第26話 サイツ侯爵がエリシャにからむ


 自室に戻ったセレステは手早く乗馬用の服に着替えた。チェック柄のズボンにベストを身に着け、ハンチング帽をかぶる。


 くまちゃんはベッドの上で手持無沙汰にうろうろしていた。先ほどはカッとなってクローデットを脅したものの、それをきっかけにセレステが怪我をした上に泣いてしまったので、どうしていいのか分からないようだ。


「セレステ、ご、ごめんよ」


「くまちゃん」


 セレステはベッドのほうに近寄り、床に跪いてベッドのほうに身を乗りした。微笑みが自然と浮かぶ。


「私のために怒ってくれたんでしょう? ありがとう」


「でもさ、お前に怪我させちまった……俺ってやつぁ、短気を起こして、本当にどうしようもねぇやつだ」


 あぐらをかき、『無念!』というように肩を落としている。


 まぁ、肩を落としているというか、元々なで肩なのだけれど。


 やさぐれ感がすごくて、ここにウィスキーでもあったら一気に煽りそうな気配である。セレステはくまちゃんを眺めているうちに、なぜか笑いが込み上げてきた。


「もういいってば! 本当に私、あなたには怒っていないから」


「でも、あんなに迫力のあるセレステは初めて見たっていうか」


「エリシャさんに怒っただけだから。それに、すごくすっきりした」


 えへへ、と笑う。


 こんなふうにあまり落ち込まずにすんでいるのは、くまちゃんがセレステよりも先に、クローデットのことを怒ってくれたからだ。あの場面で自分ひとりが腹を立てて混乱していたなら、あとになってずっと惨めだったはず。


 くまちゃんはバツが悪そうにチラチラとこちらの顔を盗み見ていたのだけれど、本当にセレステが怒っていないのだと悟ると、途端に元気になった。


 すちゃっ、と勢いよく立ち上がり、


「まぁなんつーかよぉ、セレステのキレっぷりは最高だったぜ」


「そうかな?」


「おうよ。渾身の右ストレートが、綺麗に相手の顎に入った感じだった――良い気味だ!」


 シャドウでシュッシュと拳を振りながら機嫌良く笑っている。くまちゃんなのに笑っていると分かるのだから、不思議なものだ。言葉を喋ることもそうだけれど、身のこなしまでが人に近い。


「ねぇくまちゃん。私、ひとりで出かけたいんだけど、ちょっとエリシャさんの注意を引ける?」


「あいつは護衛役でここにいるのに、まいたりして大丈夫か?」


「正直、私に危険はないと思うの。くまちゃんが狙われるならまだしも」


「そうだなぁ……」


 くまちゃんはふたたびあぐらをかき、思案を巡らせる。そしてしばらくしてから、ポンと膝を打った。


「確かに、セレステは今んとこ大丈夫だと思う。まぁ、そもそもさ――護衛騎士が必要だって言ったのは、お前とエリシャを会わせてやろうという、俺のくま心だしな」


 ……『くま心』ってなんだろう。『親心』的なやつだろうか。


「そうだったのね」


「強制的に毎日会っていれば、仲良くなれると思ったんだ。でも結局、喧嘩しちまったなぁ」


「もしかすると私たち、根本的に合わないのかも」


「セレステ」


「私、エリシャさんと結婚したかった。だけど」


 果たしてそれがふたりのためになるのか。心がすれ違っているのに、戸籍上だけ夫婦になるなんて、それは幸せな結婚といえるのだろうか?


 先ほどはクローデットの何もかもが嫌いになりかけたけれど、冷静になって考えてみると、彼女はさほど悪いことはしていないような気もする。


 ――彼女はエリシャが好きなだけなのだ。好きだから必死になるし、なりふり構ってもいられないのだろう。


 いつから恋愛感情があったのかは分からない。彼女はエリシャの兄と婚約していた。婚約当時からすでにエリシャに懸想していたのか? それとも兄の死のあと、エリシャを頼るうちに、次第にそういった気持ちが芽生えたのか?


