第21話 クマちゃん大暴れ


「俺はどんな手を使ってでも、セレステをいいところに嫁にやると決めたんだ」


 くまちゃんはよく分からない使命感に燃えているらしい。


 持っている手帳の留め金をモコモコお手々で外し、開く。それをめくって目当てのページを見つけたあとで、顔を上げて大司教を眺めた。


「棺桶に片足突っ込んでいるようなじいさんを苛めるのもなぁ……そうだな、メティに話すか」


 くるりと回転して、メティ神父の前に歩み寄る。


 ダークブロンドの長い髪を後ろでひとつに括ったメティ神父は、瞳を細めてくまちゃんを眺めていた。場の緊張が高まっている。


 くまちゃんは堂々たる態度で、彼を脅し始めた。


「お前が委員を務めている救貧院だが、北区画でずいぶん面白いことをやっているな――お上に隠れて、売春宿の経営か。救貧院に身を寄せる貧しい娘たちに身売りさせて、貴族連中がそこのお得意さんだってな? 金持ちのくせに、相手をさせた娘たちには、ロクに金も払ってやらないそうじゃないか。まったく、ひどいことをしやがるなぁ」


 聞いていたセレステは衝撃を受けた。先日くまちゃんがほのめかしていた『救貧院の北区画』というのは、このことだったのか。何年もあそこでボランティアをしていたのに、何も知らなかった。


 けれど考えてみれば、不審な点はいくつかあった。


 ――なぜ救貧院があんなに良い立地に建っているのか? 救貧院自体が貧困層の救済などではなく、元々別の目的で作られたのだとしたら。


 曲がりなりにもあそこは都会の一等地だ。施設の表門が接している円形広場は主要機関から程近く、かつ環境も良いので、よく待ち合わせの場所に使われる。貴族が通うのに便利だから、あの場所なのかもしれない。


 もちろん後ろ暗い目的で訪ねるのだから、顧客は円形広場のある表門からは入れない。だから裏通りに面している北区画を使うことにしたのだろう。


 ――それからアンの不可解な男装。


 あの子は多くを語らず、「これが好きだから」と言っていたけれど、本当は売春宿の実態を知っていて、そこで働かされないように『女の子』の部分を消そうとしていたのではないだろうか。あの子はまだ十歳前後の子供だけれど、だからといって安心してはいられなかったのだろう。本人がよくよく考えて自衛に努めていたとするなら、それはとても賢い選択であったとセレステは思う。


 しかしそれだっていつまで通用するかは分からない。アンは可愛い子だし、もしかすると『男児が好き』という客だっているかもしれない。あの子はずっと綱渡りを強いられてきたのだ。


 ――メティ神父は言葉を返さず、じっとくまちゃんを見返していた。救貧院の委員をしているのだから、彼は確実に売春宿の経営に絡んでいる。


 どうなるのだろうと、セレステはハラハラしてきた。扉のほうをちらりと窺う。


 いざとなったら騒ぎを起こして、くまちゃんを抱っこして、あの扉から逃げる。外に出さえすればエリシャがいる。彼ならきっとなんとかしてくれる。


 不思議なことにセレステは、エリシャの正義を疑わなかった。


 知り合ってからまだ間もないけれど、分かったこともある――彼の話し方、態度、真っ直ぐな視線から。


 エリシャは驚くほどに高潔な人だ。嘘がない人だから、初めてセレステと対面した時に、彼ははっきり拒絶したのだ。その率直さは彼の悪い部分であると同時に、良い部分でもある。


 だから信じられる。


 これから先、彼が自分を愛してくれるか、それはまだ分からない。けれど彼はセレステが助けを求めた時に、躊躇うことなく、助けてくれる人だ。信念の人だ。彼は絶対に正しい選択する。


