第28話 しつこいクローデット
湖の畔でのんびりと時間を潰す。
くまちゃんとリッターは「自分のほうが足は速い」と口喧嘩を始めて、そのうちに今夜の酒を賭けて勝負することになり、今は湖一周ぐるり耐久レースの最中だ。
序盤で差をつけたリッターの圧勝かと思いきや、くまちゃんは明らかにズルをしていて、どこから連れて来たのか『謎の犬』の背に乗り、猛追し始めた。
セレステとエリシャはふたりきりになり、草地に直接腰を下ろして湖面を眺めた。
「ここへはよく来るのか?」
普通の会話なのに、なんだか妙に照れくさい。セレステは顔が赤くなっているだろうなと自覚しながらも、小さく頷いてみせた。
「はい、思い出の場所なんです」
「小さい頃から来ていた?」
「つらいことがあった時に……だけどあの頃はまだ、弟も元気だったわ」
「弟がいたのか。玄関に肖像画が飾ってあったから、気になっていた」
「三年前、八歳で亡くなりました。ずっと体が弱かったの」
「……大切な人が苦しんでいるのを見るのは、この上なくつらいことだ」
エリシャの声は低く落ち着いていて、心地が良かった。過剰でもなく、足りなくもない。饒舌ではなくても、真っ直ぐな気性が話し方に滲み出ている。
セレステは心がほぐれていくのを感じた。素の状態に近くなると、過去に感じていた――そして今現在も囚われ続けている、どうしようもない孤独を思い出す。
「生きていると……時間の流れが速すぎて、ついていけないと感じることがあります。何ひとつとして、同じ場所に留まってはいない。時折思うんです――その中で自分だけが前に進んでいないみたいだと。歯がゆくて仕方ない」
「俺も似たようなものだ。何ひとつ進歩がないし」
「エリシャさんが?」
笑みが漏れる。彼は立派な騎士で、社会の役に立っている。セレステとはまるで違う。
けれど彼にはたぶん繊細なところもあって、こうして近づいてみれば、それがよく分かる。
「一人前になったつもりでも、失敗ばかりだ」
「そうなんですか?」
「君を泣かせてばかりいる」
「だけど……私を泣かせたとしても、あなたにはなんの影響もないでしょう?」
「そんなことはない。だってほら――今、俺の世界にいるのは、君だけだ」
彼がセレステの手を取る。緑深いこの場所で、気づけばふたりきり……彼の澄んだブルーアイが、セレステだけを映している。
セレステは不思議な気持ちになった。吸い込まれるように、彼の瞳を覗き込む。
「できれば笑っていてほしいけれど……でも君の泣き顔も結構くるな」
どういう意味……? 疑問に思ったけれど、それを問う言葉すらも出てこなかった。彼が身じろぎして、繋いでいないほうの手をセレステの頬に伸ばした。
「セレステ」
名前を呼ばれると、雲の上に乗せられたみたいにフワフワして……ここではないどこかへ飛んで行くみたい。
頬を指で撫でられ、さらに頭がぼんやりしてくる。エリシャの美しい顔が、段々と近づいてくるような気がした。このままだと互いの隙間がなくなってしまうような……?
