第5話 サイツ侯爵
馬との一体感を楽しみながら、木立の中の小道を進んで行く。蹄の音と、木漏れ日の柔らかな輝き。
心が落ち着いていく……アディンセル伯爵に好かれたい一心で始めた乗馬だったけれど、純粋にこの時間が楽しいと思った。適度に心拍数が上がり、頭がすっきりする。
分かれ道に差しかかり、左の細い道を選んだ。
さらに森の奥深くへ。この先には湖がある。
徒歩だと遠いので滅多なことでは来られなかったのだが、湖はセレステの思い出の場所だった。何かつらいことや、人生の分岐点に立たされた時に、ここへ来ていた。乗馬を始めてよかったのは、ここに気軽に来れるようになったことだ。
しばらく道を進むと、湖の畔に出る――視界が開けた途端、木立の際に先客がいることに気づいた。
しまった……セレステは動揺し、息が止まりそうになった。これまでこの場所で人と会ったことがなかったので、すっかり油断していた。
遠目で気づいていたなら、こっそりUターンして途中で引き返したのに、ここまで来てしまったからには、もう逃げようがない。あからさまに無視するのも感じが悪いだろうし……。
先客は木の幹に寄りかかって立っている。馬は近くに繋いであった。
向こうもちゃんとこちらに気づいていて、腕組みをした姿勢で瞳をセレステのほうに向けている。
見たところ、歳は三十くらいだろうか――短髪を綺麗に流してあり、きっちりしていて立派な紳士だ。妙に目力があるというか、舞台の古典劇で主役を張れるような、正統派な顔立ちをしている。
身なりの隙のなさから、相手が明らかに貴族であることが分かった。
セレステはすっかり混乱し、表情も取り繕えずに、馬上から相手をじっと眺めおろした。顔が強張っていたので、セレステのことを何も知らない人が見たら『怒っているのか?』と訝しく感じたことだろう。印象は良くなかったに違いない。
ところがその男性はセレステと視線が絡むと、口元に人懐こい笑みを浮かべたのだ。それは旧知のよしみと再会したような気安さだった。
彼がこちらに近づいて来ようとしたので、セレステはとっさに後ろを振り返り、退路を探し――……すぐに諦めた。
だめだ。逃げるのなら、もっと早い段階でそうすべきだった。目もしっかりと合ってしまったし、こうなっては挨拶もしないで去ることはできない。
諦めがつけば躊躇いも消える。セレステはさっと馬から飛び下りて、行儀良くその紳士に対面した。
「――私はロバート・B・サイツ侯爵だ」
気さくに名乗られ、セレステは顔から血の気が引く思いだった。
よりによって、侯爵閣下とは! なんという運の悪さ!
引きこもり令嬢がこうしてばったり出会う相手としては、荷が重すぎる。
「わ、私は、セレステ・ホプキンスと申します」
舌が痙攣しているんじゃないかというくらい、上手く回らない。セレステは緊張のあまり、足の爪先をもじもじと動かしていた。
「ホプキンス伯爵のお嬢さん?」
「はい。あの、はじめまして」
挨拶はこれで合っているのだろうか。ええと、正式にはなんて言うんだっけ? 「お初にお目にかかりまする~」とか? 「お会いできて望外の幸せ~」とか?
