第15話 クマちゃん襲来
その夜、枕元に何かがやって来た。その何かは彼女の名前を呼んだ。
『――テ……――セレステ……』
ううん……セレステは眉を顰めて寝返りを打つ。
……眠いのよ、お願い寝かせて……。
昼間、セレステはエリシャと対面し、大変気まずい思いをした。仮病がバレてしまったし、縁談に舞い上がっていた過去の心情を勢いでぶっちゃけてしまったし……恥ずかしいことをたくさん口走ったような気がする。
羞恥という感情は時間がたつと、数倍になってぶり返してくることがある。セレステは夜、それを味わうこととなった。顔は火照てり、変な汗をかき、やり取りを反芻しては「ぅうわぁーっ‼」と叫びたくなって。
とてもじゃないがこれでは寝られそうにない。そこでつらい時に大人が利用する定番アイテムに、つい手を伸ばしていた――それすなわち『酒』である。
寝酒を一杯、もう一杯、もうちょっと……そんな具合に酒が進み、泥酔した状態で寝床に入ったのが数時間前。少し寝たくらいでアルコールが体内から消えるはずもないから、今現在も酔っている。
人間、この状態になると、ちょっとやそっとのことでは起きられない。しかし枕元の何かは、躍起になってセレステを起こそうとする。
『なぁセレステ、セレステってば』
テシテシ、と何かがセレステの額を押してくる。全然痛くもないし、かといってすごく気持ちがいいというわけでもなかった。
ノー刺激、アンド、ノー快感。それはある意味『無』と同じである。だからセレステは頑として起きなかった。
『おーい。なんだよ、木のウロのところで、俺を呼んだのはお前だろう?』
「え……何? ……頭痛い……」
『お前まだ、エリシャ・アディンセルと結婚したいか?』
尋ねられたことを、セレステは夢うつつの状態で考えてみる。結論はすぐに出た。
「……うん、したい」
『本気か?』
「うん」
『お前、あいつに泣かされていたじゃないか』
「でも好きなの……彼のほうは違うみたいだけれど」
『あいつはお前が嫌いなのか?』
「うん」
『なんでだ?』
「……す……だから」
『ん? なんて?』
「――私がブスで間抜けだから!」
セレステは寝床で叫んだ。そして自分の声にびっくりして、ハッと目を覚ます。起き方すら間抜けである。
セレステがうっすら目を開けると、灰色がかった部屋の様子が見えた。昼間はほんのりと色を持っていた家具も、日の光がない今は闇に半分とけかけて、暗く沈んで見える。
……今何時? 何……時……ああだるい……何時なのかを気にしていたはずなのに、気づけばセレステはふたたび瞳を閉じていた。
あー……――あれ? さっきまで何をしていたんだっけ。
『元気出せよ、セレステ』
んー……なんかまだ会話が続いている?
「元気出るかな……分かんない。すごく怖い」
『何が怖いんだ』
「何をやっても上手くいかないの。このままじゃ婚約破棄されちゃう。私ってブスな上に、だめなやつだから」
セレステはこれまで自分の容姿をそこまで卑下したことはなかった。
けれどエリシャが美しいクローデットに優しくするのを見て――さらには彼に軽蔑されていたことを知ってから、すっかりいじけた気持ちになっていた。
『そんなことないぞ。俺からすれば、セレステはすごいやつだ。それにいいやつだし。人間、それが一番大事だろ?』
「そうかな」
『そうさ、安心しろ――お前にできないことは、俺が助けてやる』
「本当に?」
『約束する』
何かモコモコしたものがセレステの頭を撫でる。いや……撫でているというよりも、トストス押しているような、ぶきっちょな動きだった。
セレステは思わず微笑んでいた。
「じゃあ……ずっとそばにいてくれる?」
『ずっとそばにいてやる。だからお前は、俺に……』
間が空いた。俺に、何……? 何かしてほしいことがあるのだろうか?
