごめんな」


「え?」


「ミルナーのパレード、無理言って、ごめんな。俺が悪かった」


「くまちゃんは悪くないよ」


「いいや、俺が悪いよ」


 セレステは胸がいっぱいになった。くまちゃんをギュッと抱きしめ、瞳を閉じる。


「くまちゃん、大好きだよ」


「うん。俺もだ」


 くまちゃんも短い手をセレステの首に回してきた。モコモコした毛並みが首筋をくすぐり、セレステの顔が泣き笑いのようになる。


「決めた――私、出るよ。パレードに出る」


「本当か?」


「うん、約束する」


 それを聞いたくまちゃんが体を離し、嬉しそうにセレステの顔を見上げてくる。


 セレステは微笑んでみせながら、内心では『これでもうあとには引けない』と考えていた。手足が冷えていくような怖さがあるが、もう「出る」と言ってしまったのだから、やるしかない。


 ……だけどくまちゃんが喜んでくれたことだけは、よかったと思う。


 かたわらに佇むエリシャが複雑な表情でこちらを見おろしているのに気づいたが、セレステは彼の顔から思わず目を背けていた。


 彼はパレードへの参加について否定的な立場だった。それだってセレステを案じてくれているからこそで――だというのにエリシャの意見を無視した形になってしまい、それがセレステの気持ちを重くしていた。


 ――セレステに見送られて馬車に乗り込んだエリシャは、対面に腰かけている小さなくまを冷たい目で見据えた。微かに瞳を細め、固い声で告げる。


「……やってくれたな」


 くまは両足を投げ出して無邪気な様子でシートに腰かけており、見た目は可愛いただの子ぐまだ。しかし。


「話しかけるなよ、エリシャ」


 途端にくまの眉間に細かい皴が寄り、お腹でも下しているかのような顔つきに豹変する。


「純粋なセレステを操るな」


「うるさい、セレステはミルナーに俺と行くんだ」


「彼女はパレードを嫌がっている」


「行けば絶対楽しい! お前こそヤキモチを焼いているんだろ」


「俺は彼女の気持ちを思い遣っているだけだ」


「なんだよ」


 くまはきっと眦を上げ、鼻の頭に皴を寄せて威嚇してきた。


「こうしてお前が婚約者でいられるのも、俺が頑張ったおかげなんだからな! 俺がセレステの婚約者をほかのやつにしようと思えば、いくらだってそうできるんだ」


「セレステの気持ちは無視か?」


「黙れよ、すべては俺次第なんだ! お前なんて、どっか行っちゃえ、馬鹿!」


 腹を立てたくまは座席の上に立ち上がり、窓に張りついて外の景色を眺めることにしたようだ。


 エリシャは難しい判断を迫られていた――セレステはくまを大切に想っている。その気持ちは尊重してやりたい。だがしかし……。


 このくまは危険だ。己の能力を過信し、セレステの人生を操ろうとしている。


 セレステがくまを断ち切れないのならば、代わりに自分がその役目を負う必要があるのかもしれない……エリシャはそんなことを考えていた。




   * * *




 新聞社で企画された『精霊による霊能力披露』は円形広場にて開催されるらしい。


 そこは救貧院の表門が接している広場で、エリシャとしても何かと思い出深い場所だった。


 くまは新聞社の若い男に向かって、


「あの噴水、水は止めたままでいくんだよな?」


 と細かい点を確認している。


「そうですね、今日は平日なので、噴水のポンプは動かしませんよ」


 男が答えた。


 噴水は休日の朝、昼、夕と、決まった日時しか水が出ない運用になっている。今日は平日であるし、ついでにいえば時間帯も外れているので、当然水は止まっていた。


 噴水前の広い場所には、テーブルと椅子のセットがふた組並べてある。


 くまちゃんがそのうちのひとつに着席すると、見物に来ていた観客から黄色い声援が上がった。


「可愛い」


「見て、あのモコモコの毛並み」


「抱っこしたい」


「耳がまん丸ね」


「思っていたより、小っちゃいな」


 そんな感想が、群衆のあちこちから上がる。


 神に祝福を受けたくまの精霊は大変な人気らしいと、世情に疎いエリシャは驚くばかりだった。エリシャはくまの付き添いであったが、そばには近寄らずに、観客に混ざって見物することにした。


 ふと気配を感じて視線を横に向けると、淡い笑みを浮かべたメティ神父が近寄って来るのが見えた。


「お久しぶりです、アディンセル伯爵」


「こんなところでくまのショーを見学とは……暇なのか?」


「おかげさまで大忙しですよ」


「お前の立ち振る舞いは見事だな。まだ自由に外を出歩いていられるとは驚きだ」


 ペッティンゲル侯爵が捕まり、メティ神父は絶体絶命のはずだった。なんせ売春宿があった救貧院の委員をしていたのだから。しかし彼は『知らぬ存ぜぬ』を貫き通し、そしてまた当事者であるペッティンゲル侯爵がメティ神父の関与を否定したため、いまだこうして自由の身でいる。


 ペッティンゲル侯爵が義理人情でメティ神父をかばっているわけもないから、裏には様々な駆け引きがあったのだろう。拘束中のペッティンゲル侯爵は共犯者の名前を吐かず、固く口を閉ざしている。


 苛烈で有名な第二王子も攻めあぐねているようで、いまだ大司教も大手を振って外を歩いているような状況だった。


「ああ、そろそろかな」


 メティ神父が瞳を細めて注意を促す。


 広場の中心部では、新聞社の記者やカメラマン、臨時雇いのスタッフなどの動きが活発になりつつあった。


 メティ神父が目線で促す。


「見てください、カンターのお出ましです」


「カンター?」


「おや、ご存知ない? ゴシップ誌では今、カンターの特集がずいぶん組まれているのですがね」


「ゴシップ誌は読まない」


「最近、名を売りつつある霊能力者ですよ。カンターはあなたと顔見知りのはずですが」


 下手(しもて)から現れたのは小さな子供だった。十歳前後で、少年のような面差し――その横顔を見て、エリシャは眉を顰めた。


「……あれは救貧院のアンか?」


「ご名答。でも今は名前を変えているので、カンターとお呼びください」


「あれが霊能者だと?」


「まぁね」


「ペテンだろう」


「さぁ、それはどうでしょう」


 メティ神父の態度はのらりくらりとしている。この男はいつもこんな調子で、超然としていて、人間味がないとエリシャは思う。


 もしかすると心がどこにあるのかを、本人ですら分かっていないのではないか……。


 エリシャも以前はよく「感情が表に出ない」と言われていた。しかしそれは彼のかたくなな部分の表れであり、根は意外と単純なのである。


 だからメティ神父の得体の知れなさとはまるで在り方が違う。


 そして気質が真っ直ぐなエリシャは、メティ神父のような手合いが苦手だった。


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