 どちらにせよ確かなのは、ふたりのあいだには積み重ねてきた歴史があり、エリシャはクローデットを放ってはおけないということだ。


 クローデットは美しく、可憐で、セレステと違って暴言を吐いたりしない。間違ってもエリシャに「意地悪で嫌なやつ」だなんて文句を言わないだろう。お淑やかで可愛らしいクローデットのほうが、ずっと彼に相応しいのかもしれない。


 いじけているわけではなく、セレステは冷静にそう思ったのだ――ふたりが想い合っているのなら、邪魔すべきではない。


 現状、確かに婚約者はセレステであるけれど、こうなった経緯が急すぎた。クローデットからすれば、横入りしたのはセレステのほうだと考えているかもしれない。


 ふっと考えごとから浮上する……くまちゃんがなんだか心配そうにこちらを見ていることに気づき、『大丈夫だよ』と伝えたくて、微笑んでみせた。


「ちょっと気晴らしに、湖まで行ってくるね」


「おう。あそこは安全だ。なんせ神様のお膝元だからな」


「そうなの?」


「俺はあそこで祝福を受けたんだ」


 くまちゃんが右手を上げてハイタッチを求めてきたので、セレステも手を伸ばして、ちょんと肉球にタッチした。


「じゃあ行ってくるね」


「気をつけてなー。俺はさっきエリシャをからかい損ねたから、ちょっくら、ひと暴れしてくるぜ」


 しばらくたって、階下から、


『蛇ドカーン‼』


 というくまちゃんのぶちかましと、父のか細い悲鳴が響いてきた。


『へ、蛇、蛇、でかい! ぎゃあ、どっかにやってくれ!』


 都会的な人間でもないのに、蛇が怖いと騒ぐ中年男性……ちょっとシュールである。


 エリシャが『何をしているんだ、くま!』と怒鳴っているようだ。


 というかくまちゃん……どこから蛇を見つけてきたのかしら。


 セレステはそのあいだに階段を駆け下り、裏口を目指して走った。素早く屋敷の外に出る。


 上手いこと誰にも会わずに、厩舎まで辿り着くことができた。鞍をつけてひらりと馬の上にまたがる。


 通りを走らせながら、結局あれでクローデットさんは帰ったのかしら、と考えていた。




   * * *




 湖に向かっていると、小道の向こうからサイツ侯爵がやって来るのが見えた。彼もまた馬を駆っている。


 ……本当によく会うわ、とセレステは思った。


 そういえば、セレステが馬に乗るのは朝食後の決まった時間である。今朝は色々あって朝を抜いてしまったけれど、すったもんだあったので、朝食を摂って家を出たのと時間的には大差ない。サイツ侯爵のほうも午前中の散歩が日課になっているのなら、どちらかが思い切ってずらさない限りは、こうして会ってしまうのかもしれない。


 サイツ侯爵が手綱を強く引き、馬の足を止めたのが分かった。セレステも速度を落とし、並足で近づく。すれ違うところでこちらも手綱を引いて止め、馬上に乗ったまま挨拶をした。


