第19話 エリシャのトラウマ


 セレステはこれ以上ないほどに戸惑っていた……大天使様のように神々しいエリシャが、貧乏貴族である我が家にいる。


 それだけでも気が遠くなるような出来事であるのに、彼は先ほどから妙にセレステと話をしたがっているのだ。無理だと拒否をしたのに、諦めてくれない。食事の準備を手伝うと言い張り、厨房について来てしまった。


 天上人が突然翼をもがれて人間になり目の前に現れたかのような、禁忌めいたものを感じて眩暈がしてくる。


 メイドのマーサは空気を読んだのか、はたまたどうせ自分は料理担当ではないからと割り切っているのか、別室に引っ込んでしまった。つまり今は若い男女が厨房でふたりきりという奇妙な状況だ。


 セレステは肝心なことを話すのが怖くて、どうでもいいような質問を口にしていた。


「アディンセル伯爵は、料理をしたことがありますか?」


 エリシャは美しく澄んだ瞳でセレステを見おろし、微かに首を傾げてみせた。


「いや、ない」


「包丁を握ったことは?」


「ナイフの扱いなら得意だが」


「ナイフ……つまり果物を剥くのが?」


「果物は剥かれた状態で出てくる」


 そりゃそうか……当家と違ってアディンセル伯爵家は名門だ。果物でもなんでも、使用人が体裁よく剥いて出してくれるよね。


 ……では、何にナイフを使ったのか? 疑問に思っていると、エリシャが淡々と続ける。


「縛り上げられて監禁された際に、ナイフで縄を切って脱出したことがある。あとは罪人を縛り上げた後始末で、縄を切ったことも」


 出来事の『縄率』高いな。騎士ってそんなに誰かを縛ったり、誰かに縛られたりするものなの? あと、罪人を縛り上げた後始末って、それ、拷問の末に死んじゃったとかじゃないよね? 怖いんですけど。


 ――考えてみると、自宅では果物を使用人に切って出してもらうような優雅な身分でも、彼は騎士として、泥臭くてキツイ仕事を毎日こなしているのだ。職業柄どうしても社会の底辺を見ることになるだろうし、薄汚れた場所に入って行くことだってあるだろう。


 中流階級に属する人間が働いている、心地良くてそこそこ清潔な職場よりも、それはよほど劣悪な環境のような気がする。日々の鍛錬だってきっと、拷問並みにきついはず。信念がなければやっていられないだろう。


 目の前にいる美しい騎士様は、ちゃんとした生身の人間なのだ――……セレステはそんな当たり前のことに今さら気づかされ、ショックを受けた。たった一度、遠くから見ただけで熱を上げ、『彼と結婚して幸せになる』と能天気に希望を抱いていた過去の自分が、なんだかとても滑稽に感じられた。


 セレステが考え込んでいると、エリシャが距離を詰めてきた。ふっと影が差し、ふと気がつけば、彼の端正な顔が見上げたすぐ先にある。


 気圧されて後ずさるセレステの手を、彼が取った。


 セレステはかぁっと頬が赤くなるのを感じた。けれど意識をしているのは自分だけのようだ。彼の瞳は物思うように沈んでいる。


「私は女性に対して辛辣なところがある」


「アディンセル伯爵?」


「それには原因があって……楽しい話でもないけれど、どうか聞いてほしい。過去に何があったとしても、君にひどい態度を取った言い訳になるとは思っていない。それでも話しておきたいんだ」


 彼の瞳は疑いようもなくその心を映し出していた。エリシャは過去の行いを激しく後悔しているようだし、セレステに対して何かを伝えようとしている。


 だからセレステは素直に頷き、彼をじっと見返して、その言葉を待った。


「当時、俺は五歳だった。同年代の少女ふたりが、『どちらと仲良くするのか、今すぐ決めろ』と詰め寄って来た。どちらも初対面だったから、ひどく戸惑った記憶がある。それで……まだこちらが何も言わないうちに、ふたりは向き合って、罵り合いを始めた。争いはヒートアップしていき、ひとりがもうひとりの顔面を殴りつけた――拳で、だ。殴られたほうは前歯が折れて、ものすごい量の血が流れた。地獄絵図だった」


