第31話 クローデットの新しいおうち
最後にもうひとつだけ、ボンディ侯爵夫人は甥っ子に伝えなければならないことがあった。
「エリシャ――くまに気をつけなさい」
「それはどういう意味ですか?」
「情報源は明かせないのですが、くまが悪い精霊ではないかという疑いがあるのだそうです」
「それはデマでは? くまは一部の貴族から恨まれています――たとえば先日チャプター・ハウスで売春宿通いを暴露された貴族とか」
やはりエリシャは取り合おうとしないか……ボンディ侯爵夫人は身を乗り出し、甥っ子の手を握った。強く力を込めて告げる。
「精霊は取り扱いを間違えるとおそろしいものですよ。セレステは心が弱っているから、魔のものに憑かれる危険がある。婚約者であるあなたが気をつけてやるべきです」
「しかしくまはセレステのことを大事に思っているようですが」
「それは『執着』なのかもしれないわ。本来、精霊はもっと人の暮らしに無頓着であるはずよ。話を聞く限り、そのくまは少々悪魔的ね――享楽的で、愉快。なんとなくだけれど、まだ見せていない深い闇がありそう」
「……心に留めておきます」
エリシャは帰路につきながら、ボンディ侯爵夫人からされた忠告について考えを巡らせた。
ボンディ侯爵夫人がどこから情報を得たのか分からないが、彼女はペッティンゲル侯爵を嫌っているので、その一派が吹聴する中傷のたぐいには耳を貸さないだろう――そうなると信用できる筋(すじ)からもたらされた話ということになるのか?
くまに関する忠告が一気に真実味を帯びてくる。
確かにチャプター・ハウスでのくまのやり口は異常だった……あれはちゃらんぽらんに見えて、底が知れないところがある。
エリシャは胸騒ぎを覚えた。
* * *
結論をいえば、クローデット・マーチ子爵令嬢に関して、ボンディ侯爵夫人が手を煩わせるような事態にはならかった。
とはいえ夫人がエリシャとの約束を違えたわけではない。夫人は夫人なりに色々と動いてはいたのだ。
ボンディ侯爵夫人はクローデットの処遇について、今後もしも彼女の父親が罪を問われるような事態になったならば、その娘である彼女は質素に生きていくべきだと考えていた。清貧をモットーに静かに暮らし、日々の食事にありつけるだけでも感謝すべきだと。
その後の長い人生でいつかまた花咲く機会に恵まれるとしても、それは本人が努力して掴むべきである。彼女のように再スタートを切る立場で、華やかな舞台を初めから誰かに用意してもらおうなんて、図々しいにもほどがある。
そんなボンディ侯爵夫人の方針に沿うような、うってつけのところが見つかった――それは知人の子爵家だった。
当主は厳めしい人物で、敬虔な教徒であり、贅沢や浮ついた快楽を嫌っている。彼が笑ったところをボンディ侯爵夫人はただの一度も見たことがない。妻もカビが生えた骨董品のようで、偏屈で退屈な女性だった。しかし生真面目な夫妻であるので、虐待などはしないだろう。
クローデットは衣食住を最低限保障してもらう代わりに、繕いものをしたり、掃除をしたりと、いくらかは夫妻の役に立てるはずである。
――と、そんなことを考えていたところで、ある日、クローデットが忽然と姿を消してしまったのだ。
ボンディ侯爵夫人は彼女の身を案じはしたものの、結局、これで良かったのかもしれないと考えるようになった。
エリシャに頼まれたことで、クローデットをどうするかの裁量は、ボンディ侯爵夫人に一任されている。甥っ子がいまだクローデットと友人関係にあったなら、あの子のことだ――きっと心配してあちこち探したことだろう。けれどエリシャには、「以降、絶対にクローデットの身の上を案ずるな」と言ってある。
だからこれでよかったのだ――だってボンディ侯爵夫人ならば少しの罪悪感もなく、クローデットのことを忘れてしまえるから。
* * *
クローデット本人はどこへ消えたのだろう? ボンディ侯爵夫人はその答えを知らないが、クローデットは薄暗い大聖堂の地下で、一応生きてはいた。
現状、彼女は孤独ではない。なぜなら地下にいる彼女はひとりではなかったから。
孤独どころか、いつでもひっきりなしに客が訪ねて来る。
クローデットの転機はこんなふうに始まった――ある晴れた日に、メティ神父が彼女のもとにやって来たことがきっかけで。
これまでずっと、クローデットはメティ神父から親切にされてきた。クローデットがセレステに会いたいと望めば、救貧院で顔を合わせられるよう、メティ神父が上手く取り計らってくれたし。
メティ神父はセレステにはぞんざいな態度を取るのに、クローデットに対してはいつだって優しかった。クローデットはそれを『私が人並外れて美しいおかげね』と解釈していた。
メティ神父のように妖艶な男性に一目置かれ、特別扱いされるのは良い気分だった。彼は線が細く中性的なのでクローデットの好みではなかったが、そばに置くぶんには見目華やかなので周囲に自慢できる。
父の処遇がどうなるかで鬱々としていた時、メティ神父が屋敷を訪ねて来たので、クローデットは喜んで彼の馬車に乗り込んだ。
