第13話 エリシャ、セレステと会う事にする
湖の畔に出ると、またロバート・B・サイツ侯爵と遭遇した。
こんな偶然ってあるのね……セレステは驚きを覚える。
ここは別に有名な観光スポットではないし、サイツ侯爵の邸宅からすごく近いわけでもない。彼はこの辺りに特別な思い入れでもあるのだろうか……?
だとしたら困ってしまう。
人見知りのセレステは、こういった遭遇が苦手だった。しかしここは思い出の湖畔なので、ルートから外すのも嫌なのだ。
馬から下りて挨拶すると、相変わらず派手な舞台顔のサイツ侯爵が、鷹揚な笑みを浮かべて迎えてくれる。
「今日も君に会えて嬉しいよ」
「私もです、閣下」
本心は違うのだけれど、さすがにそうも言えない。セレステは嘘をつくのが嫌いだが、他人を傷つけてまで、わざわざ本音を伝える必要もないと思っている。
「実は先日、円形広場で君を見かけたんだ――感謝祭の日に」
感謝祭の日……セレステは息を呑んだ。まさかあそこで知り合いの誰かに見られていただなんて。
「あの日は色々しくじってしまいました」
どの場面を見られたのかは不明だが、どの場面であったとしても、みっともなかったに違いない。初っ端からアンに叱られていたしね。
「面白い扮装をしていたね、太ったお婆さんのような」
「『三番目の姫と醜い魔法使い』というおとぎ話に出てくる、魔法使いの仮装をしていました。救貧院の子に頼まれまして」
「そう……いつもの可愛らしい君とまったく違っていたもんで、最初は分からなかったよ。声に聞き覚えがあったから『おや』と思ってよくよく眺めて、それでやっと気づけた」
いつもの君とまったく違っていて分からなかったというサイツ侯爵の言葉が、セレステは嬉しかった。いまだにクローデットから告げられた「いつもどおり」の言葉が引っかかっていたのだ。
「そ、そうですか。お恥ずかしいところを……」
「君は婚約者にあの格好を見られて、気まずくなかった?」
さらりと尋ねられた内容に、しばらく言葉を失う。
……婚約の件はまだ広く知られていないと思っていた。
けれど考えてみれば、サイツ侯爵ほどの方ならば、他家の婚約事情を把握していても不思議じゃない。
「自分の格好がどうこうというより、クローデットさんを転ばせてしまったのが申し訳なくて」
「あの場面、私も見ていたけれど、君は悪くなかったよ」
「え」
「アディンセル伯爵の立っていた位置は、あのご令嬢の背中側だったからね……詳細は分からなかったかもしれない。でも私の位置からははっきりと見えた。君は突き飛ばしていないし、彼女は勝手に転んだ。利き手を怪我したふりは、わざとかもしれないね。そうすればあとでアディンセル伯爵とふたりきりになった時に、何か取ってもらったり、甘えたりすることができるから」
サイツ侯爵の話を聞いていて、なんだか色々と考えさせられた。
彼の言うとおりの女性だとすると、クローデットはずいぶんと打算的である。
侯爵は酸いも甘いも噛み分けた大人の男性なので、他人のそういった計算高さをあれこれ見てきたのだろう。だから気づけたのかもしれない。
けれど……セレステは瞳を揺らした。
今は冷静になるべきだ――そうしたほうがいい。
問題なのは今の話を聞いて、『ほらね、そうでしょう?』とセレステが嬉しく感じてしまったことだ。「クローデットは勝手に転んだ」と言ってもらえて、『やっぱり、そうだと思った!』と、その意見に飛びつきたくなった。サイツ侯爵がそう言うのだからと、クローデットを悪者にして、精神的な平和を得たいと考えている。
不意にセレステは胸の痛みを感じた。
サイツ侯爵がここでなんと言ってくれても、それがエリシャの心には何も影響しないと気づいたためだ。ここでどんな結論が出ようが、そんなことは関係ない。エリシャがセレステを嫌う気持ちには、なんの変化も起きない。