「もうお帰りですか? サイツ侯爵」


「君が来ると分かっていたら、まだ湖にいたんだが」


 キリッとしたメリハリのある顔立ちに甘い笑みを乗せて、そんなことを言う。


 セレステにはよく分からないのだが、この手のリップサービスは社交上必要なことなのだろうか。


 エリシャは絶対にしなそうだけれど。


 セレステは淡い笑みを浮かべて返答を避けた。なんと言っていいか分からなかったからだ。


「……もしかして泣いていた?」


 侯爵に指摘されて、ハッとして目の下に手を当てる。


「あ……顔が腫れていますか?」


「いや。少し目元が赤いから」


 セレステは恥じ入り、俯いてしまった。


 するとサイツ侯爵から気遣わしげな声がかけられた。


「何かあったの?」


「たいしたことではないのです。私が子供のように、感情的になっただけで」


「君は落ち着いていて穏やかな性分だから、すぐに感情的になったりしないだろう」


 そう言ってもらえて、びっくりするほど嬉しかった。今朝の子供じみた振舞いは、セレステ自身を一番傷つけていた。


 まるで道化だわ、と思ったのだ――みっともなくて、とてもみじめだと。あんなふうに取り乱して、自分は人間的になんてだめなやつだと、落ち込んでしまいそうだった。


 感情が一気に昂った反動なのか、落ち着いてくるにつれて、自分を恥じる気持ちが強くなっていた。


「クローデットさんが当家を訪ねて来まして」


 顔を赤らめながら、小さな声で打ち明ける。


「君の家に来たの? なぜ?」


「アディンセル伯爵に慰めてほしかったみたいです。彼は今当家に滞在しているので、アディンセル伯爵目当てにやって来たクローデットさんと、私も対面する破目になり……」


「正気か?」


 それを聞いたサイツ侯爵は呆れ返っている。セレステが戸惑いを覚えて見つめ返すと、彼の顔が段々とこわばっていくのが分かった。


「君が怒るのは当然だよ――アディンセル伯爵に慰めてほしいだって? あさましい考えだ。婚約者である君を馬鹿にしている。あまりにひどい」


「そうでしょうか? でも彼は……私に言いました。ヤキモチを焼くべきではないと」


「ふぅん。彼はずいぶんご立派な人間なんだね」


 サイツ侯爵の言葉は皮肉に満ちている。セレステは瞳を伏せた。


「感情を制御できない私に比べれば、彼は立派だと思います」


「そうかなぁ? アディンセル伯爵は同じことをされても、絶対にヤキモチを焼かない?」


「それはどうでしょう……好きな相手のことなら、感情的になるのかもしれません」


「つまり君がほかの男に言い寄られているのを見たら、腹を立てる?」


「あ、いえ」


 セレステは羞恥で頬が赤らむのを感じた。


「私はあまり好かれていませんので、それはないです」


「彼はクローデットが好きなの?」


「ええと、たぶん」


「じゃあ君との婚約を解消して、クローデットと結婚すればいいのに」


 セレステは瞳を瞬き、呆気に取られて侯爵の顔を見返した。


 第三者が判断してもそうなるのね……と思ったからだ。堂々巡りで悩んでいたことの答えが、はっきりと目の前に提示された気がした。


 ……確かにそうだわ。そのとおりよ。


「サイツ侯爵、私」


 手綱をぎゅっと握り締めたセレステは、答えを求めるかのように、侯爵を見つめる。なんだか頭がぼうっとしてきた。


 するとそこへ、


「――セレステ!」


 鋭い声が割って入った。ハッとして振り返ると、アディンセル伯爵が馬を駆り、こちらに向かって来るのが見えた。ぼんやりしていて、声をかけられるまで蹄の音に気づかなかった。


 エリシャの馬にはくまちゃんも同乗している。犬猿の仲であるのに、おかしな組み合わせである。


 くまちゃんの顔を見ると、半目で『無』の領域に入っている。詳しいことは不明であるが、蛇の件でこってり絞られたあと、選択の余地なく連れて来られたようである。


 そしてエリシャから少し遅れて、彼の友人であるリッターもついて来ていた。リッターが乗っているのはガッチリした黒馬だ。


 セレステはうめき声が漏れそうだった。


 ああもう……また怒られるのだろうか? 護衛をまいた自分が悪い――それは分かっている。それでもさすがに勘弁しくれという気分だった。


 食卓ではヤキモチを咎められ、今度は侯爵の前で、勝手に出かけた無分別な振舞いを叱られるの? そんなことをされたら、もう耐えられそうにない。


 すると弱り切っているセレステを気の毒に思ったのか、サイツ侯爵がこんなことを言い出した。


「――セレステ、こちらに手を」


 侯爵が手のひらを上向きに差し出してくるので、よく分からぬまま、そちらに右手を伸ばす。彼がセレステの手をさっとすくい、引き寄せるように引いた。


「アディンセル伯爵に仕返ししよう」


「え?」


「いいから、話を合わせて」


 そうこうするうちにエリシャがすぐそばまで来ていた。手綱を引き馬の足を止め、鋭い声で告げる。


「サイツ侯爵――私の婚約者から手を離してください」


「別に口説いているわけじゃない。私は彼女のことを『妹』のように大切に想っているだけだから」


「そんなことはどうでもいい。離してください」


「ずいぶん一方的だが、君は婚約者以外の女性に触れることはないの?」


「当たり前でしょう」


「けれど以前私は見かけたのだが――君がクローデットをお姫様抱っこしているところを。あれは感謝祭の日だったかな」


 エリシャが眉を顰める。不意を突かれたというよりも、サイツ侯爵から悪意めいた何かを感じ取り、状況の把握に努めている様子だ。


 小心者のセレステはなんだかハラハラしてきた。できることなら、サイツ侯爵に取られているこの手を払ってしまいたい。別にこれは自分の意志ではないのに、エリシャに叱られるのは嫌だった。


 他人とあまり揉めたこともない人間が、朝に大喧嘩をして、数時間と置かずにこうして新たな火種をまいている。セレステは他人が苛々していると、萎縮してしまう性質だった。


 しかしサイツ侯爵は他人を従わせることに慣れきっているようだし、しかも今回に関してはエリシャをわざと怒らせようとしているようだから、いっそ楽しそうですらある。


「あなたに言い訳するつもりはありません」


 エリシャの答え方は慎重だった。


 けれどサイツ侯爵のほうは大胆に口を挟む。


「ほう……だけどクローデットの件、婚約者であるセレステに対しては、なんらかの説明が必要だと思うが? 彼女の理解を得るべく、見事に言い訳してみせたのだろうね?」


 ぐうの音も出ないとはこのことだろう。


 エリシャ自身、クローデットを巡る一連の出来事で、自分が下手を打っている自覚はあるのだ。


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