第27話 エリシャ、危うく捨てられそうになる


「――セレステ」侯爵が悪戯めいた流し目をこちらに寄越す。「今度うちに泊まりにおいで。きっと楽しいよ」


 セレステは驚き、固まってしまった……一体何が起こっているのやら。


 セレステが何か言う前に、エリシャが苛立った様子で割って入る。


「彼女は私の婚約者だ。あなたの家には泊まらない」


「婚約者がいる女性は、異性の家に気軽に遊びに行ってはだめなのか?」


「当たり前です」


「じゃあ逆ならいいわけだね? 私が彼女の家を訪ねるなら――」


「だめに決まっている」


「うん? それはおかしいね。セレステは言っていたよ――自邸にクローデットが押しかけて来て、自分の婚約者にまとわりついている。嫌な気持ちになったから、家を飛び出して来たのだと」


 しん、とその場が静まり返った。


 不謹慎ながらセレステは、『なるほど』と感心してしまった――こういう着地をするわけなのね。


 不思議なことにサイツ侯爵は、彼にとってなんの得にもならないお節介を焼いている。セレステのために、アディンセル伯爵を攻撃しているのだ。


 何度かお喋りをした程度なのに、あちらが友情めいた気持ちを抱いて援護してくれたのなら、それは嬉しいことだった。セレステの胸がじんわりと温まる。


 こんなふうに素直に喜んでしまうのは、いけないことだろうか。


 ずっとしんどかった……エリシャとクローデットがふたり揃うと、どういう訳かセレステがひとり孤立してしまう。セレステが頑張って歩み寄れば、エリシャはこちらを気にかけてくれるかもしれない――けれどそれで空虚さが埋まることはない。それはクローデットの影がいつも彼のそばにあるからだ。


 だからサイツ侯爵のように、クローデットよりも明確にセレステを優先してくれる人が存在するのは、とてもありがたく思えた。


「サイツ侯爵、もう一度言います――セレステの手を離してください」


「君は私の知りたいことに答えをくれないから、嫌だよ。私とセレステ、君とクローデット――どこに違いがあるんだい? 君はクローデットへの不適切な距離を一向に改めようとしないのだから、私たちが仲良くしたって別にかまわないはずだ」


「かまうに決まっているだろう、ふざけるな。そろそろ実力行使に出るが、それでいいか」


 エリシャが殺気立っている。サイツ侯爵に対する礼儀を失い、上っツラの敬意ですらも保つのが難しくなっているようだ。


「アディンセル伯爵」侯爵は呆れ返って言う。「セレステとの婚約は解消してやったらどうだい? 自分は不実なくせに彼女を縛りつけて、可哀想だよ」


「大きなお世話だ」


「君はどう見ても、クローデットとのほうがお似合いだ……まぁ私もクローデットのことは、先日の感謝祭で初めて見た程度で、よくは知らないのだがね」


「よく知らないのなら、引っ込んでいてください。言っておくが、俺はクローデットを口説こうと思ったことはただの一度もない。異性としての好意も一切持っていない。けれどあなたがセレステに向ける視線は不埒(ふらち)だ」


「別に私だってね、セレステと今すぐ肉体関係を持とうと思って誘っているわけじゃないんだよ。魅力的ではあるのは否定しないけれど」


「彼女に触れていいのは俺だけだ。あんたは触るな」


 潔癖なエリシャは本気で腹を立てているようだ。セレステは落としどころが分からずに、胃が痛くなってきた。


 ……どうしたらいいのだろう?


「私はセレステが傷ついているから、慰めたいだけだよ。ただの善意さ。それなのに、みっともなくヤキモチを焼かれてもね……」


 サイツ侯爵は握っていたセレステの手ひらを、指先で撫でるようにして弄んでいる。エリシャは爆発寸前に苛ついているし、セレステは困り果てた。


 でもこれは……セレステにも思うところがあり、腹を括ることにした。というのもこの状況はセレステがなんとかしないと、決着がつかないと思ったからだ。


「あの、サイツ侯爵」


「何かな」


「色々ありがとうございます。私の味方をしてくださって、嬉しかったです」


 緊張していたのに、言葉に出してみたら心も軽くなり、笑みがこぼれた。


 サイツ侯爵はなんともいえない奇妙な表情を浮かべてこちらを見つめてきた……少しぼんやりしたような、物思う様子で。


 セレステは彼の瞳を見返し、言葉を続ける。


「私、サイツ侯爵の家には遊びに行きません」


「そうか。残念だ」


「私は今婚約している身ですので、あなたの家に遊びに行くのは軽薄だと思います」


「確かにね。でも婚約は考え直すのだろう?」


「そうですね……確かに、今のままでいいとは思っていませんが」


 セレステとしては含みを持たせるつもりもなかったのだが、サイツ侯爵には婚約を解消したほうがいいとアドバイスされたので、それについてはしっかり考えてみるということを伝えておきたかった。


