第32話 暗雲
国中で熱狂的なくまちゃんフィーバーが起こっていた。
――奇跡の精霊!
――可愛いだけじゃない、聖なる力を持つくまちゃん!
――くまちゃんの写真を飾ると幸せに!
――くまちゃんグッズが国中で大ヒット!
タンポポの綿毛みたいにふわふわの毛並をした、子ぐまの精霊。人々は神の与えたもうた奇跡に胸を打たれ、可愛らしいその姿に夢中になった。
くまちゃんには確かに非凡な能力があり、失せものを探したり、近い未来の出来事を予言したりすることもできた。それらを逐一新聞が報じる。
貧乏貴族だったホプキンス家も金の流れがよくなり、屋敷の外観もかなりまともになった。庭も手入れされ、カビの生えていた外壁も綺麗に塗り直された。雨漏りしていた屋根も修復された。
ホプキンス家を訪ねる客人も増えた。
そんなふうに交友関係が広がると、変わった話も舞い込んでくるものである。
* * *
セレステは厨房の椅子に腰かけて、ラザニアが焼き上がるのを待っていた。
そこへフラリとくまちゃんが現れ、セレステの膝にうんしょうんしょと乗ってきた。そして悪戯に瞳を輝かせ、こんなことを言い出した。
「なぁ、セレステ! 半月後、ミルナーの港町に行ってみないか?」
ミルナーと聞き、セレステの顔に思わず笑みが浮かぶ。ミルナーは長年ずっと行ってみたかった土地だ。セレステが看病に明け暮れていた頃、病弱な弟と旅行記を眺め、「いつかきっと行こうね」と語り合った。
黄や赤や水色のお菓子箱みたいな可愛い家々に、船着き場に停まった、爪先の尖った靴みたいな形の摩訶不思議な船。
「素敵ね……」
セレステはくまちゃんの脇の下に手を入れて、その体を支えるようにしながら瞳を細めた。
くまちゃんは両足を踏み踏みするように動かしながら、得意げに口を開け、ピンクの舌を少しだけはみ出させた。
「金は全部、ミルナーのほうで負担してくれるんだ」
「え、町が全部負担してくれるの?」
「そうだ――『パレード』だの『お偉いさんとの会食』だのを三日ばかし我慢すれば、そのあとはのんびり遊べるぞ」
――『パレード』に『お偉いさんとの会食』、ですって?
ただの旅行ではないのね……セレステは自らの思い違いに気づき、くまちゃんのつぶらな瞳を見つめ返した。
「ええとくまちゃん……それって本気で言っている?」
「本気も本気さぁ、だって話はもう受けちゃったからな」
「ま、まぁ、そうね……くまちゃんは可愛いから、パレードも似合うよね。町の人はすごく歓迎してくれると思う」
「セレステは急いで新しいドレスを作らないといけないな」
「どうして私がドレスを?」
「セレステも馬車に乗って、一緒にパレードするからだよ」
くまちゃんはご機嫌で足踏みを続けている。
対し、セレステの顔色は悪い。
「え? あの、私がパレードって、嘘でしょう?」
「あちらさんから、『奇跡の聖女も一緒にパレードしてほしい』って言われてる」
「でも私は奇跡の聖女じゃない」
「俺と一緒にいるんだから、それだけでもう、奇跡の聖女さ」
「そんな」
セレステの眉尻が下がる。
すっかり怖気づいている彼女を見て、くまちゃんはびっくりしたような顔をしている。くりくりお目々がセレステを真っ直ぐに見上げ、戸惑ったように揺れた。
「……嫌なのか、セレステ? ミルナーに行きたくない?」
「ミルナーには行きたいけれど、でも」
「行きたいのに、なんで嫌そうなんだよ?」
「観光はしたいけれど、パレードが嫌っていうか」
「パレードが嫌? なんでだ――セレステは俺が有名になるのが嫌なのか?」
「嫌じゃないよ。くまちゃんは可愛いし、皆の人気者になるのは当然だよ」
「じゃあなんで一緒に喜んでくれないんだよ? 俺はセレステと一緒にパレードをしたいのに! 皆が俺を褒めているところを、セレステに近くで見てもらいたいのに! きっと楽しいのに」
言い募るくまちゃんを前にして、セレステは困り果ててしまった。
くまちゃんは陽気な精霊だから、他人の視線を意識して緊張してしまうセレステの気持ちなど、まるで理解できないのだろう。
悪気はないのだ。純粋にこちらの気持ちが分からないだけで。
セレステとしては『一緒にパレードなんてありえない』という考えなのだが、段々と自分が悪いような気がしてきた。
くまちゃんが純粋によかれと思って取りつけてきた仕事を無下に断るなんて、思い遣りに欠けるのではないか? ただ気が進まないというだけの理由で、やろうとしない――人としてそれでいいの?
