第9話 名乗れなかった


 立ち上がったエリシャが、自然な流れでセレステのほうに視線を向けた。


 彼からすると、メティ神父、クローデットといった知人と会話し、初対面の子供アンとも関わりを持ったことで、その場にいた最後のひとりが気になったのかもしれない。


 セレステの服装は労働者階級にしては小綺麗すぎる。さりとて上流階級のご令嬢にも見えまい――何しろえらく地味だ。中流階級が妥当といったところだろうか。


 けれどなぜかこの場にいる。『一体君は何者なんだ』と違和感を覚えるのも無理はない。


 セレステは迷った……自己紹介をするべきだろうか?


 おそらくエリシャはセレステの名前を把握しているものと思われる――当事者なのだから、婚約相手の名前くらいは知っているだろう。


 セレステはボンディ侯爵夫人から「婚約が調いました」と聞かされていたが、正式な発表はまだなので、世間的にふたりの婚約は知られていない。メティ神父とクローデットがこの場にいるのに、セレステのほうからその話題を持ち出すのは、ルール違反に当たるだろうか?


 これがふたりきりであったなら、婚約者としてこれから頑張りたい旨、セレステはしっかりと伝えたに違いない。


 弟がいなくなり、その後は日常が色褪せたような、そんな気がしていたのだけれど……彼と縁談が持ち上がり、気持ちが前向きになれた。その感謝の気持ちを彼に伝えたかった。短い挨拶だけでもいい――「婚約者として精一杯頑張ります。これからどうぞよろしくお願いいたします」という言葉に感謝の気持ちを込められたなら。


 セレステは迷った末、こちらの名前だけ告げて、様子を見るのはどうだろうかと思った。それであちらが婚約について話題にしたなら、こちらも言いやすくなる。


 ところが、この一瞬の逡巡が人生の分かれ道だったのだろう――この日のセレステはふたつの大きなミスを犯した。


 ――ひとつ目のミスは、速やかに自己紹介をしなかったこと。


 ようやくセレステが口を開こうとした、その時。


「エリシャ! そんなことよりも、例のものを持って来てくれたのかしら?」


 クローデットの華やかな声が皆の注意を引いた。


 エリシャの理知的な瞳が、セレステの前で名残惜しそうにしばし留まり、離れる。彼は視線を切り、美しいクローデットのほうを向いてしまった。


 セレステはドキドキと跳ね回る心臓を、なんとか落ち着かせなければならなかった。


 ……何か特別な繋がりを感じてしまったのは、私だけ?


 視線が絡んだだけで、心の深い部分で繋がったかのような、そんな錯覚を覚える。


 この人の視界にたった一瞬だけ映ったという、ただそれだけのことで、心が浮き立ち。


 つい期待をして。


 切なくなる。


 彼のほうはおそらく『この令嬢は誰なんだ』という謎が解けなかったので、少し時間をかけてセレステを眺めただけなのだろう。それ以上でも以下でもない。


 だってもしも気になっているのなら、何か言ったはずである。そのまま流したのは、知っておくほどのこともないと結論づけたから。


「これを君に」


 エリシャはポケットから小さな木箱を取り出し、クローデットに差し出した。それは細長い形をしていて、彼の手のひらより少し長いくらいのサイズだった。


「開けてみてもいい?」


 クローデットが笑みを浮かべて尋ねると、エリシャはなぜか体を強張らせたようだった。瞳を伏せ、硬い声音で答える。


「――いや」


「え? だけど」


「今は開けないでほしい」


 先日、エリシャはクローデットからあることを頼まれた。それは兄に関するお願いごとだった。


 兄は亡くなる前、婚約者であるクローデットに贈りものをする約束をしていたらしい。クローデットは喪が明けた今になって、『自分のために買ってくれたものだから、ぜひ受け取っておきたい』と強く思うようになったそうだ。


