第20話 セレステのピンチ


 ――数日後。


 事態は思わぬ方向に進んだ。


 これまでの人生で一度も注目を浴びたことがなかった、貧乏貴族の娘セレステ――そんな彼女が大聖堂に呼び出されたのだ。用向きは『人語を話すくまの精霊について、詳しく話を伺いたい』とのことである。


 大聖堂のチャプター・ハウスに通されたセレステは、居並ぶ面々から、値踏みするような視線を向けられた。


 この集会を招集したのは、はるか遠くの上座に着席している大司教だ。


 大仰な長テーブルの端と端――この物理的な距離感が、そのまま心の距離と比例しているように感じられた。


 席を囲んでいるのは、そうそうたる面々。


 神職に携わる者のみならず、この教区の権力者たちが幾人も顔を揃えている。


 ここは紛れもなく政治の場だった。


 上座の一角には、悪名高きペッティンゲル侯爵もいる。部屋に入ってすぐにくまちゃんが、


「十時の方角――右側の顔面が奇妙なほど下にズレた、あの歪んだ狸みたいなやつがペッティンゲルだ」


 と耳打ちして教えてくれた。


 ペッティンゲル侯爵は、ロバート・B・サイツ侯爵と対立関係にあり、過去にボンディ侯爵夫人すらも出し抜いた、癖のある俗物とのことである。


 クローデット・マーチ子爵令嬢を手駒にして、エリシャ・アディンセル伯爵と婚姻を結ばせることを、まだ諦めていないようだが……。


 彼が上座にいるということは、この場ではペッティンゲル侯爵にとって有利な裁定がなされるということだろうか?


 大司教はペッティンゲル侯爵とは腐敗した関係にあるのかもしれない。聖職者であっても、人格者であるとは限らないだろうから。


「――聖典には、神が動物に言葉を授け、祝福と共に我らの元に送ったと記されている」


 大司教の声はしわがれていて平坦であり、惹きつけられるものが何もなかった。もっと聞いていたくなるような深みも、優しさも、慈悲もない。


 かといって剥き出しの悪意もない。


 根っこのほうには何かしらの感情があるに違いないが、それを表に出さないことに慣れているようである。


「今回セレステ・ホプキンス伯爵令嬢の元に、神の使いがやって来た。我々は慎重に、この事態に対処せねばならない――五百年前に同様の事例があったとのことで、その際は、使わされた精霊、そしてそれが取り憑いた人間ともども、教会で生涯保護したという記録が残っている」


 ――『精霊、そしてそれが取り憑いた人間ともども』だなんて、ずいぶん上から目線な言い方をするのね。


 セレステは思わず眉根を寄せる。神の使いと認識しながらも、軽々しく『それ』呼ばわり――そういった些細な点に人の本心は出るものである。失言というのは結局のところ、本音を言っているにすぎないのだから。


 そして大司教の口述はなんとも投げやりだった。奇跡に感じ入るでもない。面倒事が起こってしまったから、過去の事例を調べましたという、ただそれだけの内容。


 しかし話が良くない方向に向かっているのは、世情に疎いセレステでも感じ取れた。背筋が寒くなってくる。


 護衛騎士のエリシャはチャプター・ハウスまで付いて来てくれたのだが、会合に参加することは認められなかった。彼は抗議していたけれど、色々な規約を持ち出されては、どうにも覆せなかったようだ。今は別室で控えている。


 だからセレステの味方は、肩車をしているくまちゃんだけ。


 緊張しているセレステとは対照的に、くまちゃんはモコモコ足を気まぐれにプラプラと動かしており、リラックスしているようだった。


「――では、セレステ・ホプキンス伯爵令嬢とそちらの動物精霊の今後の取り扱いについては、メティ神父のほうから説明してもらう」


 大司教が斜向かいに腰かけているメティ神父に進行役を譲った。あとの雑事は下っ端がやってね、ということらしい。


 すると首の後ろに乗っかっていたくまちゃんが、セレステの肩から腕を伝って、するすると滑り降りてきた。よっこらしょっと白いテーブルクロスのかけられた卓上に足を着け、二本足でトテトテ歩き始める。


 セレステは長机の一番下座にいたので、くまちゃんの後ろ姿を眺める形になった。


 くまちゃんは丸い尻尾を微かに振りながら(歩き方に独特の癖があり、不可抗力で尻ごと動いてしまうようだ)、短い足でちょこちょこ進んで行く――……遥か彼方の遠い上座にいる大司教のほうへ向かって。


 進むあいだも、両側に居並ぶお歴々方をジロジロ眺め回して、余裕たっぷりな様子である。ずいぶん無礼な振舞いであると思うのだが、見た目は可愛いくまちゃんであるし、その上神から祝福を受けた精霊ということで、誰も手出しをできないでいる。


 ちなみに今日のくまちゃんは、首の後ろにこんもりした包みを背負っていた。出かける前に、


「小っちゃいカバンはないか」


 と言うので、適当なものが見つけられずに、スカーフを一枚あげた。紺色の縁取りがあって、中の部分は白地で、そこに草花の絵柄が描かれているものだ。


 くまちゃんはそれに手荷物を放り込み、上下の角を畳んで、左右を引っ張って背負うと、両端の部分を首の前に持ってきて結んだ。それをずっと背負っていたわけなのだが……。


 大司教の少し手前で足を止めたくまちゃんは、首の前の結び目を解き、乱雑にテーブルの上に包みを放り出した。そしてあぐらをかくように卓上に座り込むと、ゴソゴソと包みを開く。キャンディーをひとつ見つけたらしく、「イチゴ味のやつだ」と呟きながら、お口に放り込んでいる。


