第29話 ふにゃふにゃ


 そこへ競争を終えたリッターとくまちゃんが戻って来た。


 くまちゃんは途中で謎犬をリリースしたらしく、単体でのご帰還である。ほとんど走ってないので、まるで疲れていない様子だ。というか精霊なので、完走していたとしても、息は上がらないのかもしれなかったが。


「くまよ、俺の勝ちだな」


「ジャーキーで謎犬を操るなんて反則だ! 断固抗議だ‼」


「そもそも犬に乗っている時点で、反則だろうが」


「なんだよー、無効試合にしようぜー」


「だめだ。俺の勝ちだ。酒をおごれよ」


「金ねぇよ……じゃあ分かった、代わりにセレステのおっぱいを揉ませてやるから」


「え? まじで? ならいいよ」


 セレステはハラハラした――リッターさん、後ろ見て! エリシャさんが剣柄に手をかけていますよ!


 エリシャは真面目なので、婚約者が猥談(わいだん)のネタにされるのは許せないようだ。そこに愛はないが、ちゃんと礼節にはうるさい男――エリシャは厳格な父親像を体現したような人物であると、セレステは思った。


「リッター、辞世の句を詠(よ)め。聞くだけ聞いてやる」


「ってうわぁ‼ エリシャ、冗談だから。乳は揉まない、あれはお前のだ」


「だけどさ、リッター」まぜっ返すくまちゃん。「セレステの尻の上でチェスをしたいって言ってただろ」


「黙れくま! 口の周りを針金で縛るぞ」


 リッターも必死だ――気づけばエリシャがすでに半分ほど鞘(さや)から剣を引き出しているので、必死にもなるというものだろう。


 セレステは困ったように眉尻を下げ、エリシャに小声で訴えた。


「……あの、もう戻りませんか?」


「すまない、友人がいやらしいことを言って。気分が悪いだろう」


「いえあの、冗談だと分かっているので、大丈夫です」


 セレステが微笑んでみせると、エリシャがそれはそれは冷たい目でリッターを流し見たので、リッターはバツが悪そうに視線を逸らす。


 それで『じゃあ、各々馬に乗って戻ろうか』となった時に、クローデットがまたひと悶着起こした。


「私、馬を帰してしまったわ」


 ……なんだって? 全員が一瞬、意味が分からずに無言になる。


「クローデット――馬を帰したとは、どういう意味だ」


「しばらくここで話すと思っていたから、従者には先に宿に戻っているように言ったの」


 そうだったのか……セレステは驚いた。確かに彼女が従者に何か指示を出し、馬が下がって行くのは見ていたけれど、途中の小道で待機しているのかと思っていた。まさか追い返していただなんて。


 ん……だけどおかしくないだろうか? しばらくここで話すのだとしても、帰したらだめなんじゃないの?


 エリシャがため息を吐き、少し難しい顔でリッターのほうを振り返る。


「クローデットを同乗させてやってくれ」


「あー……構わないが」


 リッターがクローデットのほうを見遣ると、彼女のほうは難色を示す。


「でも私、親しくない男性の馬には乗れないわ」


 それで、エリシャの馬に乗りたい……と。


 セレステは頭痛がしてきた。もはや何も言うことはない。決めるのはエリシャであるべきだと思ったし、段々どうでもよくなってきたセレステである。


 なんだかここまで押せ押せでこられると、『もう乗ればいいんじゃない?』という気にもなってきた。面倒臭いし、早く帰りたい。というかこの勢いで押され続けたら、セレステ自身も、今夜はクローデットを自邸に泊めてしまいそうだ。


 一度しっかりやり取りして解決したはずなのに、すぐに『なかったこと』にされ、ループするように同じ流れに戻るのはたまったものではない。


 エリシャは伝えたはずだ――婚約者ができたことで、クローデットとの関係性を見直すことにしたと。しかし彼女のほうは時間が経過すると、またエリシャに縋る。


 セレステは淡白なほうなので、しつこい人が苦手なのだ――もう勘弁してほしい。


 エリシャが硬い声で提案する。


「分かった――じゃあセレステ、君の馬に彼女を乗せてやってくれないか」


 セレステは顔を上げ、彼の目を見て頷いてみせた。確かにそれがいいかもしれない。


 ただし不安材料はセレステの力量である――クローデットを同乗させて、非力な自分にちゃんと馬を操れるだろうか? 正直なところ、乗馬に関してはまだ初心者なので少し怖い。