 人生経験を積んだサイツ侯爵が、セレステとエリシャを見て『不毛な関係』だと思ったのなら、それは正しいような気がするのだ。彼の言うとおり、エリシャはクローデットとお似合いだと思う。


 セレステは自分の考えを整理するのに頭がいっぱいで、これを間接的に聞かされることになったエリシャが今どんな顔をしているのか、まるで気づいていなかった。


「フリーになったら、いつでもおいで。私は君を楽しませてあげられると思う」


「今でも十分です、閣下」


 サイツ侯爵は粋な笑顔を浮かべて、セレステの手の甲にキスを落とした。こうしたキザな仕草が彼にはとても良く似合う。


「じゃあまた、セレステ」


 サイツ侯爵は去り際も鮮やかだった。若造であるアディンセル伯爵を散々からかっておいて、用が済めばもう目もくれない。すぐに小道の向こうに消えてしまった。


 手綱を巧みに操り、エリシャがこちらに馬を進めて来る。彼が隣に並んだ。


「……セレステ」


 名前を呼ばれる。そのあとにお叱りの言葉が続くのかと思って、セレステは肩に力を入れた。ビクビクしながら彼のほうを見遣ると、金色の髪が木漏れ日を反射して淡く輝いていた。瞳は深く美しい青――。


 そこに激情はなく、とても静かだった。けれど幸せそうでもない。彼は何かをこらえるように、こちらをじっと見つめてくる。上手く表現できないのだが、彼はひどく落ち込んでいるように見えた。


「頼むから、黙って出て行くのはやめてくれ。心配しすぎて焦った」


「すみませんでした」


 確かに子供じみた行動だった。セレステはもう少し大人にならなければと思った。それはサイツ侯爵に、婚約を考え直すよう言われたせいもある。いつまでもこんなことをしていてはだめだ。


「――どうしたら俺は、君の信頼を取り戻せるのだろう?」


 ぽつりと問われ、驚いてエリシャの顔を見つめる。彼は苦しそうだった。そしてどこか熱のこもった視線でこちらを真っ直ぐに見つめてくる。


 彼はどこまでも真っ直ぐで正義感の強い人なのだ……そう思ったら胸が痛んだ。


「……分かりません」


「君は本当に俺が嫌いなのか。もう挽回しようもないほど?」


 セレステは首を横に振る。意思疎通が上手くいかない。彼が何を気にしているのか分からないから、どうしていいのか見当もつかなかった。けれど嫌ってはいない……それは確かだ。


「ならば婚約を解消するなんて言わないでくれ」


 懇願するように言われて、戸惑う。


「でも、そのほうがあなたのためだと思います」


「やめてくれ――婚約を解消したいのは、君自身のためだろう?」


「なぜですか?」


「サイツ侯爵と結婚したいから」


 セレステは唖然として、口をぽかんと開けてしまった。


 そんなまさか! どうして彼がそんなことを言い出したのか――とよくよく考えてみて、すぐに思い至った。そうだ、そういえば……ついさっきダイニングで、自分はサイツ侯爵と結婚したかったと大声で叫んだのだ。


 本心ではないのですっかり忘れていた。まさかエリシャが気にしていたとは、夢にも思わなかった。


「いえ、私はサイツ侯爵のことは好きではありません」


 言ったあとで、失礼だったかな? と考える。あんなにお世話になったのに……いやもちろん、いい人だとは思っているのだけれど。


 でもエリシャからは「サイツ侯爵と結婚したいのか」を確認されているのだから、そうしたいかどうかの観点で答えるべきだろう。ダイニングで嘘をついたのに、ふたたびそれをここでも繰り返すのは、いくらなんでも不誠実に思えた。


「本当に?」


「本当です」


「だけど俺よりは、彼が好きだろう?」


「いいえ」


 セレステの答えを聞き、今度は彼が呆気に取られている。


 ……どうでもいいのだが、くまちゃんが先ほどから喋っているほうの顔を機敏に振り返るので、気になって仕方ない。


「あー……サイツ侯爵より、俺のほうが好き?」


 なんでわざわざ訊き返すの? 意味ある、これ?


