第30話 エリシャ、後悔で死にたくなる
知人の見舞いで長いこと不在にしていたボンディ侯爵夫人が、ようやく戻って来た。
ボンディ侯爵夫人との面会が叶ったエリシャは、そこで深刻な話を聞かされることになる。
「十年ひと昔と言いますけれど、今の世の中は、十日たつと大昔のような感覚ですわね」
夫人は閉口した様子で口元をすぼめてから、話を再開した。
「それでエリシャ。セレステとは上手くやっているのでしょうね」
「……努力はしています」
「煮え切らない返事ね。まさか嫌われてはいないでしょうね?」
エリシャの女性に対する潔癖さを誰よりもよく知るボンディ侯爵夫人は、疑いの眼差しを甥っ子に向ける。
セレステが内気で控えめな娘だから、この気難しいエリシャも、そうそう悪い態度は取らないだろうと考えていたのだが……もしかすると楽観視がすぎただろうか?
伯母上から厳しい視線を向けられ、エリシャは言葉もない。
ボンディ侯爵夫人が厳しい語調で告げる。
「セレステさんには、わたくしが本当に無理を言って、婚約者になってもらったのです。あの子に断られたら、あなたは大変なことになりますからね」
これは伯母上が無理強いした縁談だったのか……その情報は初めにいただきたかったとエリシャは思った。
ボンディ侯爵夫人が変に誤解を招く表現をするから、エリシャとしてはセレステが狡賢い娘だと誤解してしまった。
今では直接関わって彼女の人柄を理解したし、誤解も解けているけれど、すべてが遅きに失したといえる。初めからそう聞いていれば、もう少しソフトな入り方ができたはずなのに……。
エリシャはふと、ボンディ侯爵夫人の言葉の中に気になる部分を発見した。
「今伯母上がおっしゃった『あなたは大変なことになりますからね』というのは、どういう意味です?」
「ペッティンゲル侯爵が、クローデットとあなたを結婚させようと策略を張り巡らせていたのですよ。ペッティンゲル侯爵は醜聞で退場したけれど、その計画自体はしぶとく残っているのです――あなただって嫌でしょう? 義姉になるはずだったクローデットと結婚するのは」
「馬鹿な」エリシャは呆気に取られた。「私とクローデットが結婚? 彼女は兄と恋仲だったのですよ、ありえない」
「ありえなくもないのです。ほかの有力者を巻き込んで外堀を埋められつつあったので、本当に危ないところでした」
「しかし――私が望んでいないのに、そんなことになるわけがない」
「お馬鹿さん、人生なんてドミノ倒しみたいなものなのよ。気づけば誰かが向こうのほうで勝手に牌(はい)を押し、あなたのドミノはあっという間に倒れていくのです。あなたのように計算もなく生きていてはね、気づいた時には、クローデットが産んだ我が子をその腕に抱いていますよ――それであなたはやっと、彼女と結婚している事実に気づくのです」
あんまりな言い草だった。伯母上はどれだけ甥っ子をでくのぼう扱いするのだろう? 子供が生まれるまで入籍の事実にすら気づかないって、どれだけ間抜けなのだ。
けれどまぁ、それはもののたとえというやつで、それに近い事態にはなりかけていたということなのだろうか……知らぬは本人ばかりなり、というやつで。
エリシャはほとんど打ちひしがれて、呻くような声で尋ねた。
「……セレステはどうしてこれまで婚約者がいなかったのですか」
「不思議でしょう? あの子の十代は、人の面倒を見て終わってしまいましたからね」
「どういうことですか」
「母親が病弱で、弟も臥せりがちだった。優しい子ですから、セレステがつきっきりで面倒を見たみたい。弟さんが亡くなったのが三年前――あの子が十七の時だった。家族の心配ばかりしてきたから、抜け殻のようになってしまったのね。弟のグレッグを亡くした時は、我が子を失ったみたいに嘆き悲しんでね……ずっと屋敷にひきこもって。可哀想で、見ていられませんでした」
エリシャは目を伏せ、込み上げてくる激情を抑えた――自分はなんということをしたのだろう。そんなふうに過ごしてきた孤独なセレステの心を、過去の自分が踏みにじったのだと思うと、なんともやるせなかった。
泣いていたセレステ――そりゃあ、泣くだろう。
