第23話 恋なんてするんじゃなかった


 近頃セレステは自室で過ごすことが多くなっていた。


 安全面に不安があるって、そうしているわけではない。


 護衛にはあれからずっとエリシャがついてくれている。チャプター・ハウスの一件以降、第二王子から改めて辞令が下りたそうで、彼の中で護衛任務の重要度が増したくらいである。


 けれど彼は騎士団の中でも出世していて、忙しい身――セレステの護衛をしながらも、元の仕事をこなさなくてはならない。そのため我がホプキンス家を、彼の部下がひっきりなしに訪ねて来る。エリシャの確認や指示が必要な案件が、いくつもあるのだ。


 それを見ていると、セレステはなんだか申し訳ない気持ちになり……『迷惑をかけないようにしなくちゃ』と考えるようになった。セレステがふらふら出歩こうとすれば、エリシャはそれにつきっきりになるわけで、ほかの仕事が片つかなくなる。


 それに一緒にいると、彼が何かと気を遣って優しく話しかけてくるので、セレステとしては申し訳なさに拍車がかかるのだった。


 それでセレステは自室にこもるようになった。部屋に入ってしまえば彼もこちらの相手をせずにすむ。


 ――くまちゃんはといえば、時折ふらりと出かけては、そのまま数時間戻らないこともよくあった。それでも大抵はセレステと一緒にいてくれる。


 くまちゃんが「カバンが欲しい」と言うので、セレステは今、繕いものをしている最中だった。希望を訊くと、肩から斜めかけしたいそうなので、入念にデザインを打ち合わせしてから作り始めた。


 薄茶のフェルト生地を縫い合わせていく――小っちゃなくまちゃんが持ち歩けるくらいの、小っちゃなカバン。かぶせ蓋をつけて、黄色の大きなボタンで留められるようにした。ボタンは赤い糸で縫いつける。


 セレステが繕いものをしているあいだ、くまちゃんはベッドに寝そべり、ローストしたナッツや、最近お気に入りのミルク味の飴を口に放り込んでは、美味しすぎてテンションが上がってしまったらしく、鼻の頭をシーツにこすりつけてフガフガと騒いでいた。


 それが飽きるとでんぐり返ししたり、窓枠に頬杖を突いて外を眺めたりと、気ままに過ごしているようだ。


 段々と部屋の中が薄暗くなってきて、そろそろ夕刻であることに気づいた。食事の準備をしなくてはならない。


 セレステは部屋を出て廊下を進んだ。二階の自室を出たあとは、表側の階段ではなく、裏側のほうを使うことにした。厨房は北側にあるので、そのほうが近い。


 階段を下りきったあと一階北廊下を進んでいると、話し声が聞こえてきた。書斎に誰かいるようだ。


 足音を殺しているつもりはなかったのだが、下が絨毯であるので自然と靴音を消してしまう。


 開いている扉の前を通り過ぎようとしたところで、中の様子が見えた。


 あれは――エリシャの後ろ姿だ。


 彼の向こうには小柄な女性がいるようだった。セレステの位置からは、あいだに背を向けたエリシャがいるので、奥にいる女性の姿はほとんど見えない。


「エリシャ、私、怖いの!」


 女性の泣き声が響き――それでやっと気づいた。


 あれはクローデット・マーチ子爵令嬢だと。


 なぜ……セレステは茫然として、思わず足を止める。ふたりの様子を窺っていると、クローデットが勢いよく彼に抱き着き、泣きじゃくり始めた。


「当家はペッティンゲル侯爵家と懇意にしていたから、お先真っ暗よ! この先どうなるのか分からない! 同罪みたいに扱われそうで、心配でたまらないの」


「落ち着け、クローデット。マーチ子爵が違法なことに関わっていないのなら、問題ない」


「でも、関わっていたら? 格下の当家が、侯爵家に逆らえるわけもないでしょう? 父が道を踏み外していたら――証拠が出たとしたら、終わりだわ! 娘の私も道連れよ!」


「クローデット」


「父が悪事に加担していた場合、マーチ子爵家はどうなるの?」


「……以前と同じような暮らしはできないだろうな」


 エリシャは気安めを言えない人だ。正直な人だから。


 クローデットの父が捕らえられた場合、実子である彼女の未来は暗い。無一文で寒空の下に放り出されることだって、あるかもしれない。幸せな縁談は望めないだろう――だって一体誰が、醜聞まみれの一族と縁を結びたがるだろう?