だってエリシャがあの時言ったではないか――世界は君を中心に回っているわけではないのだと。あれはまさに真理を突いていると思う。
たとえクローデットが最低最悪な打算女であったとしても、それがなんだというのだろう? 神様が見ていてお節介を焼き、エリシャに目を覚ますよう説教してくれるわけでもない。
「なんだか、私……気分がすぐれなくて。このまま失礼してもよろしいでしょうか」
「大丈夫? 家まで送ろうか」
「いえ、そんな、とんでもない。お恥ずかしい話ですが、私は田舎者で、緊張しやすいのです。サイツ侯爵とお話して、光栄すぎて、あがってしまったみたいです」
「上手くかわしたね。分かった。とにかく体調には気をつけて」
「お気遣いありがとうございます」
侯爵が退いてくれてほっとした。これ以上粘られたら、しんどいところだった。
セレステは彼と別れたあとでふたたび馬にまたがり、湖のさらに奥深い地点を目指した。
湖の北側に大きなウロのある大樹があり、木の中に入り込めるのだ。子供の頃に、何度か来たことがある。ウロの中から見た景色は印象的で、湖がキラキラと輝いて、とても綺麗だった。あそこに行けばきっと落ち着ける。
やがて目当ての場所に辿り着き、周囲を見回してみると、昔と何ひとつ変わっていないことに気づいた。
馬から下りて、ウロの中に入る。地面に膝を突いて体を捻ったせいか、ズボンのポケットに入っていた硬いものが太腿を擦った。
なんだろう……中に手を入れて、それを取り出す。
ああ、これは――感謝祭の日に、アンに渡し損ねたクロスのネックレスだ。今日、散歩の帰りに救貧院に立ち寄って渡そうかと思って、出かける前にポケットに押し込んでおいたのだった。
ネックレスを見たら、感謝祭の時に味わった惨めな気持ちがぶり返してきた――エリシャがこちらを見る時の、軽蔑しきったあの瞳。
ネックレスを手の中に握り込んだまま、膝を抱えて額を押しつける。
「……もうやだ」
声が震える。どうしていいのか分からない。とても心細くて。折れそうだ。何もかも上手くいかない。何もかもが裏目に出るみたい。
孤独だった。誰かに相談できれば気も晴れるのかもしれないが、セレステにはその相手がいない。
サイツ侯爵は親切だけれど、個人的なことを打ち明けられる対象ではない。性別が違うことも大きいし、身分の差も大きい。
ボンディ侯爵夫人も、あちらの都合で縁談を押しつけてきただけであって、セレステの味方とはいえない。
父は善人であるが、どうにも頼りにならない。それに父親というのは娘からすると、すべてをさらけ出して相談できるような相手でもなかった。
セレステには本当の意味での味方が、どこにもいないように思われた。
セレステが今必要としているのは、彼女の言葉をじっくりと聞いてくれる友達だった。
そうしたらセレステだって相手に尽くして、もらったものを倍にして返す。友達に大きな欠点があっても、セレステだけは味方でいる。絶対に裏切らない。
「……誰か助けて」
とてつもなく寂しい。世界中でひとりぼっちみたいだ。皆が前に進んでいるのに、セレステだけが同じ場所に留まっている。
横を見ても誰もいない。セレステの肩を叩いて、大丈夫、ここにいるよ、と励ましてくれる人はどこにもいない。
――どこにもいないのだ。
* * *
エリシャは婚約者のセレステから三度の面会拒否をされ、考えを巡らせた。
……一体どういうつもりなのか。
初めは苛立ちを覚えた。気を引いているつもりか、と。
あるいは――と別の考えも浮かんだ。この面会拒絶はボンディ侯爵夫人へのアピールなのかもしれない。ボンディ侯爵夫人が滞在先から戻ったら、エリシャがつれなくしたのだと泣きついて、今後のことを有利に進める計画なのでは?