 そう考えたら、胸の辺りが温かくなった……大丈夫。彼が助けてくれる。大丈夫。


 くまちゃんが手帳に視線を落としたのが、遠目に見えた。


「売春宿では、お歴々がずいぶんな変態プレイをお楽しみだったようだな。ここに顧客名簿の写しがあるぞ。まずサディスティックな尻プレイが大好物の、ド変態君たちを発表しよう。ええと何々――セルズニック侯爵、コールマン伯爵、ザナック伯爵、ブラムウェル、ペッティンゲル侯爵、それから――」


「待て」


 メティ神父が鋭い声で制すが、少し遅かったようだ。長机を囲む面々が隣席の人と顔を見合わせ、ざわつき始めた。ここにいるからといって、全員が一枚岩というわけではないようだ。この会議には潔癖な人格者も、当然参加している。


 そして上座にいるペッティンゲル侯爵本人は、悠長に構えすぎていたようである。この場で精霊もどきが何を言おうと、どうせもみ消せると考えていて、すぐに黙らせることをしなかった。


 もしかすると売春宿はしばらく休んで、もぬけの殻にしておけばそれですむと安易に考えていたのかもしれない。時期を見て復活させればよいのだと。


 ところがここで顧客名簿まで晒されてしまった――そしてその名簿に自身の名前が載っていることも、彼にとっては想定外だったに違いない。


「このくま風情が、ふざけおって! でっち上げで私の名誉を傷つけ、それですむと思うなよ! 教会で囲ってやろうと思っていたが、お前の飼い主のセレステもろとも、救貧院にぶち込んでやるからな! 私の権力をもってすれば、そのくらいは簡単なのだ、思い知るがいい!」


 ペッティンゲル侯爵が三流感丸出しで喚き始めた。下がっていた右の顔面が、怒りで歪み、さらに左右非対称な有様になっている。髪は乱れ、威厳の欠片もなかった。


 ペッティンゲル侯爵がよろめきながら机の上に身を投げ、手を伸ばしたので、セレステはひやりとした――まさか、くまちゃんを殴るつもりなの?


 しかしくまちゃんは機敏にヒラリとジャンプして、侯爵の手の届かない場所に逃れた。それどころかペッティンゲル侯爵にモコモコのお尻を向け、左右に振って挑発までする始末。


「ばーか、ばーか、クソじじい、のーろーまー」


 くまちゃんは頭を下げて、股の下から覗き込んで、ペッティンゲル侯爵の顔を上下逆さまに眺めている。


「ド変態ー、尻の穴が好きだろう、この変態じじいー。てめーこそ、売春宿にぶち込んでやるからな! 尻じじいー」


 味方から見ても、なんとも下品で憎らしい態度だった。セレステは頬が引き攣るのを感じた。


 尻の穴好きという特殊性癖を暴露されたペッティンゲル侯爵は、ひきつけを起こさんばかりになっている。血圧が上がりすぎているのか、顔が危険なほどに赤い。過呼吸を起こしたように浅く激しく息をして、喉を押さえている。


「くまくん、少し落ち着きなさい」


 メティ神父はペッティンゲル侯爵を放っておき、くまちゃんのほうに呼びかけた。しかしくまちゃんは心拍数的には落ち着いていそうなので、本当に安静が必要なのは、卒中を起こしかけているペッティンゲル侯爵のほうだと思われた。