 エリシャは兄の書斎に入り、デスクの引き出しを開けた。アンソニーは大切なものをそこにしまっておく癖があったのを思い出したからだ。


 引き出しの中には真新しい小さな木箱が入っていた。開けてみると、中身は万年筆で――女性もののそれは、持ち手の部分に花柄が描かれている。


 エリシャはそれをポケットに入れ、クローデットに指定された場所へやって来た。そして今に至るというわけだった。


 これは兄の気持ちがこもったものであるから、ほかの人間の目に触れさせたくなかった。すぐに見たいクローデットの気持ちも分かるのだが、これはエリシャの我儘だ。


 開けてよいかという問いを一方的に否定してしまったので、クローデットは傷ついたような瞳でこちらを見つめてきた。


 けれどどうしても「開けてもらって、かまわない」とは言えなかった。


 エリシャはまだ家族の死で負った傷が癒えていないのだ。




   * * *




「私、もう戻らないと」


 アンがそう切り出したことで、離脱しやすい空気になった。


 セレステは小声で「では私も」と呟き、得意の気配を消す能力を使ってサッとその場から離れた。


 アンと並んで作業部屋に戻る道すがら、『結局、名乗れなかったな』と考えていた。次会ったら必ず……と心に決める。


 もしも次に会ったなら、それが偶然の出会いだったとしても、必ず名乗ろう。


 そう――こうやって予定を先に決めてしまえばいい。そうすれば今回みたいに機会を逃さないですむ。


 今回上手くいかなかったせいで、セレステは『二度目は何があっても、絶対に名乗る』というおかしなルールを自らに課してしまった。


 これがふたつ目のミス――重要な決めごとを、精神が不安定な時にするものじゃない。


「ねぇ、大丈夫?」


 隣を歩くアンに気遣われ、セレステは彼女の利発そうな顔を見おろした。


 さして心配もしていなそうな顔つきだが、あえて尋ねてきたということは、一応は気にしてくれているのだろう。


 ……実はエリシャがクローデットにプレゼントを渡した瞬間、セレステは胸が苦しくなって、あの場にいたくないと強く思ったのだ。喜ぶクローデットの顔を見たくなかった。ふたりの特別な絆を見せられるのがつらかった。


 だからアンが離脱のきっかけを作ってくれて、とても助かった。


「大丈夫よ」


「本当に? あのさ、セレステ……もしかしてさっきの騎士様と何かある?」


 尋ねられ、ドキリとする。


「どうしてそんなことを訊くの?」


「分かんないけどさ……なんか私の知らない繋がりがありそうかな? って」


「これが初対面よ」


「でも、それだけじゃないでしょ、絶対」


 見透かすような目。鋭い……セレステは困ってしまった。


「懇意にしているボンディ侯爵夫人から、あの方のお名前を伺ったことがあったの。それで、私……」


 それ以上何も言いようがなくて、言葉を濁す。たったこれだけでも、一を聞いて十を知るアンならば、事情をある程度悟ったかもしれない。


 懇意にしている目上の貴族夫人が、独身の令嬢に、ある青年貴族の名前を伝えた――これはいかにも意味ありげである。セレステの気まずそうな様子から、『そういうことか』と真相が伝わったのではなかろうか。


