第4話 グレッグ
セレステ・ホプキンスの家はとても貧乏である。
昔、羽振りの良い時期があって、その後何かしらの理由で急降下したとかいうこともなく、彼女が幼い頃からずっと安定して(?)貧乏だった。
それについて「ご当主が代々お人好しな上に、お金に執着がないからでしょう」というような、からかいなのかフォローなのかよく分からないことを言う人がいるのだが、セレステとしてはその見解には懐疑的だった。
……ただ単に、蓄財の才能がないだけではないかしら? 代々貧乏、というのがそれを証明しているような気がする。
ただしまぁ、「お人好し」と言われるだけのことはあって、セレステの父はおおらかな性格をしている。人畜無害すぎるせいか、とても影が薄い。
セレステの母は美しい女性だった。しかし体が弱く、長生きはできなかった。今から六年前、セレステが十四の年に亡くなっている。
当時、セレステには弟がいた。母が亡くなった時、弟のグレッグはまだ五歳。それからはずっとセレステが母代わりだった。
グレッグは母にとてもよく似ていた。繊細な面差しも、体の弱さも。弟は病弱で、臥せりがちだった。セレステが引きこもりになった要因はここにある。
ホプキンス家は貧乏で、使用人の数が極端に少ない。だから弟の看病はすべてセレステが行った。
とはいえさすがに夜会の時くらいは、誰かに頼むことだって可能だったのだ。しかしセレステ自身がそれをしたくなかった。弟がベッドで苦しんでいるのに、華やかな社交の場に出る気分にもなれなくて。
そして三年前、弟は八歳で天国に旅立ってしまった。それからセレステはずっと喪失感を抱えている。今でもふとした瞬間に考えてしまう。
――もっと何かできることはなかっただろうか。
――もっと良い薬を買うことができていたなら。
――あの子は姉の私が望むから、頑張って生きようとしてくれた。けれど『どうかもっと生きて』というこちらの願いが、かえってあの子を苦しめたのではないか?
最期はものすごくつらかったはずだ。そのことを考えるといつも悲しくなって、泣いてしまう。
母が亡くなった時は、セレステには『弟の面倒を見る』という重要な役割があった。だから悲しみに浸っている時間はなかった。
けれど弟の死はそれとは状況が違った。
グレッグは彼女のすべてだった。彼を失った時、身を引き裂かれるような苦しみを味わった。
玄関ホールに飾られた弟の肖像画を、セレステはぼんやりと見上げる――姉弟が並んで立っている、まだ幸せだった頃の絵。
立ち位置的に、セレステはいつも左側だった。それがなんだか互いにしっくりきたのだ。
セレステは隣にいる弟と手を繋いでいる。弟は繋がれたほうの手を、反対の手で包み込むようにして引っ張っている。
利き手で反対手の親指を引っ張るのはグレッグの癖だった。手持無沙汰な時や、なんとなく気まずい時にこれをやる。大人に叱られた時も、無意識によくしていたっけ。
セレステはふっと笑みをこぼし、左手の親指を反対の手で握ってみた。引っ張って、離す。
「グレッグ……」
寂しいよ、と心の中で呟く。視界が滲み、指でさっと目元を拭う。
――あなたのいない世界で、自分はまだこうして生きている。
それは不思議な感覚だった。
生きている――今日も。たぶん明日も。そして明後日も。
だけど心は寂しくてたまらない。
あなたの笑顔が見たい……あなたに会いたい。
……たまらなくあなたに会いたい。
* * *
先日宣言したとおり、セレステはすぐに乗馬を習い始めた。
馬はボンディ侯爵夫人からいただいた。貧乏なセレステはこの厚意をとてもありがたく思った。
そして馬の譲り受けついでに、侯爵家の厩舎番が馬の乗り方や扱い方を教えてくれた。気性の優しい馬だったので扱いやすく、素人のセレステでもすぐに乗りこなせるようになった。それに彼女自身、運動神経はそう悪いほうでもなかったのだ。
……とこのように順調な滑り出しに思えたのだが、困ったのが『乗馬服をどうするか』という問題だった。
女性が乗馬をする場合、独特な形状のズボンを穿(は)くのが一般的である。太腿辺りは空気を含ませたみたいにふんわりしていて、足首あたりできゅっと絞られて細くなるデザインの乗馬服。それに合わせる形で、膝丈まであるドレス状の乗馬コートも揃えなくてはならない。
これらはたいした代物にも思えないのに、値段ばかり張る。ホプキンス家は貧乏なので、新調するような余分な金はない。
ドレスのまま横座りするというのもひとつの手なのだが、初心者のセレステからすると、その乗り方は大層おそろしく感じられた。
曲芸師でもないのに、横向きのあんな不安定な姿勢で、どうやって馬を乗りこなせるというのだろう? どう考えたって、馬の背をまたぎ、体を正面に向けて座ったほうが安定するに決まっている。
セレステはよく考えた末、庶民の男性が穿くズボンを購入することにした。
――彼女が求めたものは、羊毛織のズボンに、ベスト、麻のシャツ、ハンチング帽。
店は中流階級の人が利用するような、大衆的なテーラーを選んだ。
「私が着るんです」
それがどうしても言い出せなくて、『身内が着るので』というフリをする。試着はできないため、目算でサイズを選ぶ。
ええと……これが少し大きめかな……?
ぱっと見で、自分の横幅より若干大きいものを選んだ。ピッチリしているのも着た時に恥ずかしいだろうから、少し大きめがいいかと思ったのだ。本来の女性用乗馬服だって、作りはずいぶんもっさりしているし、淑女たるものボディラインをあまり強調するのもよろしくないだろう。
……ところが。
これで完璧だと自邸に持ち帰って実際に着てみたら、予想外のことが起こり、驚愕。
セレステのミスは、体の『厚み』を考慮しなかったことだ。
自身が鏡に映った時の横幅で目算したので、大きめを選んだつもりでも、全然そんなことはなかった。ぶかぶかに着こなすはずが、あつらえたように体にぴったりだし、胸と尻のラインがくっきりと出てしまっている。
セレステは腕や腰回りは細いのだが、胸や尻は意外とむっちりしている。
困った、計算外……どうしよう? サイズ選びに失敗した……。
しかし今さら気づいたところで遅すぎる。購入してしまったのだし、もうどうしようもない。
セレステがお金持ちだったなら、『思っていたのと違う』というだけで、服一式をそのまま暖炉に放り込んでいたかもしれない。けれど当家にそんな余裕があるはずもなく……。
かなり長い時間――そりゃもう芋が茹で上がるくらいの長い時間、床にしゃがみ込んで悩み抜いたセレステ。
やがてゆっくりと顔を上げ、開き直る。
……これで行こう。
もうね、あれです――さーっと出かけて、さーっと帰ってくればいい。馬に乗っているから、誰かとすれ違ったとしても一瞬のことだろうし。
大丈夫、きっと大丈夫よ……それに見慣れてしまえば、そんなに変じゃないかもよ? 固定観念を取り払ってもう一度鏡を見てみたら、可愛いような気もしてくるじゃない?
そう――生地やチェック柄自体は気に入っているのだ。他人の目さえ気にしなければ、なんならドレスよりも好きなくらい。
「よし……知人に会ったら、顔を隠してとにかく逃げよう」
手のひらを顔の前で広げて全速力で逃げ出せば、きっとなんとかなるはず。考えてみたら、セレステには知人もさしていないのだし。
大丈夫。いける。セレステは自身に強い暗示をかけた――大丈夫、大丈夫、そんなにひどくないわ。
彼女はハンチング帽をぐいと深くかぶり、思い切って外に出た。
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