 回想で素の状態に近くなっているのか、一人称が『俺』になっている。普段のアディンセル伯爵は『私』と言っていたはずだ。それだけで心の距離がぐっと近づいた気がして、なんだか不思議だった。


 ……それにしても異性を取り合って決闘とは、海賊みたいなやり口だな、とセレステは思った。五歳のエリシャ少年はとても可愛かったに違いないが、彼に夢中になったとしても、暴力で解決しようとするのはいただけない。


 エリシャが沈痛な様子で続ける。


「その翌日もおそろしい目に遭った。年上の女の子に暗がりに引っ張り込まれ、無理やりキスされたんだ。俺は泣いて嫌がったが、離してもらえなかった。そのうちに口の中にぬるりとしたものが突っ込まれて、カタツムリでも押し込まれたのかと思ってパニックになった。しかしそれはその子の舌だった」


 えー、無理矢理ディープキスか……それはひどい。そしてすごい急ピッチで襲われ続けているな。悪いことは立て続けに起こるというけれど、それにしてもこれはちょっと……。


「ひどいですね、可哀想」


「この話にはまだ続きがある」


 五歳のエリシャ少年は、これからまだまだ不幸な目に遭うらしい。セレステはいたたまれない気持ちになった。


「キスされている最中にメイドが発見して助けに入ってくれたのだが、相手の少女が『エリシャに無理矢理キスされた』と訴えたので、俺はその子と危うく婚約させられるところだった。その後すったもんだがあって、相手が無理強いしてきたことだと証明できたのだが、婚約一歩手前まで進んだ流れが悪夢そのものだった。一連の記憶を一切合切抹殺してしまいたいくらいに、今でも不快に思っている」


「……親御さんはなんて? 慰めてくださったのでしょう?」


 セレステが親族ならば、カウンセリングに連れて行くところだ。


「その件で、俺は母にこっぴどく叱られた」


「ええ? どうしてですか?」


 彼は何も悪くないのでは?


「俺の両親は、父は平凡な容姿で、母はとびぬけて美人という組み合わせだった。母は若い頃から貞操の危機に何度も晒されてきたらしく、俺の行動を見て『あまりに脇が甘い』と腹を立てていた。獅子は我が子を千尋の谷に落とすというが、母はまさにそんな教育方針を心に持った女性なんだ」


 ざっくりとまとめるとそんな感じになるのだが、実際のところ母は、当時父と喧嘩していて、虫の居所が悪かったのだと思う。事件後、母は傷ついて泣くエリシャを厳しい目で見据え、


「いい加減あなたは自衛の手段を学びなさい。でないと大人になるまでに、痴情のもつれで、大切な所を切られちゃうわよ」


 そう言ってエリシャの下腹部を服の上から強く握り、脅しをかけてきたのだ。


 幼いエリシャは震え上がった。よく分からないなりに、『自身の軟弱な態度が、この先とんでもない破滅を招くかもしれない』ということだけは理解した。


 しかし性器を握られたくだりはセレステには言えない――母はまだ存命であるし、さすがにちょっと内容がアレである。


「そして三日目」


 エリシャが平坦な調子で続けるので、セレステはぎょっとして思わず彼の肩に手をかけていた。夕刻の厨房で、なぜかダンスを踊るような体勢になっている。


 セレステはあまりに動揺していたために、何かに縋りたかったのかもしれないし、彼が続きを言うのを止めたかったのかもしれない。


 ……ていうか当時のエリシャ少年の三日間って、天地創造の七日間くらい密度が濃くない? もしかして今、地獄の成り立ちか何かを聞かされている? 


