第25話 セレステ、エリシャと大喧嘩をする
衝撃で息が止まりそうになった。
痛みを逃がすように、上半身をテーブルに伏せた姿勢で呼吸を繰り返す。
「――大丈夫か、セレステ」
エリシャがそっとセレステの腕に触れてくる。この時セレステは理由のよく分からない嫌悪を覚えた。
彼の手から逃げるように身を起こすと、お気に入りの深草色のドレスはぐちゃぐちゃに汚れていた。卵がお腹のあたりにへばりつき、水がスカートのひだを伝い落ち、袖にはケチャップがべったりとついている。時間をかけて丁寧に編んだ髪もほつれてしまった。
セレステはくまちゃんを懐に抱え込んだまま、根性で背筋を伸ばした。震える足を後ろに引き、テーブルから距離を取る。
彼女の普通ではない様子に気圧されたのか、その場にいた誰もが言葉を失った。
本来ならば、不可抗力とはいえ暴力を振るったクローデットの従者は、すぐに詫びを入れるべきだったろう。しかしそれができなくなるほどに、セレステの気配は張りつめていた。
セレステは深呼吸をした。ひと呼吸、ふた呼吸――……それから静かにクローデット・マーチ子爵令嬢を眺めおろす。
「クローデットさん、ひとつ伺ってもよろしいですか」
「え、と……はい」
「あなたは昨夜、当家に泊まったのでしょうか」
クローデットは初め、問われた内容がよく分からなかったようだ。戸惑った様子で瞬きした彼女は、一拍置いて何か思うところがあったのか、瞳に奇妙なきらめきを宿してセレステのほうを見返してきた。
泊まったのか――それに対する答えは、「はい」か「いいえ」のふたつにひとつである。別段、難しい問いではない。
しかしクローデットは頭の中で何かを計算しているのか、すぐには答えようとしなかった。
セレステはそれに対し苛立ちを覚えた。クローデットの一連の振舞いに、悪意を感じ取ったためだ――『悪気がない』は通用しない段階にきている。
昨日はエリシャに会いたいからと、彼の婚約者であるセレステの家に乗り込んで来た。家人であるセレステに挨拶もなく、許可もなく上がり込んで、彼に縋った。
そうして今「当家に泊まったのでしょうか」と尋ねられても、すぐに答える気遣いもない。セレステの心はどんどん冷えていく。
エリシャが戸惑ったように口を挟んだ。
「セレステ、何を言っているんだ――彼女が泊まるはずない。君の客人ではないのだから」
そうよ、だけど私の客人ではないのに、こうして勝手に家に上がり込んでいるじゃない! セレステは叫び出したくなった。
けれど努めて冷静な声を出す――心の中は嵐だったけれど。
「彼女は昨日も当家にいましたよね」
「知っていたのか。訪ねては来たが、長居はしなかった。クローデットはこの近くに取っている宿に帰ったよ。それで朝――ほんの少し前のことだが、ふたたび訪ねて来たんだ。やはり捜査に協力したいと言って」
「そうですか」
説明されても、まるで気は晴れなかった。先ほど泊まったのか尋ねた際、本人がすぐに回答してくれていれば、受け取り方も違っただろうけれど。
「セレステさん」クローデットが涙をこぼしながら懇願してくる。「セレステさんにご迷惑はおかけしません。どうか、どうかご慈悲を――ねぇ、お願い、私をしばらくここにいさせてくださらない? 同じ女性として、気持ちは分かるでしょう? 私、心細くて……誰も頼れなくて……エリシャしかいないの」
ご迷惑はおかけしません――それは勝手に押しかけて来た人が言っていい台詞じゃない。現状すでに迷惑をかけているのに、なぜそれを口にできるのか。
そもそもの話、クローデットがどんなに殊勝な態度を取ろうが、どんなに無害であろうが、それは関係ないのだ。滞在を許すかどうかはこちらの気持ち次第――彼女が良い子にして迷惑がかからないからといって、こちらがいさせてあげないといけない決まりはない。
「お父様」
視線を転じると、茫然とした様子の父と目が合う。
「あ、ああ……セレステ、大丈夫か」
「どうかしら」
「怪我はしていないのか?」
「そんなことよりも、こちらのクローデットさんだけれど――お父様が招き入れたのですか?」
「は? ああ、いや、違うけれど。知らないお嬢さんだし」