「どうしたの?」
それは思い詰めた様子でこう告げた。
『お前は、俺に……ら……』
「ら……?」
『ラザーニャを、作るのだ……!』
作るのだ……! の部分がなんだかエコーして響いた。
作るのだー……! 作るのだー……! 作るのだー……! 作るのだー……! 作るのだー……! ……! ……! ……!
セレステの意識がふたたび沈んでいく。強烈な睡魔に襲われながら、セレステは考えを巡らせていた。
うーん……ラザーニャって何かしら? もしかしてラザニアのことかしら? でも、ラザーニャって……本当にどうでもいいことだけれど。
……発音、良すぎない?
* * *
――翌朝。セレステが二日酔いで目を覚ますと、ベッドの上に可愛いくまちゃんが座っていた。
もしかすると昨夜の深酒がまだ残っていて、そのアルコール成分が見せている幻覚か何かだろうか……セレステは回らない頭で考える。
瞳をぎゅっと閉じ、開ける――……くまちゃんはまだそこにいた。
上半身を起こしたセレステは、目の前のくまちゃんを穴が開くほどじっと見つめた。
……まだ赤ちゃんくまだろうか。体長はおそらく、セレステの膝の高さくらいまでしかなさそう。
短めなみっちりした茶色い毛。悪戯っ子のようなつぶらな瞳。まぁるいお耳は離れていて、頭の斜め横にちょこんとくっついている。控えめなお鼻の周囲は少しだけ毛の色が薄い。
くまちゃんはよっこらしょっ……とお尻をシーツから持ち上げ、二本足で立ち上がった。
足が短い。お腹がぽっこりしているのと、膝を不格好に曲げているせいもあり、余計に重心が下がって見えた。
くまちゃんが口をカパッと開き、声を発した。
「――セレステ、腹減った!」
「………………」
くまちゃん、はっきりと人語を喋った。そりゃもう流暢に喋った。
子供っぽい声というわけでもなく、大人っぽい声というわけでもない。しいていうならば、低めの女性の声――もしくは高めの男性の声というような、性別を感じさせない中性的な声だった。
セレステは仰天しすぎて、身動きできずにいた。
……これは夢よ……くまちゃんがベッドにいる……くまちゃんが立っている……くまちゃんが喋ってる……くまちゃんが「セレステ」って呼んだ……。
くまちゃんが危なっかしい足取りで歩み寄って来た。シーツに足が絡まるらしく、なんだかやりにくそうである。
「おーいセレステ、しっかりしろ」
ぺしぺし、とかたわらに来たくまちゃんに頬っぺたを肉球で押される。デフォルトでちょっとだけ爪が出ているので、想像していたより痛い。カツンカツン当たる。本人(本くま?)に悪気はないようだけれど。
まだぼんやりしていると、とうとうくまちゃんがセレステの腕を伝って肩によじ登り、短いあんよを首の両脇に垂らした。そのまま太鼓をたたくみたいに、テシテシとセレステの頭を叩き始める。
「セレステー、メシをくれー、セレステー」
セレステは考えることを一旦放棄し、寝間着姿のままベッドからよろけるように滑り出た。フラフラしながら階下へ向かう。くまちゃんは襟巻のようにしっかりと首の後ろにしがみついている。
しばらくして――……。
メイドのマーサが喋るくまちゃんと対面し、この世で一番喉が強い雄鶏の鳴き声みたいな悲鳴を上げ。
次に父が狼狽しすぎて腰を抜かすという、喜劇めいた一幕が繰り広げられ。
なんだかんだ順応性の高いホプキンス一家は、衝撃を長々と引きずることもなく、すぐに日常生活に戻った。
くまちゃんは食卓を囲む椅子をひとつ与えられ、ご機嫌な様子である。口がちょっと開いてしまっていて、濃いピンクの舌がそこからチロッとはみ出ている。
「メーシ、メーシ」
くまちゃんが椅子の上で行進するように両足を動かす。動くたびにプリプリモコモコしたお尻が揺れる。そしてどうでもいいことが、やはり足が短い。
行儀が悪すぎるが、なんといっても相手はくまちゃんなので、誰も注意をしなかった。
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