「あの、まだあるのですか?」


 セレステの口から泣きごとがこぼれ出る。


「予告しておくが、三日目のエピソードが一番ひどい」


「ええ、やだ、嘘」


 いっそ慈悲深ささえ感じさせるような凪いだ瞳で、彼はセレステを見つめる。


「傷ついた俺は祖母の家に預けられた。環境を変えてやろうという大人の配慮が働いたのかもしれないが、詳しい事情はよく分からない。その日はちょうど、祖母の友人である高名な侯爵夫人が滞在していた。その夫人は七十を超えていたと思う。人のよさそうな老女に見えた。しかし……」


「ああ神様……」


 セレステはたまらずにうめき声をもらした……もう嫌な予感しかしないよ。その老女に何かされたわけですね。そうですよね。でも聞きたくないんです、もうこれ以上はしんどいです。


 幼いエリシャ少年の身に降りかかった不幸については大変気の毒に思うのだが、セレステにはこれらを受け止められるだけの度量がない。


 お願い、もうこの話はやめましょう……視線でそう訴えてみるのだが、エリシャは無情だった。


 やはりこの人は大天使様なのかもしれない。人間風情の不道徳な振舞いを見ても、この美しい瞳は穢れないのだ。


「その老女が俺を風呂に入れようとして、半裸で追って来た。しなびた体をむき出しにして、入れ歯を外した顔は歪み、さながら飢えた悪鬼のようだった。幸い逃げおおせることができたのだが、暗がりで発見された俺は精神的ショックを受けていて、三日ほど言葉を喋れなかった。これはイタズラ目的だったのかいまだに不明だ……当の夫人は、社会的には立派な人物という体裁を保ったまま、その翌月身まかられた。死因は心臓発作だった」


「……なんと言ったらいいか」


「慰めはいらない。けれど、許してほしいんだ」


 許す……予想外の言葉に、セレステは彼の顔をじっと見上げる。とても近い距離でふたりは見つめ合った。


 目の前にあるエリシャの瞳は、空よりも海の青さを思わせた。神秘的な潮の満ち引き――今ここにある波は、次の瞬間どこかへ消えている。茫洋としていて、どこか寂しい。


 そうだ――彼も肉親を失っている。一年前、父と兄を。


 彼はセレステとはまるで違い、華やかで、美しく、気高く、強い人に見える……けれど彼が受けたダメージは、彼の優れた資質をもってしても軽減されることはない。


 彼の心に空いた穴は、セレステに深い共感を与えた――……この人も傷ついている。子供の頃のトラウマを、押しつけられた婚約相手に語らなければならないほどに、この人だってきっと寂しいんだ。


「あなたは私に許してもらうことなど、何ひとつないでしょう? 悪いことはしていないもの」


「そんなことはない。俺はたぶん……女性から性的な目を向けられることに、強い恐怖を感じてしまうんだ。今回の縁談は、決まったのがあまりに急なことで、経緯もよく分からなくて。俺は君が――まだ名前しか知らなかった君が、昔俺を傷つけた女性と同じたぐいの人間なのだと、勝手に思い込んでしまった。先入観に囚われてしまい、何も見ようとしなかった。君は、俺がクローデット・マーチ子爵令嬢を特別に思っていると言ったけれど、それは違う。彼女は兄が愛した人で、俺にとって異性ではないんだ。年下だけれど、義姉になる人だと思って接してきた。だから違う」


 彼は「違う」と言ったけれど、セレステはそれを百パーセント信じたわけではなかった。


 別に、嘘をついていると疑っているわけではない……けれど彼自身が気づいていない可能性だってあると思うのだ。クローデットのことを特別に想っていても、そのことを本人が自覚していないだけなのかも。


 だけどこうして素直に話してくれたのは嬉しかった。まだどうなるか分からない婚約関係だけれど、小さな希望が見えたような、そんな気がした。


 そうこうするうちにオーブンに入れておいたラザニアが焼き上がり、くまちゃんが偵察のため入って来たので、ふたりのあいだに漂っていたフワフワした空気は霧散した。


 セレステはここ最近なかったような穏やかな気持ちになり、大勢の晩餐を楽しんだのだった。




   * * *




 ――ちなみにくまちゃんは食事に大満足で、終始夢心地の様子だった。


「美味しい?」


 セレステが尋ねると、くまちゃんは感情が上手くまとまらないのか、


「……ラザーニャ~……」


 とポワポワした呟きを漏らしていた。


 食事が終わったあともテーブルに頬杖を突き、椅子の上に二本足で立って、お尻をフリフリ動かすくまちゃん。


 まあるい毛糸玉みたいな尻尾が左右に揺れて、幸せそうに見えた。


 ……可愛い。


 くまちゃんを眺めるセレステも、きっと同じように、幸せそうな顔をしているのだろう。


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