「冷たいのね、エリシャ」


 クローデットが泣きながらエリシャをなじる。クローデットはエリシャに対して腹を立てていて、それはつまり、怒りをぶつけられるほど彼が近しい存在であることを示している。


 セレステは胸が苦しくなった。


 そもそもエリシャは責められるようなことを何もしていない。クローデットの訴えはまだ起きていない不確かなことをおそれているだけで、第三者にはどうにも対処のしようがないことだった。もしも彼女の言うとおりマーチ子爵がこの先罰せられるのだとしたら、その時にならなければ周囲の人間は対応を決められない。


 恋心の有無は別として、エリシャとクローデットのあいだに『友情』があるならば、手を差し伸べるかどうかはその時に決めることになるだろう。


 金銭的な援助であるのか、職業の斡旋であるのか、後見人を見つけてやることなのか――それは分からないけれど、どちらにせよ、血縁関係にない異性の友人をサポートするというのは非常にデリケートなことだ。セレステはそう思う。やってあげたい気持ちはやまやまでも、やりすぎるといらぬ憶測を呼ぶことになる――ふたりは男女の関係にあるから、そこまでするのではないか、と。


 助ける側は具体的にどこまでするかを、よくよく考えるべきである。セレステはそういう考えだし、慎重なアディンセル伯爵も同じなのではないか。


 本来クローデットが一番に頼る相手は、身内であるべきだ。親等の近い順に相談したほうがよい――何しろ、ことがことだ。


 これは彼女の今後に関わる話で、『重いものを運ぶのを手伝って』というような気楽な内容ではない。親戚関係をすべて頼って、それでもだめで、最終的に友人を頼るというのならまだ分かる。


 とにかく今この段階で、具体的な救済プランをエリシャが提示しないからといって、彼を人でなしのように責め立てるのはお門違いだった。


 セレステはエリシャが責められているのを聞かされたのがつらかった。それに本音を言ったら、この密会自体に傷ついていた。


 ふたりでこんなふうにこっそり会って、感情的に話をして、抱き合っている――ここはセレステの家なのに。彼は婚約者(セレステ)の家で、別の美しい令嬢と親密に過ごしている。


 クローデットが追い詰められているのは理解できるけれど、だからといってこの状況をセレステが納得できるかどうは別の話だ。


「私も君のことは心配している。だが――」


「ねぇ、考えてみて。お兄様が生きていて、私と結婚していたらどう? もしくは婚約中でもいい――その場合、あなたは見捨てた? 私たちの繋がりってそんなものなの?」


「兄が生きていれば、兄が君を保護したはずだ」


「だけど、彼はもういない! 死んだの! エリシャ――なのにあなたは私を見捨てるの? 私を捨てるの? ねぇ、エリシャ、私たち、家族のようなものでしょう?」


 彼に縋って泣くクローデットの声を、これ以上聞いていたくなかった。セレステは足早にそこを離れ、厨房に飛び込んだ。


 表情を無くしたまま夕食の支度にとりかかる。慣れたもので、頭を空っぽにしていても手だけは動く……サンドイッチに、スープ。


 ほとんど終わった頃にメイドのマーサが入って来たので、「風邪気味だから、自室に戻るわ」と告げた。くまちゃんのぶんを盆に載せ、それを持って部屋に向かう。くまちゃんはいつも食堂で食べるのだけれど、セレステを部屋に置き去りにして、食べに行かないかもしれないと思ったのだ。


 部屋に戻ると、セレステの様子に異変を感じたのか、くまちゃんがピタリと動きを止めた。ベッドの上に棒立ちになり、こちらを見返してくる。


 セレステはサイドテーブルにトレイを置き、ベッドの端に腰かけ、微笑んでみせた。


「私、今日、食事はいらないから。これ、くまちゃんのぶん」


「セレステ」


 くまちゃんが近寄って来て、顔を上げてこちらをじっと見てくる。気遣われているのが伝わり、不意に視界が滲んだ。涙がこぼれる。


「どうした、セレステ。悲しいのか?」


「私……」


「泣くなよ、セレステ」


 食いしん坊のくまちゃんが料理には目もくれず、セレステの肩によじ登ってくる。あんよを首の両脇に引っかけ、腰を下ろしたのだが――こちらの後頭部にお腹をくっつけてくるので、髪の毛越しでもモコモコした質感が伝わってきて、その優しい感触にセレステの胸がうずいた。


「泣くな、泣くなよ……な?」


 肉球がセレステの額をこする。優しく、何度も、何度もこする。


 セレステは顔を手のひらで覆い、涙をこぼした。嗚咽が漏れる……悲しくて、切なくて、つらかった。


 恋なんてするんじゃなかった。こんなにつらいなんて。彼を好きになるんじゃなかった。


 くまちゃんは困り果てているようだった。まごついて、慌てている。そのうちにくまちゃんはピタリとセレステの頭に抱き着いて、こう言った。


「分かった、泣いていいぞ。俺の前では、いくらだって泣いていい」


 不器用で、優しい、私だけのくまちゃん。


 セレステはくまちゃんのお手々を握って、自分の瞼の上に置いた。わぁ……と声を出しながら泣く。まるで小さな子供みたいに。


「セレステ、俺がついているからな」


 くまちゃんが慰めてくれる。


「大丈夫だ、セレステ」


 こんなに泣いたのは、弟が死んで以来だった。体中の水分がすべて出尽くしてしまうくらいに泣いた。


 くまちゃんが何度も何度も名前を呼ぶ――セレステ――セレステ。


 こんなに優しい言葉の響きを、ほかに知らない。次第に悲しい気持ちが薄らいできて、セレステは泣きながら眠ってしまった。


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