新しい一歩を踏み出そうとして、婚約者に決まったエリシャに対して献身的な姿勢を見せてくれていたのに、あんな心無い態度を取られては。
ホプキンス家は貧しさも驚異的だった。セレステはあの家しか知らないのだ――しかし与えられた境遇で腐るでもなく、受け入れて、懸命に生きてきた。贅沢もせず、文句も言わず。
エリシャが彼女に会いに行った時、馬から下りた彼女は、「一生結婚できないと思っていたから、舞い上がってしまった」と謝ってきた。まるで自分が悪いのだというように――彼女に悪い点など何ひとつなかったのに。
その後よそよそしくされたけれど、それはすべてエリシャが追い詰めたからで、彼女としては適切な距離を取らないと嫌われてしまうと思っていたのだろう。
ボンディ侯爵夫人がため息まじりに告げる。
「セレステにはあなたの状況も伝えていました。兄の婚約者だったクローデットとエリシャが結婚させられそうだから、それをどうしても防ぎたいと――わたくしのわがままを押しつけてしまった。今になってみると、酷な要求をしました。だってセレステにはクローデットの件は関係ないものね。エリシャが愚かにもクローデットを選んだなら、それはあなた自身の責任ですもの」
なんなのだろう……次々後出しで重要な話が出てくるのだが。
セレステはエリシャがクローデットと結婚させられそうだということも知っていたのか?
それなのに度々エリシャがクローデットを優先した態度を取れば、(エリシャからすれば不可抗力な部分はあったとはいえ)、婚約者であるセレステは不安に感じたはずだ。エリシャの行動は無自覚とはいえ、ひどいものだった。セレステに対してとても残酷だった。
「……殺してくれ」
とうとうエリシャはテーブルに肘を突き、額を押さえて俯いてしまう。
気持ちが悪い……吐きそうだ。
「そこまで後悔をするほど、あなたはセレステに悪い態度を取ったということ?」
「否定はしません」
「なんてことかしら」
ボンディ侯爵夫人のほうも動揺しているようだ。瞳が落ち着きなく左右に揺れている。
「セレステは今『精霊に愛されし聖女』として王都中で話題になっていますよ。あなたにこだわらなくても、ほかに相手はいくらでもいるのです。あなたより家格が上の侯爵家あたりでも、彼女が欲しいと名乗りを上げるかもしれません」
「それはたとえば、サイツ侯爵とか?」
「そう――そうね。彼は今独身でしたね。奥様をかなり前に亡くしているから」
「彼はセレステを望むと思いますか?」
「欲しがっても不思議はない。ああ……考えてみると、彼の亡き妻はセレステに少し似ている気がしますわね。いえ、顔がというか、雰囲気がね。前の奥様はサイツ侯爵が熱心に口説いたらしいから、彼は派手な美人よりも、清潔感のある控えめなタイプがお好きなのね。おそらくですがセレステを一目見たら、手に入れたくなるのではないかしら」
だろうな……エリシャは口元に手を当てて考えを巡らせる。
苦悩が彼の端正な面差しに影を落とし、奇妙な色気を生んでいる。ボンディ侯爵夫人はそれに気づき、こっそりと感嘆のため息を吐いていた。
おやまぁ……これまでなかったはずの艶っぽさが出ているわね。
エリシャは美しいが、ガラス細工のような男だった。見栄えのする観賞用の存在――特別ではあるけれど、いってみれば、ただそれだけの男。
彼に何が足りないかといえば、それは情念で、内から滲み出る色気がまるでなかった。それがなんと……たったひと月かそこらで、こうも変わるとは。
ボンディ侯爵夫人から向けられた好奇の視線にはまるで気づいていない様子で、エリシャが気鬱な様子で切り出した。
「このところクローデットの精神状態が不安定で困っているのです。見境なく私を頼ってくるので、そのことでセレステとギクシャクしています。そこで伯母上にお願いがあるのですが――あいだに入って、クローデットの後見人を探していただけないでしょうか」
ボンディ侯爵夫人はエリシャがこれをクローデット可愛さに言ったのなら、もはや匙を投げていたかもしれない。そのくらい愚かしく、お門違いな頼みごとである。
しかしエリシャの瞳を見返すと、理知的な分別のあるいつもの彼であることが分かった。夫人はため息を吐き、思わず椅子の背に上半身を預ける。