もうなんだかよく分からない。どうしたらいいのこれ。
セレステのほうは居心地の悪さを感じていたのだが、相手は妙に楽しそうだった。社交自体が好きなのかもしれない。
そりゃまぁ、地位もあり、金もあり、それにこの古典的な二枚目タイプの顔面をお持ちなら、人生もさぞかし楽しいことでしょうね……。
などとつらつら考えていたらば、
「こうして君と一緒にいると、なんだか罪深い気持ちになるな」
サイツ侯爵が突然訳の分からないことを言い出した。
「なぜですか?」
「だって君はまだ若いだろう? 僕とは親子ほども年齢が離れていそうだ」
そんな馬鹿なと、セレステは思わず笑みを浮かべていた。
「私は二十歳です、閣下。親子ほども離れているだなんて、そんなことはありえませんよ」
「ふーん……僕はいくつに見える?」
「ええと、三十歳くらいですか?」
こういう場合、若く言うのが礼儀なのだろうか? もしくは男性の場合、実年齢よりも上に見られたほうが嬉しいの? セレステにはその辺の社交上のルールがよく分からない。そのため見たまま、感じたままを伝えた。
「三十三歳だ」
「あら」
「惜しいね」
サイツ侯爵がリラックスして話すので、なんだかセレステもそれにつられて気が緩んだ。
誤差三歳かぁ……確かに惜しい。愉快な気持ちになり、へへ、と気が抜けたように笑う。
セレステは緊張しやすく人見知りなくせに、『この人は怒らない』とみなすと、途端に図々しくなるという悪い癖があった。
しばらくのあいだなんだかんだと立ち話を続け、やがてサイツ侯爵が「もう行かなくては」と告げた。当然「ではここで解散」となるかと思いきや、サイツ侯爵が「森を抜けるまでご一緒したい」と言い出す。
道が狭いから、並走は無理じゃないかなぁ……とは思ったものの、格下のセレステがサイツ侯爵の提案に反対できるわけもない。了承し、馬に跨る。
「君が先を走ってくれ」
と言われ、さすがにそれはと思った。
「あの、ですが……私は馬の扱いに慣れていないので、遅いと思います」
「しかし僕が先だと、置いて行っちゃいそうだから」
なるほど。だけどそれならば、置いていってくれていいのだけれど……しかしそうも言えない。
侯爵が馬を巧みに操り、半馬身ほど後方に下がる。そうしながら彼が色気のある瞳でさっと馬の腰を眺めたのが、セレステにもなんとなく分かった。
「……素晴らしい」
彼が呟くように称賛の声を漏らしたので、嬉しくなったセレステは首を回して、淡く微笑んでみせた。思ったより侯爵は後方にいたので、目は合わなかったのだが、少し大きめの声で告げる。
「ボンディ侯爵夫人からいただいた馬なのです」
「そう……」
道幅が狭くなりつつある。セレステは馬の足を速めた。後ろからサイツ侯爵がピタリとついてくる気配がある。
馬を操るうちに、サイツ侯爵の名前を、以前ほかの誰かから聞いたことがあったのを思い出した。先ほど対面で話していた時は、いっぱいいっぱいになっていて、思考が停止していたのだろう……こうして馬上に上がったことで、やっと頭が回り出したようだ。
* * *
ロバート・B・サイツ侯爵の名前を聞いたのは、先日、ボンディ侯爵夫人と馬車で出かけた時のことである。
婚約者に決まったエリシャ・アディンセル伯爵を盗み見るため、公園に行った帰り道、その名前が挙がった。
ボンディ侯爵夫人はこんなことを言っていた。
「『当(ボンディ)侯爵家』と、『ペッティンゲル侯爵家』、それから『サイツ侯爵家』の三名家は、昔から微妙な関係性にあります」
「仲が悪いのですか?」
馬車の揺れに気を取られつつ、そう質問したのを覚えている。
三すくみ――三方睨み合い状態なのかと思ったら、もっと複雑な関係らしく。
「説明するのが難しいのだけれど、元々『ペッティンゲル侯爵家』と『サイツ侯爵家』が対立していたの。それで当家は、中立。長いことこんな調子で、まぁそれなりに力関係のバランスは取れていたのかしらね」
「ペッティンゲル侯爵はどんな方ですか?」
「ひとことで表すなら、俗物」
夫人が不快げに眉を顰める。
「では、サイツ侯爵は?」
「社交界では人気者ですわね。三十代の男盛りで、ハンサムで、妻子なし。以前は結婚されていたのですけれど、七年前に奥様を事故で亡くされているのよ」
「お気の毒に」
「でもね、誰かの不幸は、誰かにとっては好機となる。サイツ侯爵の後妻になろうとする女性は、あとを絶たないみたいですよ。まぁあの方を見れば、女性がポーっとなるのも分かります。甥っ子のエリシャも顔は綺麗ですけれどね――サイツ侯爵のような大人の色気はありません」
