第22話 霊能者を雇え
大司教はご立腹だった。
先日の審問会では大恥をかかされた。
いつものように簡単にすませられると高を括っていた――少し脅してやれば、それで片づくだろうと。ところが見事にしてやられた。こちらの陣営は逮捕者まで出る始末。
大司教並びに救貧院の委員を務めるメティ神父も、危うい立場に追い込まれている。今のところは証拠不十分で、ふたりは拘束されていない。しかし監視の目は厳しくなっている。
「……いずれ、ほとぼりはさめる」
大司教のしわがれ声はひどく聞き取りづらく、余裕のなさかが窺えた。
斜め後ろに控えていた薄衣の若い娘がデキャンタを傾け、盃に酒を注ぐ。大司教は盃を震える手で掴み、一気に煽った。山羊のような顎髭に、赤い葡萄酒の雫が垂れる。
それを眺めながら、メティ神父が淡々とした調子で応じた。
「考えようによっては、ペッティンゲル侯爵の退場は良いタイミングだったかもしれません。彼の切り時については、悩みの種でしたから」
「ペッティンゲルごとき、どうでもいい――問題は売春宿のほうだ」
「さすがにしばらくは再開できないでしょう」
「いいや」
大司教が奥歯を噛みしめると、葡萄酒混じりの口角泡が、髭の端から滴り落ちる。
「いいや……屈するものか」
「しかし」
「後ろ暗い秘密の共有は、仲間の結束力を強める。今さらやめるわけにはいかない。我々はこの方法で顧客から情報を得て、それを利用してきた。今、守りに入ったら負ける」
大司教の言うことも理解できる……しかしメティ神父の見解は異なっていた。
確かに我々は情報を制することで勝ち続けてきた。しかし今回の敵は情報戦でこちらを出し抜いている――果たしてこの先こちらに勝ち目があるのか?
むしろメティ神父は『鍵はセレステにある』とみていた。
取り立てて目立つところのない、善良を絵に描いたような素朴な娘。誰もが目を見張るほどの美人でもなく、突出した何かを持っているわけではない。
しかしセレステを中心に大きな流れができている――彼女は精霊に愛されし娘だ。
そして貴族社会の華であるエリシャ・アディンセル伯爵の婚約者でもある。
これが愛のない政略結婚ならば、つけ入る隙はなかったかもしれない。しかし互いのあいだに感情的な交流があるのならば、揺さぶることができる。
メティは的確に相手の弱点を見極めていた。ふたりの若い男女が大聖堂のチャプター・ハウスで抱き合っているのを見た時、これは利用できると思ったのだ。
けれどこの場でそのことは言及しなかった。なぜならこれはメティ神父が取り仕切るゲームだからだ。
彼は大司教さえも眼中にない――死にかけの老人に楽しみを奪われるわけにはいかない。
さて、どうしたものかと考えを巡らせる。
もしかするとメティ神父の欠点は、楽しみを優先してしまう、この気まぐれな性分にあるのかもしれない。彼の生きざまは皮肉なことに、どこか精霊めいている。
大司教がさらに盃を煽り、景気良くぶち上げる。
「売春宿は大聖堂の地下に場所を移す――すぐに再稼働だ!」
「かしこまりました。ペッティンゲル侯爵が使っていた手駒は、どういたしますか?」
侯爵の手駒をここで切り捨てるのか。それとも救済して、これからも使うのか。
手駒のひとつは、マーチ子爵家――そこの娘とアディンセル伯爵を結婚させようという計画があったはずだ。作戦を継続してみるのも、面白いかもしれない。
「敵方の第二王子は見せしめとして、いずれはマーチ子爵も粛清の対象とするだろう。どうせすぐにゴミ同然になるのだ、今のうちに使えるものは使っておけ」
それはいい……大司教の答えに、メティ神父は満足した。
「マーチ子爵家の娘が、もしかすると思わぬ働きをみせるかもしれません」
「美しいのか?」
「ええ、それはもう。アディンセル伯爵とも懇意にしています」
「ならば体を使わせろ。なりふり構うなと、子爵を脅しておけ」
「娘の頑張り次第ですね」
「若い男など、女の色仕かけでどうとでも操れる。地味な政略結婚の相手より、魅力的なマーチ子爵の娘のほうが、食指が動くに決まっている」
それはどうかな、とメティは考えていた。まだ年若い娘ふたり――その面差しが脳裏に浮かぶ。
体でいうと、むしろセレステのほうが男に好かれるタイプなのではないだろうか。あどけない顔も、どこか劣情をそそられる。本人がその武器を使う気がないらしく、効果的に機能していないようだが。
――とはいえメティの主観はこの際、関係がない。重要なのは、アディンセル伯爵がどう思うか、だ。
アディンセル伯爵は以前ふたりの女性を前にして、明確にクローデットを贔屓した。彼の中でクローデットが特別な存在であることは明らかだ。ぽっと出のセレステよりも、ふたりはずっと付き合いが長い。