と、その時。
「――エリシャ‼」
夢心地のセレステを現実世界に引き戻す、女性の大きな声。
セレステはハッとして身を引く――目の前で思い切り、両手をパン! と打ち鳴らされたような気分だった。
彼の肩越しに視線をやると、クローデットが馬から下りるのが見えた。彼女は従者が操る馬に同乗して来たようだ。
流行を手堅く押さえた都会的な乗馬服を身にまとっている。体の線が貴族女性らしく華奢なので、ああいった膨らんだ服を着ていても良く似合う。クローデットはいつどこで見ても、とびきり美しい。
彼女を乗せて来た従者は邪魔にならないようにとの配慮なのか、百八十度回転し、そのまま馬を操ってここから去ってしまった。
クローデットはエリシャに用があるようだ。ところがどういう訳かエリシャはクローデットのほうに顔を向けず、一拍置いてから小さく息を吐く。
「……これは君を泣かせた天罰か何かか?」
「エリシャさん?」
「自制していないと、悪態が口をついて出そうだ」
普段クールな彼が衝動的になりかけているのは、なんだかとても珍しいことのような気がした。
そしてセレステのほうだって冷静でいられたわけではない――ふたりきりの空気をクローデットに見られたことが気恥ずかしく、すっかり狼狽していた。顔が熱くなり俯いてしまう。
エリシャのほうが立ち直るのは早かった。億劫そうに腰を上げ、こちらに駆けて来るクローデットに向き合う。
「――クローデット、何か用か」
「宿に戻ったら、父から手紙が届いていたの。捜査の役に立ちそうだと思ったら、居ても立ってもいられなくて」
彼女は「宿に戻ったら」と言っているので、エリシャはあのあとクローデットを当家から退去させたようだ。しかし「居ても立ってもいられなくて」と言うわりに彼女、完璧に乗馬服を着こなしているわ……セレステはつい皮肉交じりに考えていた。
そして数時間前にヤキモチを咎められたばかりなのに、こんなふうにクローデットを否定的な目で見てしまう自分に嫌気がさした。
セレステだって善良な人間でいたいと思っている――けれどクローデットが目の前に現れると、平静を保つことすら難しくて。
「どうしてここが分かった?」
どこか冷ややかなエリシャと、対照的に縋るような顔つきのクローデット。
「セレステさんの屋敷を護衛していた騎士に聞いたの――あなたが馬に乗って湖に向かったと」
「ならば追って来ずに、その騎士に手紙の内容を伝言してくれればよかった」
「……来てしまって、迷惑だった?」
クローデットが寂しそうに尋ねると、エリシャは口を閉ざし、考えを巡らせている。彼女を突き離せずに困っているというよりも、これから発する言葉の内容を慎重に選んでいる感じだった。
クローデットは瞳を潤ませ、憐れみを誘う態度で言葉を押し出した。
「あなたのお兄様から『困ったらエリシャを頼れ』と言われていたから、私……でもそうよね……迷惑よね。セレステさんが嫌がって、あなたに当たるだろうし」
「これまでの私は考え方が幼稚だったかもしれない。君のことは家族も同然だから、身内のように扱ってもなんの問題もないと思っていた。しかしやはり問題がある」
「どうして? 家族も同然――そのとおりでしょう? 私だってエリシャのことを大切に思っている。あなたがピンチに陥ったら、私が助けるわ。だからあなたも当然――」
「君と私の関係性はこの際どうでもいいんだ。それよりも私は、セレステに家族同然の男がいたら、ものすごく嫌だ」
「だけどセレステさんにそんな人はいないでしょう?」
クローデットはセレステを尖ったもので突き刺すようなことを平気で言ってきた。『だってあの方、まるきりモテないのだから、そんな異性がいるわけないでしょう?』というふうに聞こえてしまうのは、セレステの被害妄想だろうか。
「『いる』か『いない』かは関係ない。客観性を持つべき――それに気づいたという話だ」
彼がこういった結論を出すに至ったのは、サイツ侯爵との一件が響いているのだろう。
セレステとしてはエリシャの変化が嬉しいというよりも、なんだか居たたまれない気分だった。こんなふうに目の前でやられると、関わりたくないと思ってしまう。
クローデットが彼に泣きつくのを見せられるのは、やはり嫌な気持ちになる。
そして彼がクローデットを突き放したとしても、それはそれで心苦しい――セレステが我儘を言ったせいで、彼に望まぬことを強要しているかのような、奇妙な後味の悪さを覚えるから。
エリシャがクローデットに告げる。
「君の生活の保障をきちんと考えないと、クローデットはずっと不安なままだろうし、悪循環が続く。だから後見のことはボンディ侯爵夫人に相談しようと思う」
「そんな、ボンディ侯爵夫人をわずらわせなくても……」
「君のためというより、私のためでもある」
「どういうこと? 私を突き放すの? エリシャ」
「最大限、君に配慮しているつもりだが……私はこれ以上どうすればいいんだ?」
エリシャは困惑しているようだった。
クローデットは被害者意識が先に立ち、『裏切られた』というような視線を彼に向けている。
セレステはセレステで居心地が悪く、この状況すべてがストレスフルだった。
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