セレステはエリシャに相談したいと思った……第三者の冷静な意見を聞いてみたい。
考えを巡らせているセレステを眺め、くまちゃんは眉間に細かな縦皴をいくつも刻んで、ご機嫌を損ねたような顔つきになっている。
「なんだよ、セレステ――本気で嫌なんだな」
「それはあの、ごめんね……エリシャさんに相談して、ちょっと考えてみてもいい?」
「なんでエリシャに相談するんだよ? あいつのこと、嫌っていたじゃないか」
「嫌っていないよ。すごく頼りになるし」
「セレステは嘘つきだ。前、あいつが嫌いって言った」
「心は言葉どおりじゃないこともあるの」
「じゃあ――じゃあセレステは『ミルナーに行きたい』って言ったのも、嘘だったんだ」
くまちゃんの瞳にじんわりと涙が滲む。鼻の頭がヒクヒク動いて、あまりに傷ついているらしいそのいたいけな仕草に、セレステの胸がチクリと痛む。
……もしかするとくまちゃんは、セレステをミルナーに連れて行きたい一心で、骨を折ってパレードの仕事を取りつけてくれたのだろうか。
「それは嘘じゃない――ミルナーには本当に行きたいよ。でもエリシャさんの意見も聞いてみたいってだけで」
「俺、エリシャが嫌いだ――あいつ最近、俺を変な目で見てくる。じっと見張っているんだ」
「そんなことないでしょう? くまちゃんのことが心配なんだよ」
「違う! セレステはなんにも分かっていない!」
「エリシャさんは護衛騎士だから、婚約者である私のことだけじゃなく、くまちゃんのことも守ろうとしてくれてるの。だから目つきが鋭くなっているだけだと思う」
「エリシャは俺をスパイでも見るような目で見るんだぞ、絶対、監視しているんだ。あいつは信用できない」
「それはくまちゃんがいつも悪戯ばかりするから――」
「俺が悪いってのかよ? エリシャの味方をするのか? ――セレステの馬鹿! もういいよ」
くまちゃんは怒って身をよじり、セレステの膝から降りてしまった。そのままタタ……と走り去ってしまおうとするので、セレステは慌てて呼びかけた。
「くまちゃん! ラザニアがもうすぐできるよ?」
くまちゃんの足がピタリと止まる。けれど振り返ってはくれず、
「……いらねぇ」
と呟いてそのまま行ってしまった。
セレステは胸が苦しくなった……どうしてこうなってしまったのだろう?
手のひらで額を覆い、深いため息を吐いた。
* * *
ダイニングでエリシャと話をした。
夕食には少し早い時間だったので、ふたり以外誰もいない。
椅子に行儀良く腰かけ、セレステは隣に座るエリシャを見つめた。
「私、引っ込み思案なんです。人前に出るのが苦手で。だからくまちゃんがせっかくミルナーに行こうと誘ってくれたのに、パレードが嫌で、うんと言えなかった。くまちゃんを怒らせてしまいました」
それを聞いたエリシャが小首を傾げる。
「君は何も悪くないと思う。だってセレステはパレードに出たくないのだろう?」
「そうです。でもそれは単に私の我儘なのかも」
セレステは今、強い後悔に襲われている――自分がほんの少し我慢すれば、苦手なことを克服しさえすれば、きっとくまちゃんは喜んでくれるのに。
やってもいないうちから、『あれも嫌、これも嫌』って、やはり自分勝手よね……?
「どこが我儘なんだ? 俺だってパレードは絶対に嫌だ」
エリシャの端正な顔立ちがはっきりと顰められたので、本心から嫌なのだなと伝わってきた。それでついセレステは笑みをこぼしていた。
「華やかなエリシャさんには、パレードが似合いますよ」
「似合うかどうかは関係ない。とにかく嫌なものは嫌だ」
「あなたが私の立場だったら、パレードには出ませんか?」
「絶対に出ない。喉元に剣を突きつけられても出ない」
かたくなだなー……セレステは感心してしまう。
「考えてみると、エリシャさんはくまちゃんのことがすごく好きってわけじゃないですよね――じゃあもしも大事な人に頼まれたら? その人から『パレードに出てくれ』って泣きつかれても、絶対に出ませんか?」
「ああ……君に泣かれたら、どうするかってこと?」
え……びっくりした。セレステは目を見張り、反射的に体を引いていた。
「ええと……私?」
「俺が何かを考え直すとしたら、相手は君しかいない。そうだな……君に真剣に頼まれたら、前向きに検討すると思う」
青い瞳が微かに細められ、彼の視線がセレステの頬の辺りを撫でるように彷徨う。
セレステは頬を羽毛でくすぐられているみたいな気持ちになった。
なんだか呼吸もままならないみたい……。
「前向きに検討って、でも……さっきは『剣を突きつけられても出ない』、そう言っていたのに」
「だけど君に泣かれたら、さすがにね……」
「それは剣を突きつけられるより怖いことですか?」
どうして……?