とはいえセレステが見たところ、エリシャは大天使様のような造形の美しさに加えて、優美さも兼ね備えていたから、たとえアダルトな色気がなかったとしても、きっととてつもなくモテるに違いない。
そんなエリシャと比べても遜色ないくらいの男ぶりなら、サイツ侯爵もよほどのものなのだろう。
ボンディ侯爵夫人がため息を吐き、続ける。
「……数年前、当家はペッティンゲル侯爵に出し抜かれているのです」
ペッティンゲル侯爵――サイツ侯爵の天敵であるそうだが、ボンディ侯爵夫人とも揉めた過去があるのか。
「何があったのですか?」
「エリシャの兄の婚約で、ちょっと」
確かエリシャは一年前、父と兄を流行り病で亡くしている。その兄には婚約者がいたと聞いている。
夫人が馬車の外を眺めながら続けた。
「エリシャの兄アンソニーは、クローデット・マーチ子爵令嬢と、ある夜会で出会い、恋に落ちた。ふたりはその後すぐに婚約したの。お相手のマーチ子爵家は、ペッティンゲル侯爵の派閥に名を連ねていたので、これはあまり良い縁組ではなかった」
ボンディ侯爵夫人とアディンセル伯爵家は親戚関係にあるので、確かにそれは複雑だっただろう。
しかし恋愛の末の婚約だったら、もう致し方ないような気もするのだが、そんな考え方は少々お気楽だろうか。
ボンディ侯爵夫人が物思う様子で視線を彷徨わせる。
「その頃当家は色々立て込んでいましてね……数カ月外国に行っていたのです。やっと戻れた時には、ドサクサ紛れのように、アンソニーとクローデットの婚約はまとまってしまっていた。わたくしとしては騙し討ちされたような心地でした。アンソニーのことは幼い頃から可愛がっていたつもりだったから、余計にね」
「でも破談にはしなかったのですね」
「正式な形でまとまった話でしたので、もうどうにもならなかったのよ。アンソニーもこの件では少々意固地になっていましてね。エリシャはエリシャで兄に懐いていましたから、完全にあちらの味方で――気難しいあの子が、アンソニーの婚約者にだけは親切にしていたわね。女性に対して好意的に接するのは、エリシャにはかなり珍しいことでした」
珍しい? エリシャ・アディンセル伯爵は女性に対して、距離を置くタイプなのだろうか? セレステはその部分が引っかかった。今のニュアンスだと、女性嫌いのような印象を受ける。
しかしセレステはこの場でそれを追求するのはやめておいた。いずれ分かることだろうし。
「アンソニーさんが亡くなったのは残念ですけれど、結果的には子爵家との縁組は、それで潰れたのですね。ペッティンゲル侯爵はがっかりしたのでしょうか」
「かなりお怒りだったみたいですよ」
ボンディ侯爵夫人の薄い唇に、皮肉な笑みが浮かぶ。
「計算高いペッティンゲル侯爵は、アディンセル伯爵家との縁談を足がかりにして、こちらを揺さぶるべく黒い計画を立てていたみたい。それが全部パァになったわけですもの」
「でも、怒ったってどうしようもないわ」
「ところがペッティンゲル侯爵は今になって、婚約者をスライドさせようと考えているようですよ」
「スライド?」
「クローデット・マーチ子爵令嬢を、今度はエリシャの婚約者に据えようというわけです」
おっと、生々しい話になってきた……セレステは冷や汗をかいた。
百歩譲って、アンソニーとクローデットの婚約が、政略的な縁組だったならまだいいと思う。兄が亡くなったから、弟と、ということでも。
しかしふたりは恋愛関係にあったという。
それなのに喪が明けてすぐに、傷心の令嬢を弟と婚約させてしまえって、いくらなんでも乱暴すぎるのではないだろうか……クローデットの気持ちを踏みにじりすぎだし、エリシャだって相当複雑なのでは?
彼は兄が好きだったというのだから、兄が愛した女性と自分が添い遂げるというのは、罪の意識にさいなまれると思う。
ボンディ侯爵夫人が骨ばった指で、膝の上の扇を握り締めた。
「ですけどわたくし、そんな勝手は許しません。ペッティンゲル侯爵の思うとおりにさせてたまるものですか。不幸になると分かっているのに、マーチ子爵令嬢とは結婚させない」
ボンディ侯爵夫人の灰色の瞳が、セレステに据えられる。
「エリシャと結婚するのは、あなたです――セレステ」
セレステは返事をしようとしたけれど、声が出てこなかった。ボンディ侯爵夫人の意気込みに気圧され、小さく頷いてみせるのがやっとだった。
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