彼女の悩みは父のことに限定されない――先日エリシャに湖の畔で冷たくあしらわれたことも、心を乱していた。だからクローデットはメティ神父に慰めてもらおうと考えていた。
……エリシャったら、どうしてしまったのだろう? クローデットの苛立ちが募る。わざわざ湖まで会いに行ってあげたのに、彼の態度は最悪だった――地味でみじめなセレステに気を遣うなんて、まったくらしくない。
また近日中に彼を訪ね、しっかり話をしなくては。
こうなってくると、セレステと引き離す作戦を考えたほうがいいかもしれない……エリシャは真面目なところがあるので、婚約者を無下にもできないのだろう。ボンディ侯爵夫人が勝手に決めた縁談なのだから、気を遣う必要なんてないのに。
クローデットが思うに、セレステという女は薄ぼんやりしているように見えて、抜け目がない。まだ本性を暴けていないが、あの女が何かズルをしてエリシャを縛りつけているのは明白だった。エリシャの生真面目な性格につけ入り、図々しくも婚約者ヅラをしている……。
確かにセレステは地味でみじめな人間であるから、ああいった残念な女に泣きつかれたら、エリシャとしては相手が可哀想に思えて突き放せないのだろう。
クローデットはそれらの愚痴をメティ神父に話して聞かせた。彼は特別愛想がいいわけではないけれど、いつもどおり優美に相槌を打ってくれた。
こちらが何か尋ねれば丁寧に返事をしてくれるし、クローデットのほうも話したいことがたくさんあったので、あっという間に時が過ぎた。
やがて目的地に着いたらしく、馬車が停まり――外に出ると、なんと大聖堂前である。彼にエスコートされて中に入って行く。
薄暗い地下に下りて行く段になって、クローデットは少しだけ怖くなった。
……メティ神父はなぜこんな所に連れて来たのだろう? 地下空間は暗く、重苦しく、その独特の湿っぽさがなんだか淫靡に感じられる。
「メティ神父、私をどこに連れて行くおつもりですか?」
質問に対し、彼は優美な態度を崩さずに答えた。
「この先は救貧院北区画の出張所になっています」
「え? それってつまり、その……」
思わず口籠る。救貧院北区画で売春宿を経営していた話は、クローデットも聞いている――首謀者であるペッティンゲル侯爵が捕まったというのに、場所を大聖堂の地下に移して、まだ続けているというの?
クローデットは今すぐ帰りたくなった。
「あの、メティ神父……私、そういう場所の見学はしたくありませんわ」
「見学ではありませんよ、クローデット。ここが今日からあなたの『家』になるのです」
クローデットは恐怖を覚え、後ずさる。袋小路に追い詰められたネズミの気分だった。目の前にはとぐろを巻く大きな蛇がいて、鎌首をもたげている。
「馬鹿なことをおっしゃらないで! 私、私――こんな所に住まないわ!」
「あなたに拒否権はありません」
おそろしいのは、彼がちっとも激していないところだった。脅しもしないし、暴力を振るうわけでもない。彼はいつもどおりだった。それがクローデットはおそろしい……。
「父はまだ捕まっていないのに」
「あなた自身に問題がないとでも? あなたは我々にあれこれ手助けをさせたくせに、エリシャ・アディンセル伯爵の取り込みに失敗した――つまり無能だからここにいるのですよ」
「こんなのおかしいわ」
「我々の理屈では、そうおかしなこともないのですがね」
いつの間にか近くに来ていた屈強な男が、クローデットの華奢な腕を掴む。
「やめて、お願い……私を家に帰して」
美しい顔を歪め懇願するクローデットを、メティ神父は興味深げに眺める。
「こうなった自分を可哀想だと思いますか?」
「私は何も悪いことをしていないわ! こんな目に遭うのは理不尽よ!」
「悪いことをしていないというのは、語弊があるかと……婚約者がいるアディンセル伯爵に平気でちょっかいをかけていたわけですからね。それにより傷つく人もいるはず」
「私がセレステのことを思い遣やなかったから、罰を受ける――そういうこと?」
「いいえ」
メティ神父が凪いだ瞳をクローデットに据える。そして否定の言葉を繰り返した。
「――いいえ」
「ではなぜ」
「あなたが今ここにいるのは、悪人だからではありません。あなたが少しだけ嫌な女なのと、今ここにいることにはなんの因果関係もない――だってここで働いている女性の大半は、あなたよりずっと心が清らかなのですから」
「ひどいわ」
「考え方を変えたらよろしい。別にね――あなただけが不幸なわけではないし、あなたが特別嫌な人間というわけでもない。あなたは何も特別じゃない――あなたの人生は、とてもありふれている」
クローデットを奥に残した状態で、重く堅牢な鉄柵が閉ざされる。
メティ神父は踵を返し、階段を上がって行った。
こうしてクローデットは貴族社会からドロップアウトした。
地下に残ったクローデットは、世間的にはありふれているけれど、どこもかしこも仄暗い、彼女なりの人生を歩んでいくのだ。
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