「では、クローデットさん」ふたたびくだんの令嬢に向き直る。「出て行っていただけますか」
セレステの言葉で空気が張りつめる。エリシャがすぐそばまでやって来た。
「セレステ、どうしたんだ――何も追い出さなくてもいいだろう」
「アディンセル伯爵、口を挟まないでください。ここは私の家です。家人が誰も招いていないのに、彼女が上がり込んでいるのはおかしいと思います」
「私が入れたんだ」
「だけどここはあなたの家じゃない」
聞き手のエリシャは難しい顔をしているが、セレステのほうだって静かに怒っていた。
そうね――品行方正な彼は、冷血なセレステにがっかりしたことだろう。彼は気高く、正しい人だ。人でなしな女は嫌いなはず。
でも構わない。嫌えばいい――考えてみれば、元々好かれてはいなかった。
セレステは真っ直ぐにエリシャを見返した。彼は眉を顰め、セレステを責める。
「しかし俺は君の護衛をしていて、ここを離れることができない。少しは譲歩してほしい」
「じゃあ護衛をやめたらどうですか。私はあなた以外の騎士様に護衛をしていただきたいです。あなたは通常任務に戻ってください。そして自邸に彼女を泊めてあげたらいい」
「泊める気はない、このあと少しだけ聞き取り調査をするだけだ。たったそれだけのことで、君はヤキモチを焼くのか?」
ヤキモチ……単語にすればたったそれだけのことだけれど、セレステは今ものすごく傷ついている。なのにエリシャはこちらを責めるのか。
泣くつもりなんてなかったのに、セレステの瞳から涙がポロリとこぼれ落ちた。
「私に善人であることを押しつけないで――ヤキモチを焼いたらいけないの? あなたを好きだとつらい――もう私、あなたのことが嫌いになりそう。お願いだから、クローデットさんと出て行って! 本当に嫌、もう顔も見たくない!」
「セレステ」
エリシャの顔に後悔が浮かんだ。どういう訳か彼は狼狽し、セレステに許しを乞うような素振りを見せている。
セレステはそれでますます混乱してきた。訳が分からない。彼がもっと怒って、セレステを責めてこない理由が分からない。
腕に触れられ、咄嗟に振り払っていた。
「――いや、触らないで」
「悪かった、セレステ」
「何が悪いの? あなたは悪くないでしょう」
「いや、でも、泣かせるつもりでは……俺は何を間違えたのか」
黙って! もう黙ってよ。
「あなたなんて大嫌い! なんて意地悪で嫌なやつなの!」
「すまなかった、本当に」
謝られれば謝られるほど腹が立ってくる。これまで抑えつけてきた負の感情が一気に溢れ出てきた。
「サイツ侯爵の言っていたとおりだわ――クローデットさんは計算高い。そしてそれを可愛いと思っているなら、あなたたち、お似合いのカップルよ」
セレステは泣きながら彼をなじった。自分の態度はずいぶんひどいものだったと思う。
だけどこの時のセレステはエリシャがものすごく悪辣な浮気者に思えたし、苛立ちを抑えられなかった。理屈ではない、感情が追いつかないのだ。
「どうしてここでサイツ侯爵の名前が出てくるんだ。知り合いなのか?」
エリシャが変なところに引っかかっている。セレステはそれすらもわずらわしく感じた。
「彼はあなたと違ってすごくいい人よ。私の味方をしてくれるし」
「どういうことだ?」
「彼が今ここにいたなら、絶対にクローデットさんを家に上げたりしなかった。私――あんな人と結婚したかった! 私を一番大事にしてくれる人と」
そんなことは思ってもいなかったけれど、とにかくエリシャを傷つけたくて、つい言ってしまった。
エリシャはセレステのことを好きなわけではないので、こんなことではヤキモチすら焼かないだろう。けれど彼はいつだって立派な人間であろうとしているようだから、こんなふうに誰かと比べられて、相当嫌な気持ちになっただろう。
セレステは踵を返してダイニングを出て行った。
最後に見た彼がショックを受けたように固まっていたので、せいせいした。
そしてそんなふうに感じてしまう自分はなんて性格が悪いのだろうかと、落ち込んでしまった。
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