いや、だけど……なんだかそれもしっくりこない。
先日エリシャはセレステに対して、非常に辛辣な態度を取ったという自覚がある。きっと彼女はあとになってボンディ侯爵夫人にあの件を言いつけて、大騒ぎするに違いないと確信していた。やられたまま泣き寝入りするようなタマではないはずだ。
けれどなぜかそうはならなかった。
その後も不可解なことが続く。
縁談には大層乗り気だと聞いていたから、ボンディ侯爵夫人が三日ごとに会うようにと指示してきた時には、大喜びでそれに従うかと思っていたのに、予想が外れた。
彼女の都合で一度目の面会が流れ、二度目も……こうなると避けられているのは明らかだ。
そして断りの口実が病気を装うという大人しい内容であったのも、なんとも拍子抜けだった。そんなはずはないのに、気弱で内気な令嬢が、困り果てた末に考えついたような理由だと思ってしまった。
……とにかく、会ってみるか。
エリシャは三度目に届いた手紙を眺めおろしながら決心した。
現状、彼女に対しては何ひとつ期待していない。けれどこのままというのも良くないだろう。ボンディ侯爵夫人が帰る前に、なんらかの決着はつけておくべきだ。
――そこで約束の日時に、ホプキンス伯爵邸を訪ねてみた。
対面したあるじのホプキンス伯爵は、頭の先から足の爪先まで、都会の流行には何ひとつついていけずにいるような人だった。しかし物腰には気取りや嘘がなかったので、エリシャは会ってすぐに好感を抱いた。
支配階級にいながら、貧乏なまま努力を怠っているところとか、色々欠点はあるものの、どうにも憎めない。こののんびりしたホプキンス伯爵の娘が、ボンディ侯爵夫人を手玉に取るほどの悪女だとは、どうにも信じがたかった。
ホプキンス伯爵は大慌てで、「む、娘は出かけておりまして」と言いかけたあとで、「あ? いや、違う、違う、風邪――ええとそう風邪、で」としどろもどろになっている。仮病なのは分かっていたので、エリシャのほうが気を遣って、発言の矛盾には気づかなかったふりをした。
出かけているとのことなので、待っていればそのうちに帰ってくるだろう。エリシャは相手に否と言わせないように、一方的に「庭を見せていただきますね」と断ってから応接間をあとにした。
屋外に出る前に、彼は玄関ホールで足を止めた。そこに姉弟の肖像画が飾られていることに気づいたからだ。来訪時は気が急いていたので、見てもいなかった。
……弟がいるのか?
絵に近寄り、眺める。かなり前に描いたものらしく、絵具の色は少しくすんでいた。
セレステと思われる姉のほうは、この時、十二、三歳くらいだろうか。幼い弟の手を引き、優しく微笑んでいる。栗色の髪に、同色の優しい瞳をした、素朴な女の子だ。髪は癖がなく、清潔感がある。たとえるならば、木陰にいる子リスだとか、そんなたぐいの――……見ていると自然と心が和むような、不思議な感じがする。
弟だけが描かれた絵もあった。彼のお気に入りなのか、馬の絵の刺繍の入ったハンカチをその手に握りしめている。そういった余計なものを、絵のモデルをする際に取り上げなかったところが、いかにもホプキンス伯爵らしいと思った。体裁を取り繕うことを知らない、不器用な優しさを感じる。
薄暗い玄関から出て、東へ向かう。ホプキンス伯爵家は貧乏らしく、庭はお世辞にも立派とはいいかねた。
しばらく散策していると、表のほうが騒がしくなった。どうやらセレステが帰って来たようだ。
表のほうに出て行き――そこで彼は、美しい栗毛の馬にまたがったセレステ・ホプキンスと対面することになる。
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