年月の長さというものはあなどれないものだ。そしてそれを覆せるほどの手練手管を、セレステが持ち合わせていないことも問題だった。クローデットのほうが狩人としては優秀である――獲物の仕留め方を知っている。
楽しくなりそうだ……メティは瞳を細めた。
「しかし、くまが厄介ですね。途中まで上手く運んでも、一瞬でひっくり返される恐れがあります」
「確かにな」舌打ちする大司教。「精霊については、十分に策を練る必要がある」
「専門家の力が必要だと思われます。前回精霊が人と共存したのは五百年前のこと――当時を知る者がいないので、不明な点が多い。それ以降は地方で精霊の目撃情報が時折出るものの、現代では縁遠い存在ですからね」
メティ神父は神職に就いているが、精霊については専門外だった。彼は奇跡の力を持っているわけじゃない。それは大司教も同様である。
精霊なんて見たことがない、存在を信じてもいない、というのが世間一般の感覚なのだ――普通には起こりえないからこそ、今回、あのくまの出現が衆目を集めた。
「手当たり次第、霊能者を当たれ。中にはひとりくらい本物がいるだろう。詐欺師のたぐいではなく、本物の能力者を見つけ出すのだ」
大司教の声は怒りで震えている――くまの無礼な態度を思い出したせいだ。興奮しながら盃に手を伸ばし、うっかりそれを押し倒してしまう。酒がテーブルにこぼれ、大司教は忌々しげに舌打ちを漏らした。
盃を掴み、癇癪を起して床に打ち捨てる。
テーブルにこぼれた葡萄酒を拭き取ろうと不用意に近づいた若い女が、大司教の振り回した腕に当たり、硬い床に倒れ伏した。その拍子に女がか細い悲鳴を上げると、大司教の灰色の瞳に獣じみた獰猛さが浮かんだ。
針金のように痩せ細った老体のどこにそんな力があるのか――呆れるほど野卑な態度で、大司教が女の腕を乱暴に掴み、奥へと引きずって行く。
メティは椅子から立ち上がった。奥で繰り広げられている淫靡な振舞いに背を向け、静かに歩き始める。
女のすすり泣く声が断続的に響いてくる中、去り行くメティの瞳は冷めきっていた。
あの女が泣こうが叫ぼうが、彼の心はこれっぽっちも痛まない。
いつか天に召され、魂だけの存在に変わった時、さいなまれる者たちとひとつに混ざり合い、その痛みを知る時が来るのだろうか……それは少しだけ興味深いことに思えた。
* * *
マーチ子爵に時間を使うのも面倒なので、メティ神父は馬車の中で話をつけることにした。
大聖堂に来ていたマーチ子爵を捕まえ、帰りの馬車に同乗させ、たっぷり脅しをかける。『これでもうあとがない』と理解しただろうから、マーチ子爵は家に戻ったあとで、娘にすべきことを指示するだろう。
話が済んだので途中で馬車を停め、マーチ子爵を降ろす。
御者に出すよう指示しようとしたところで、側面扉が外からノックされた――降りたばかりのマーチ子爵が忘れものでもしたのだろうか?
こちらが返事をしていないのに、勝手に扉が開く。そして子供がひとり、するりと入り込んで来た。
「――ごきげんよう、メティ神父」
驚いた――救貧院のアンだ。相変わらず、煙突掃除の子供のような小汚いなりをしている。女児であるのにハンチング帽をかぶり、ズボンを履いて。
いつもの彼女と違うのは、首にクロスのネックレスをかけていることだろうか。
ネックレスは銅が混ざっているのか、赤みがかった金色で、なんとなく目を引かれた。貧乏人のアンが持っているくらいだから、安物なのだろうけれど。
「こうしてサシで話すほど、君と親しくなった記憶はないが」
階級が違いすぎる。アンのこの振舞いはとんでもなく無礼だった。普段の彼女ならば絶対にしないであろう、常軌を逸した振舞い。
対面に腰かけたアンは、口元に薄い笑みを浮かべる。
「私はきっとあなたのお役に立てますよ、メティ神父」
「どうかな」
「時間の無駄ですし、馬車を出しては?」
言うとおりにするのも癪であるが、この取るに足らない小娘が何を言い出すのか、ちょっとした興味もあった。そこで御者に進むよう指示し、対面の小さな顔をじっと観察する。
目端が利くので雑用をさせたことはある。しかし本人が深入りを避けているのか、ここまで強引に懐に入り込んできたことはなかった。
「何があった?」
尋ねると、アンが上半身を乗り出し、挑発的な視線でこちらを見つめてきた。
「私が霊能力を手に入れたと言ったら、あなたはどうします?」
「馬鹿な」メティは一笑に付した。「君はどこかから聞きつけたのだろう――くまの精霊が現れたことを。それで霊能者を名乗って、話に一枚噛もうとしているのでは?」
流行りものとみればすぐに乗っかろうとする詐欺師は多い。メティは貧乏人の妄言を信用しないと決めている。