 くまちゃんはやっと股のあいだから顔を上げ、メティ神父の飴色の瞳を見つめ返す。


「俺は落ち着いているぜ」


「救貧院の北区画でそのようなことが行われていたことを、私は初めて聞きました。しかし先の内容はあなたの妄言である可能性のほうが高い。証拠は何もないのだから」


「証拠ならあるぜ」


「その手帳?」ふ、とメティ神父が笑みをこぼす。「それがなんだというのですか? 妄想小説と同じだ」


「そうかい? だけど――第二王子はこれに興味津々だったけどな」


 くまちゃんがそれはそれは悪ーい顔で笑う。


「……何?」


「あの御方は潔癖だから、品性を欠いた貴族の悪ふざけはお気に召さないってよ。今頃は第二王子直属の部隊が、救貧院北区画に立ち入り調査に入っている」


「馬鹿な」


 メティ神父の顔に浮かんだ驚愕は本物だった。彼がこんなふうに不意を突かれて素を晒すのを、セレステは初めて目にした。


 くまちゃんはここ数日、昼間どこかへふらりと出かけていたようだけれど、まさかこんなことをしていたとは――それにしても初動が早い。早すぎる。


 目端の利くメティ神父が手入れの気配さえ掴めなかったのだから、奇襲もよいところだ。やられたほうはひとたまりもないだろう。


「言っただろ、俺は何年も風に乗って、貴族の邸宅を渡り歩いてきたんだよ。派閥や力関係は知り尽くしている。救貧院北区画の売春宿――これを取り仕切っているのは、ペッティンゲル侯爵だ。貴族社会の膿ってやつだな。ところがこうした古い流れを嫌う人物も、中央にはいる。それが第二王子の派閥だ」


「……先日わざわざ私に、北区画の話をほのめかしたのはなぜです?」


「ちょっとは危ない橋も渡らないとな。俺に特別な力があると分かってもらわないといけなかったから」


「どうして?」


「それが必要だから」


 くまちゃんのあどけない瞳と、メティ神父の苛立ちを含んだ瞳がかち合い、真っ向からぶつかり合う。


 メティ神父はやりづらそうだ。澄んだ泉だと思って迂闊にも足を踏み入れてみたら、底なしの沼だった――そんな得体の知れなさを、感じ始めているのかもしれない。


「手入れ前に北区画について話してしまって、ペッティンゲル侯爵になんらかの手を打たれるとは、考えなかった?」


「ペッティンゲル侯爵はどうせ、あなどっていたんだろ? ここらを管轄している捜査機関は掌握しているから、手入れをされるはずがないと――でも残念だったな。それを飛び越えて、さらに上に話を通してやったぜ。もう終わりなんだよ、ペッティンゲル侯爵は。善良な人間がなけなしの金で買ったパンを、慈悲の心もなく奪い取ってきた――欲深く、醜い野郎だ。肥え太ったじじいは、そろそろ棺桶に入る頃合いだと思うね」


 タイミング良く扉が開き、アディンセル伯爵を筆頭に、騎士隊がなだれ込んできた。彼らは危うげなく整然と場の制圧に当たった。くだんのペッティンゲル侯爵を拘束し、どこかへ連れて行く。


 セレステは混乱の中、くまちゃんが騎士のひとりに無事保護されたのを確認した。


 ――ああ、よかった! ほっとして肩の力が抜ける。


 エリシャが真っ先にこちらに駆け寄って来た。


「セレステ」


 名前を呼ばれて、セレステは自分がずっと心細い思いをしていたことを思い知った。椅子から立ち上がり、彼に手を伸ばす。もしかすると泣きそうな顔をしていたかもしれない。視界が曇っていたから。


「おいで」


 エリシャが優しい声でそう言って、頭の後ろにそっと手を回してきた。セレステは子供みたいに素直に彼の胸に飛び込んでいた。


「……怖かった」


「そうだな、よく頑張った」


「私、何もできなくて……だけどエリシャさんは、いざとなったら絶対に助けてくれると思ったの」


「信じてくれたのか?」


「こんな時、あなた以上に頼りになる人はいない」


 たぶんセレステは狼狽していて、注意深さを失っていた。思うまま、素直に、彼への信頼をそのまま口に出していた。


 セレステがとうとう泣き出してしまっても、エリシャは怒らなかった。それどころかいっそう優しく頭を撫でてくれた。


 騎士に抱っこされたくまちゃんがいつの間にかそばに来ていて、


「俺もセレステも、鍛え抜かれた騎士に抱っこされてる。助けられたら、助けてくれた相手に褒美をやらなきゃならん。こうなったらセレステ――もうそいつに突っ込ませてやるしかないぞ」


 と言った。


 最後のほうは意味がよく分からなかったのだが、それを聞いたエリシャが本気で怒り出して、くまちゃんと大人げなく喧嘩を始めたので、セレステは笑いが込み上げてきて頬を緩ませたのだった。


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