「念のための確認ですけれど……あなたはクローデットの存在を、今となっては少し面倒に感じているのね?」
「薄情かもしれませんが、そうです。私は彼女に対し、『義姉になる人だから、家族のように接しよう』と心がけてきました。兄が亡くなったからと、そこで関係を断ち切ることはできなかった。ちょっとした呼び出し程度なら、まだよかったんです。そう手間でもなかったし。けれど彼女は父親が逮捕されることを必要以上に恐れていて、度々泣きついてくる。ですがなぜ頼る相手が私なのか――正直、戸惑っています。まず親や親類縁者とじっくり相談しろと思ってしまう」
「そう言ってやったら?」
「言いましたが無駄でした。正論を言っても、彼女には意味がない。意見を伝えても結局長い時間拘束されるだけで、彼女は私を頼ることをやめようとしない。ですから具体的に生活の保障をしてやれば、ちょくちょく私に会いに来ることもなくなるかと思ったのです」
「……難しい問題ね」
夫人は頭の中でこの先起こるであろうことをシミュレーションしてみた。
その結果、エリシャは意外と賢い選択をしたといわざるをえなかった。
男女間の問題では、責任感に囚われることが必ずしもプラスに働くわけではない。現にエリシャが見せた誠意に、クローデットはつけ込もうとしている。
だからこの状況を上手くおさめられるのは、わたくしだけでしょうね……。
「分かりました。貸しひとつよ、エリシャ」
「助かります、ボンディ侯爵夫人」
「ただし、条件があります」
ボンディ侯爵夫人は椅子に座り直し、少し前のめりになって、エリシャを厳しい目で見据えた。
「ひとつ、わたくしの裁定に一切もの申さぬこと。ふたつ、以降、クローデットとは連絡を取らないこと。三つ、彼女に対して、過去抱いていた友愛の情は、今ここで捨てること。四つ、以降、彼女がどうしているかを知ろうとしないこと――どうですか、守れますか」
「なぜそこまで厳しく?」
「あなたが考えたくないようですから、わたくしは耳が痛くなることを言いますよ――クローデットはあなたが好きなのよ。本当は気づいているんじゃない?」
「伯母上、それは」
「あなたはね――クローデットが義姉になる人だから、親しくできたの。絶対に自分に懸想してこない相手だと分かっていたから、珍しくガードが緩んだ。それは恋情ではないのだけれど、結果的に、あなたの懐に入れた女性はクローデットだけだった。だから彼女は勘違いしてしまったのね。クローデットが特別な感情を抱いていて、あなたがそれに応える気がないのなら、もう会うべきではない。下手な温情をかけるべきではない。極論を言えば、彼女が野垂れ死にしようが何しようが、バッサリ切って捨ててもいいくらいですけれど……あなたは見かけによらず親切なところがありますものね。だからわたくしにそうやって頭を下げているのでしょう。それでいいと思いますよ」
エリシャはしばらくのあいだ考えを巡らせていた。やがて彼は小さく息を吐くと、姿勢を正した。
「私は本当に考えが足りなかった」
「あなたはまだ若いですから」
「このようなことを伯母上に頼っている現状が恥ずかしいです。私はクローデットを口説いたことはなかったし、異性として特別に想う気持ちも一切なかったのですが、これはやはり客観的に判断すると、女性関係のトラブルそのものですね。自分ではそれすら気づいていなかったというのだから、どうしようもないと思います」
「それに気づけたのは、あなたに特別な人ができたから――そう思っていいのかしら?」
問うてみたら、初めてエリシャが柔らかな笑みをみせた。
それは雪の下から顔を覗かせた可憐な花のように美しく清廉であったので、ボンディ侯爵夫人は毒気を抜かれてしまった。
……この子は男性であるのに、王都にいるどの女性よりも華やかで綺麗だわ。けれどそんな彼が惚れたのは、素朴でありふれた容姿の娘……それがまた不思議でもあるわね。
「セレステを婚約者にしてくださって、感謝しています」
「いい子でしょう?」
「いい子だし、可愛いです……とても」
あらまぁ、ご馳走さま……夫人はやっと微笑みを浮かべ、ティーカップを優雅に傾けたのだった。
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