「確かにくまの話はセレステから聞いています――先日、これをもらった時に」
アンが首にかけたネックレスをいじりながら言う。
「そういえば君たちは仲良しだったね」
「仲良し……それはどうかなぁ」
アンはとぼけているが、本人なりに思うところがあるのは明らかだった。彼女の顔が一瞬だけ素に戻ったのを、メティ神父は見逃さなかった。
「君はセレステが好きだろう?」
「そりゃあ、まぁ……良くしてもらったし、これまで関わった人の中では一番好きですよ」
「微妙な言い回しだな」
「あたしはたぶん共感力がないんです。セレステのことは好きといっても、それ以上でも以下でもない。彼女が死んだとしても、泣けないと思うし」
「まぁ、正直でいいんじゃないか?」
「正直にならざるをえない環境で生きてきたので」
「ああ、そう」メティ神父はどうでもよさそうに流した。「私は貧しさを知らないから、君の気持ちを分かってやれない」
「分かる必要はありませんよ。とにかくあたしは貧乏にうんざりしている。もうカビたパンは食べたくない」
「君が私に何を提供できるかで、環境は変えられるかもしれないね――もう一度訊くが、アン、何があった」
問われたアンは、真っ直ぐにメティ神父を見返す。アンの瞳は爛々と輝き、少し危険な兆候が見て取れた。瞳孔がほとんど開きかけている。
「セレステ――鍵はセレステなんですよ、メティ神父。彼女だけがルールを決められる」
「なんだって?」
「彼女にこのネックレスを貰ったんです。これは『上』と繋がれるツールなんだ」
「もっと詳しく」
アンはメティ神父の関心を買うことに成功したようだ。口の上手さは関係ない――そこに真実の響きがあるから、彼の心を動かすことができた。
「精霊召喚はいくつもの偶然が重なって起こりました。星の巡り合わせ、座標、時間――ありとあらゆる要素があの瞬間、ピタリと揃った。セレステは祈り、神の祝福を受けました。その時彼女はこのネックレスを手にしていたんです。ああ、神様――これこそが奇跡! セレステとくまの精霊、そして天界は、一本の糸のようなもので繋がっている。そのあいだにこのネックレスがある」
「ほう……ではそれを壊せば、セレステとくまのつながりを断ち切ることができる?」
「いいえ、いいえ!」アンが苛立った様子で首を横に振る。「このネックレスを壊せば、中継地点が排除され、単にセレステとくまと天界が直線で繋がるだけ」
「では意味がない」
「違います、これがあいだに入っているから意味があるの。つまりネックレスを持っていることで、あたしにも人智を超えた不思議な力が使える」
「くまと同じレベルで?」
「そこまではさすがに。おこぼれをもらえる程度と考えてください」
「具体的には何ができる?」
「霊視のたぐい。ねぇメティ神父――あなたがお探しの霊能者が、今、目の前に現れたんですよ」
アンはゆったりと微笑んでみせた。メティ神父が霊能者を探していることを知っている時点で、彼女がただ者ではないことは分かる……しかし。
「ネックレスを奪ったら、その力が私にも使えるのかな?」
メティ神父がおそろしいことを言い出した。しかしアンには勝算があった。
「セレステがくまを召喚した際、このネックレスの所有者は『私』でした」
「どういう意味?」
「彼女はこれをあたしに贈るつもりで買い、たまたまその時、手に持っていた。肝心なのはセレステ自身が、『これはアンにあげる』と決めていたことなんです。ルールを作ったのはあくまでもセレステ――だからほかの人がこれを持っても、ただの安物のネックレスでしかない」
「なるほどね」
「くまの無効化――おそらくあたしなら、できる。今すぐは無理ですが、きっと方法を見つけられる」
「無効化した場合、君は力を失うのでは?」
アンの今後を心配しているのではなく、せっかく手に入れた力の消失を恐れて、彼女が手を抜くのではないかということをメティ神父は危惧していた。しかし問題はないようだ。
「くまを殺すわけじゃない、無効化――冬眠に近い状態にするだけなので、私は力を失わないですむ。むしろ大元のくまが霊能力を使わなければ、私が力を独り占めできるのです。今みたいに残りカスをチビチビ使って霊視するだけじゃなくて、もっとすごい奇跡だって起こせる」
メティ神父が結論を下すのは早かった。
「契約成立だ、アン。今後の君の生活は保障しよう」
「今日から私は名前を変えます――『カンター』と呼んでください」
「では、カンター。よろしく」
ふたりは握手を交わした。稀代の霊能力者カンターが誕生した瞬間だった。
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