 それから黒革の手帳を拾い上げ、のっそりと立ち上がった。


「おい、お前たち」


 語り始めたものの、口の中に飴が入っているので、出だしの『おい』の発音がほとんど「にょい」になっていた。ついでによだれも垂れてきたのか、慌てて顎のあたりをモコモコお手々で拭っている。


 ……ていうか精霊なのによだれが垂れるのね。


 このままでは満足に喋れないと気づいたらしいくまちゃんは、バリバリとイチゴキャンディーを噛み砕いてしまった。どうにも行き当たりばったりな感じがするが、なんせ相手はくまちゃんなので、誰も何も言えない。


「おい、お前たち!」何事もなかったように仕切り直したくまちゃん。「セレステを飼い殺しにするつもりのようだが、そうはいかないぜ」


「飼い殺しだなんて、人聞きの悪い」


 メティ神父が取り澄ました上品な物腰で、やんわりとくまちゃんをたしなめた。


 しかし当のくまちゃんは怒ったように鼻の上に皴を寄せている。


「教会で保護って、つまりはそういうことだろ? 一生、軟禁するつもりだな?」


「まさか。あなた方は国家にとって重要な存在ですから、環境の整ったところで厳重に保護する必要があるということです。我々はあなた方の安全しか考えておりません」


 こういった心にもないことを言わせると右に出る者がいないというくらいに、この人は胡散臭い。


 くまちゃんがメティ神父を睨み据える。


「セレステはエリシャ・アディンセル伯爵と結婚する予定だ――セレステは、セレステの意志で、結婚したい相手と結婚する。それを誰も邪魔することはできない」


「結婚したいなら、すればいい。籍を入れて人妻になったあとでも、彼女を教会で保護することはできる」


 名目上夫婦にはなれる――けれど共には暮らせない。セレステは生涯教会に幽閉され、神に仕えることになる。


 あちらは譲歩しているようでいて、まるでしていない。メティ神父の主張は清々しいほどに分かりやすかった。


 着席している多くの有力者たち――彼らの手にかかれば、セレステごとき貧乏貴族の娘の運命など、どうとでもできるのだ。


 そこにペッティンゲル侯爵が絡んでくれば、籍を入れるという行為すら妨害は可能だろう。おそらくペッティンゲル侯爵はこの審問会が終わり次第、セレステを監禁してしまうつもりだ。


 だから当日まではくまちゃんを油断させておく必要があった。


 先日メティ神父経由で上がってきたくまちゃんからの各要望――護衛騎士の手配や食材の調達といったものをすべて叶えてやったのも、今日ここで、こちらの不意を突くため。


 強大な権力に対抗するには、くまちゃんの体は小さすぎるように思えて、セレステの胸が痛んだ。


 ……何か自分にできることはないだろうか。


 正直なところセレステは、エリシャと結婚する未来が具体的に思い描けないでいた。将来的にそうなったらいいなぁというくらいの、絵空事のような感じで。自分にはもったいないくらいに素敵な人だから、そんなに上手くいくわけもないよね……どうしてもそう思ってしまうし。


 もしかすると彼に一目惚れした状態で、トントン拍子に話が進んでいたなら、いまだにセレステは目が覚めていなかったかもしれない。夢心地で、ポジティブなままでいられたかも。けれど彼に拒絶されたことで、セレステは客観性を得てしまった。


 だからここ最近、彼と少しだけ近づけたような気がしても、それは千歩ある距離がほんの一歩分だけ縮まった程度で、やっぱりそうそう上手くいくわけもないのだと思ってしまう。それは期待してまた傷つきたくないという、セレステの小心さが生み出す防御反応なのかもしれなかった。


 だから、争いごとに発展するくらいなら、教会で一生を過ごすのも仕方ないのかも……と心が揺れて。屈してしまいたくなる。


 だけど。だけどね――味方になってくれたくまちゃんが、教会で窮屈に過ごすのが嫌だというのなら、セレステも勇気を出して戦わなくてはならない。


 大事な友達に、嫌な思いはさせられないから。


 セレステは意識して、背筋をすっと伸ばした。


「私――自由がないのは、嫌です」


 声を出してみて、その語調の強さに、自分が一番びっくりする。


 なんだ……ちゃんと言えるじゃない。自分の意見を、皆の前でちゃんと言える。


 そうよ――私、嫌だ。自由がないのは嫌。口に出してみてやっと気づけた。


 教会で一生過ごすのも仕方ないだなんて、嘘。そんなことは、これっぽっちも思っていない。自分の希望で神に仕えたいと考えたなら別だけれど、誰かに強要されて幽閉されるのは嫌。


 セレステは自分を押し殺すことに慣れているけれど、自分というものがないわけじゃない。夢だってある。好きなことだってたくさんある。


 ――もっと馬に乗ってあちこち行きたいし。


 ――父にとっての肉親は、今は自分だけだ。会えなくなって、悲しませたくない。


 ――エリシャさんとも、もっと色々話してみたい。


 ――くまちゃんにラザニアを作ってあげるって約束したのに、まだ一回しか作っていない。


 一緒に食卓に着いて、お喋りできて、楽しかった――私に初めてできた友達。


 くまちゃんはセレステのことをちゃんと見てくれる。セレステと一緒にいてくれる。もっと一緒にいたい。


 長机のうんと向こうのほうで、くまちゃんがポツンと佇んで、こちらを見ていた。


 大好きだよ――……視線が絡むと、くまちゃんが右手を上げ、海上でする手旗信号みたいに大きく振ってくれた。


「おう、セレステ! 俺、頑張るぞー」


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