「は、はい」


 セレステはかぁっと顔に熱が集まってくるのを感じた。


 そんなセレステの様子を眺めて、エリシャが唇の端を上げ、優しく瞳を細める。それはここ最近見なかった、彼の本心からの笑顔のように思えた。


 まるで時間が止まったみたい……。


「好き?」


 もう一度尋ねられる。セレステは俯きながら頷いてみせた。


「好き、です……」


 おかしなことになったと思う。こんなこと、言うつもりはなかった。セレステ自身は愛の告白のつもりもなかったし、サイツ侯爵より好きか? と尋ねられたから、正直に答えただけだ。


 これは言わされていると思うのだけれど、どうしてこんな流れになったのかもよく分からない。彼がなぜ執拗にこれを繰り返すのかも。


 数分前まで、喧嘩になりそうな気配だった気がするのだけれど……。


「もう一度言って、セレステ」


 エリシャが手を伸ばし、セレステのほうへ向ける。セレステが戸惑いがちに手を伸ばすと、彼がそれをすくい上げた。サイツ侯爵にされたことをなぞっているみたいだ。


 彼が指の先でセレステの手のひらを撫でる。


 セレステは体温がせり上がっていくような奇妙な感覚を味わっていた。サイツ侯爵にされた時は、こんな感じじゃなかった。


「す、好き」


 求められるまましどろもどろに呟くものの、頭は真っ白だ。今なら口に何を入れられても、きっと味がしないだろう。


「うん」


「手、離して」


「嫌だ」


「エリシャさん」


「俺も――」


 蜂蜜をぶちまけたような甘ったるい空気の中、突如黒馬が乱入して来た。狭い小道に三頭の馬が立ち往生しているこの状況に、セレステは目が覚めたような心地がした。


 慌ててエリシャに握られていた手を引っ込める。


 鼻先を突っ込んで来たのは、エリシャの連れであるリッターが操る黒馬だった。


「あ」


 しまったー……という表情を浮かべ、無精髭の生えた精悍な顔を、友人であるエリシャのほうに向けるリッター。


「す、すまん。前のめりで見ていたら、力が入りすぎて馬の腹を蹴ってしまった」


 それで彼の黒馬が『GO』だと勘違いして飛び込んで来た……と。


 エリシャは無言無表情でリッターを眺めている。その人間離れしたあまりに綺麗な佇まいに、リッターは気圧されたようにごくりと唾を飲んだ。


「わ、悪かった……反省している」


「リッター」


「ごめん。ものすごくごめん。以降気をつける」


「以降があれば、の話だが」


「ごめんて!」


 ふたりがやり合っている隙に、くまちゃんがヒラリとこちらに飛び移って来た。


 ――とぅ! とエリシャの馬の背を勢い良く蹴ったので、あちらの馬が不快そうに首を振っている。互いに嫌い合っているらしく、くまちゃんはくまちゃんで、「クソ忌々しい、クソ馬が!」と下衆な捨て台詞を吐いた。


「くまちゃん、大丈夫だった?」


「ったく、エリシャはヤベーやつだな。蛇をぶん投げたあとのことは思い出したくない」


「ぶたれたりはしていないよね?」


「ぶたれたりはしてねー。でもケツにオレンジを詰め込まれそうになった」


「ええ?」


 ドン引きしてエリシャを見遣ると、話が聞こえたのか、彼がくまちゃんを冷ややかに眺めおろして言う。


「色々とはしょるんじゃない、くま。お前が俺に向かって、『ケツにオレンジをぶち込む』とか悪たれだしたから、『そういう願望があるなら叶えてやる』と言っただけだろう」


「目がマジだった! お前はほとんどオレンジを持ちかけていた!」


「どうせお前の小さな尻にオレンジは入らん」


「ドエロい変態野郎! 簡単に掘らせるものか、くそったれ!」


「そんな趣味はない」


「嘘つけ! 絶対にお前は尻が好きだ!」


「馬鹿を言うな」


「四六時中、セレステの尻のことばっかり考えているくせによ!」


 くまちゃんの叫びがエコーして辺りに響いた。しん……と沈黙が流れる。


 セレステは手綱を握り締めて俯き、思わず唇を噛みしめていた。


 ……なんですぐに否定してくれないの、エリシャさん!


 そしてくまちゃんの悪辣なからかいに対しても、初めて腹が立ったセレステなのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る