 現にアンは『ふぅん』というように視線を巡らせている。ふたたびこちらを向き、気まぐれのように瞳を細めて口を開く。


「さっきのプレゼント、あまり気にしないほうがいいよ。恋人同士のもののやり取りとは限らないじゃん?」


「……さぁ、どうかな」


「結局、セレステは中身を見ていない――見ていないうちは、なかったことにできる」


「どういうこと?」


「中身がどんぐりだと思い込むんだよ。そしたらセレステの人生では、あの箱の中身はどんぐりってことになる」


 ――開けてみるまで中身は分からない。


 深淵なる学問の扉を開いたような、面白い解釈に思えた。アンは学がないのに時折ものすごく機知に富んだ物言いをして、セレステを驚かせる。


「面白いわね――でも、どんぐりはあんまりじゃない?」


「セレステはお子ちゃまだからなー。ほかに気の利いたもの、何か想像できる?」


「できるわよ」


「じゃあちょっとエッチな小物を想像してみてよ」


 何それ……エリシャがクローデットへエッチな小物を贈ったって、その時点でだめじゃない? だとしたら完全に肉体関係にあるよね、ふたり。爛(ただ)れた関係よね。


 不満を口にしようとしたら、アンにからかわれた。


「セレステには無理か。その手の知識が三歳児と同じレベルだもんね」


「で、できるもん。アンが鼻血出すような、すごいエッチな小物を考えつくから」


「言ってみ?」


「えっと、えっと……」


 しばらくたって、セレステは自分に絶望する結果となった。何も思いつかなかったからだ。


 エッチな小物を一生懸命考えようとしたせいで、セレステは顔が真っ赤になってしまった。


「無理じゃん」


 アンが体をくの字に折って爆笑している。大声を出すと誰かが飛んで来そうなので、無音で爆発するという器用ぶり。セレステは大人げなく頬を膨らませて、その様子を横目で睨むことしかできなかった。


 いつの間にか作業部屋の前まで来ていた。するとアンが早口にこんなことを言ってきた。


「あさっての感謝祭、来るでしょう?」


 感謝祭は四半期ごとの行事で、雇用側が働き手をねぎらって、お菓子や軽食を振舞う。この院でもいつもより豪華な食事が労働者たちに振舞われる。


 セレステは貧乏貴族なので、ポケットマネーで大盤振る舞いするような甲斐性はないけれど、ささやかなことなら協力できそうだと考えていた。お菓子や小物などの安価なプレゼントを買って、D区画の子供たちに持って来るくらいのことなら……。


「感謝祭には来るつもりよ」


「その時に、『三番目の姫と醜い魔法使い』の仮装をしてきてよ」


「おとぎ話の?」


「うん」


 セレステは『三番目の姫と醜い魔法使い』のストーリーを思い返した。


 義姉から意地悪されている不遇のお姫様が、醜い魔法使いに優しく接したことで、幸せになるための魔法をかけてもらえる。お姫様は魔法のおかげで美しく飾り立てられ、最終的に素敵な王子様と出会って、めでたしめでたしとなる。


 絵本に描かれたお姫様の装いは、可愛らしいピンクのドレスに、可愛らしい大きなリボン――それらは女の子の憧れだ。


「どうして私に仮装を頼むの?」


「最近は感謝祭で仮装するのが流行っているでしょう? セレステは貴族の娘なんだから、そういう遊びをしたっておかしくない」


「でも……」


「ねぇ、いい? セレステ」アンがこちらを見上げ、諭すように続ける。「あたしたちは感謝祭くらいしか楽しみがないんだよ。仮装ってさ、見るだけでも愉快な気分になれる――こんなこと頼めるの、セレステくらいなんだ。頼むよ」


「そっか……うん、分かった」


 ここまで言われては断れない。セレステとしても、救貧院の子供たちに楽しんでもらいたい気持ちはある。


「あたしは普段と違うセレステが見たいんだ。当日は気合入れてよね」


「任せて」


 セレステはへへ、とはにかみながら微笑んでみせた。ふたりは手を繋いで作業部屋へと戻った。


 ……もしかしてゲーツ監視員が頭でも打っていて、親切な人格に変わっているかもしれないという淡い期待を抱いていたのだが、その夢はすぐに打ち砕かれることとなった。


 彼は美人すぎるクローデットになけなしの親切心を使い果たしてしまったらしく、セレステに対してははいつもどおりだった。


 意地悪な目つきで睨みつけてきて、「時間に遅れてくるとは何事」云々としつこく嫌味を言ってくる。


 平素どおりね……セレステはくるりと目を回した。


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