 するとクローデットがそれを笑い飛ばした。


「あらエリシャ、ひどいわ! セレステさんを家までひとりで歩かせようだなんて! 地味な女の子をぞんざいに扱うのって、それ、完全にいじめよ?」


 セレステは驚いてしまった。え、そうなの? と思ったからだ。


 エリシャは立派な紳士だから、さすがにそんなひどいことをさせないと思うのだが……でもそれならそれでいいような気もする。家までかなりあるが、昔は徒歩でここまで来たのだ。歩いていればいずれ着く。


「俺がセレステを歩かせるわけがないだろう――おいで」


 エリシャがセレステのほうに視線を転じ、手を差し出してくれたので、半信半疑で彼に近寄って行く。


「……一緒に乗せていただけるのですか?」


「君が嫌でなければ」


「ええと」


 言葉にならない。微かに俯いて、ハンチング帽のひさしで顔を隠そうとしたのだが、おそらく耳まで赤くなっているはずで、それはきっと彼にも見られているだろう。


 婚約者ではあるけれど、同じ馬に乗るほど近づいたことはなかった。先にセレステが馬上にまたがり、次いで彼が身軽に乗り込んで来た。


「わ、私……ふたり乗りに慣れていないです」


 しどろもどろになっていると、エリシャの左腕がお腹に回される。彼は右手で手綱を掴み、セレステの耳元で囁きを落とした。


「力を抜いて……緊張が馬に伝わる」


「緊張を解くのは無理かと」


「こっちを見ろ、セレステ」


 顔を上げて振り返ると、至近距離に彼の整った顔があった。


 わぁ、近いな! 狼狽したセレステの体が傾く――……しかし鍛えているエリシャは左腕一本で、さして力も入れずに彼女を抱え込んでしまう。


「背骨を失くしたのか、セレステ」


「わ、笑わないでください。これはびっくりしたせいで」


「ふにゃふにゃだな」


「失礼な」


「全部柔らかい」


「きゃあ、どこ触って――」


 セレステが動揺のあまり体を捻ると、形の良いお尻を突き出すような形になる。


 エリシャとしてはいやらしいことをするつもりはなく、落とさないように慌てて抱え込んだところ、あちこち――言うのもはばかられるほどあちこちくまなく、手のひらで揉むような形になってしまった。


 体を撫でられて腰砕けになっているセレステと、珍しく楽しそうなエリシャ。


 ふたりを眺めながら、リッターがトントンとクローデットの肩を叩いた。


「言っとくけどあれ、君のアシストの結果だからね」


 クローデットが忌々しそうにリッターを睨みつける。


 くまちゃんはトタタ……と駆けて、


「邪魔するぜぇ!」


 と叫び、セレステの足を伝って、あっという間にエリシャの馬の背に上がった。そしてセレステのお腹の前というベストポジションに落ち着くと、すぐに馬のたてがみを無遠慮に弄り始める。馬はものすごく嫌がっていた。


「おい、くま――同乗は認めていない」


「うるせー、俺はセレステに抱っこされて帰るんだ!」


「セレステは俺に抱っこされて帰る」


 エリシャとくまちゃんの会話は噛み合っているようで、噛み合っていなかった。


 だからなんだ……の極致である。


「なんだよ、固いこと言うない!」わめくくまちゃん。「セレステのおっぱいを揉ませてやるから、いいから乗せろよー」


「………」


 黙り込むエリシャ。


 これはさすがに……セレステの肩が怒りと羞恥で震える。


「……どうしてすぐに否定してくれないんですか、エリシャさん!」


 大体くまちゃんは、人の胸をなんだと思っているのか!


「あ、ああ、すまない」


「さぁ行くぜ! 出発進行ー‼」


 マイペースなくまちゃんが肩かけカバンから小さな笛を取り出し、プーピーと吹いた。それからくまちゃんは前のほうに乗り出し、カバンから出した人参をちらつかせて、エリシャの馬をからかい始めた。


 普段ならばセレステもエリシャもこのような悪行を放ってはおかないのだが、互いの距離があまりに近いので、意識がすべてそちらに持っていかれて、くまちゃんの動向にまで注意を払うことができなかった。


 結果としてエリシャの愛馬はくまに激しい憎悪を募らせ、ストレスを抱えたまま走り続けることになった。


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