エリシャは問いには答えずに、綺麗な笑みを浮かべる。
それはどこか悪戯であるのに、キラキラした光に包まれているような神々しい笑みだった。隣にいるセレステは頭がぼんやりしてきて、しっかりしなくてはと自らを叱りつける必要があった。
「……そういえばくまちゃんは、エリシャさんから最近監視されていると言っていました。心当たりはありますか?」
セレステはこれに対し、すぐに否定の言葉が返されるものと考えていた。彼は呆れたような顔をして、『いつも悪戯ばかりしているから、見張っていただけだよ』と答えるに違いない、と。
ところがこの問いを受けたエリシャの表情が微かに曇ったので、セレステは驚いた。
「エリシャさん?」
「君に嘘はつきたくない……しかし、なんと言ったらいいのか」
「なんですか?」
「くまが悪い精霊だという話が出ている。危険かもしれないから、監視していたんだ」
「誰がそんなことを?」
「分からない――ボンディ侯爵夫人経由で入ってきた話だ」
「ボンディ侯爵夫人から……」
ならばこちらを貶めようとする意図があるわけもないから、ボンディ侯爵夫人は本当にその話を信じているのだ。
セレステは前のめりになり、エリシャに訴えかけた。
「きっと間違いです。くまちゃんは良い子です、悪いことなんてしません」
「しかし、どうだろう――人間社会に降りて来て、人の悪意に晒された結果、それに毒されたということはないだろうか。やつは君に対しては忠実な友人だったはずなのに、このところ少し我儘がすぎるだろう」
「くまちゃんは嘘がつけないんです。我儘なんかじゃないわ」
「だが君がパレードに出たくないと言ったのに、自分の希望を一方的に押しつけようとした」
「違います、くまちゃんは期待しただけ。私が期待に応えなかったの」
セレステは感情が昂り、顔を赤らめた。じんわりと瞳が潤んでくるのが分かった。
「泣くな、セレステ……俺が悪かった」
バツが悪そうにエリシャが謝り、セレステの頬をそっと指で撫でる。
セレステは自分の不甲斐なさが情けなかった。エリシャを困らせたいわけではないし、上手く説明できない自分が恨めしい。
「忠実な友人でいなかったのは、私なの。くまちゃんはいつだって味方してくれた。くまちゃんがパレードに出たいなら、私は喜んでそれに付き合うべきだったのかも」
「そんなことはない。友人なら対等であるべきだ。自分の心に嘘をついて、無理に付き合わなければ成立しない関係なんておかしい」
「……でもエリシャさんはさっき、私が頼んだら前向きに検討するって言ったわ」
「俺の場合は下心があるからだ。跪いて乞う立場だから、君のケースとは違う」
沈黙が流れる。セレステは今ふたりきりであることを思い出した。
し、下心って、それはつまり……頬が燃えるように熱い。
ああ、だめだわ……これ以上、何も考えられない。
「エリシャさん――くまちゃんに作ったラザニアが残っています。それを食べていただけませんか?」
「俺は別のものを食べたい」
艶っぽい仕草で見つめられれば、彼が何を望んでいるのか、いかに鈍いセレステといえど見当がついた。けれど分かったとしても、応えられるかどうは別の話で……。
「――今はラザニアしかありません」
「本当に?」
「ほ、本当です。ほかにはないの」
「ない、と言い切る前に考えてみてほしい――……すべては君次第なのに」
エリシャがからかうように囁きを落とす。
セレステはどうにも耐えられなくなり、右手を持ち上げて、彼の胸を軽く叩いた。力が入らず、手がクタリとしているのが情けない。もう顔も上げられない。
彼は本気で迫るつもりもなかったようで、すぐに態度を改めて「冗談だよ」と笑った。それからふたりは温め直したラザニアを仲良く食べた。
楽しげなカップル。室内の柔らかな明かり。美味しそうな匂い。
――僅かに開いていたダイニングの扉が、廊下側から静かに閉められた。
くまちゃんは背伸びをしてドアノブから手を外し、足元に視線を落とした。
「……あれは俺のラザニアなのに、なんだよ」
くまちゃんはグッと目元に力を込めて、顰めツラを作った。そうしてあたたかなダイニングに背を向けて、肩を落としてトボトボと歩き始めた。
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