第3話 エリシャ・アディンセル
――アディンセル伯爵邸。
「エリシャ、あなたの結婚相手をわたくしが決めてあげましたよ」
ボンディ侯爵夫人からそう告げられたエリシャ・アディンセル伯爵は、思わず眉を顰めていた。
「……伯母上、私はまだ身を固めるつもりはないのですが」
「そんなことは聞いておりません。あなたの予定に合わせていたら、半世紀たっても『結婚』の『け』の字も出てこないでしょうからね」
「ですが喪が明けたばかりですよ」
エリシャは一年ほど前に、父と兄を流行り病で亡くしている。それにより兄が継ぐはずであった伯爵位を、悲しみも癒えぬ間に慌ただしく引き継ぐこととなり、それからはろくでもない面倒事ばかりが増えていった。
エリシャは貴族社会というものに、ほとほとうんざりしていた。
「ああもう、おやめなさいな」
ボンディ侯爵夫人は甥っ子の心情に寄り添うどころか、真逆の反応を見せた。羽虫でも払うように右手を動かし、げんなりした声を上げる。
「あなたが結婚しない言い訳を聞くのは、わたくし、もううんざりなの!」
いつになく強硬な態度だな……エリシャは考えを巡らせる。今回の縁談は訳ありで、どうしても断れない相手からもたらされたものなのか?
ところがエリシャには、目の前のボンディ侯爵夫人を思いのままに操れるような人間に心当たりがない。
伯母はとてつもなく誇り高い女性である。誰かに頭を押さえつけられて、「言われたとおりにいたします」と大人しく従うようなタイプではないのだ。
そして彼女はその誇りを守るための権力も有している。だからこそ今回の不可解な縁談は、エリシャに強い警戒心を抱かせた。
「相手は誰ですか?」
「セレステ・ホプキンス伯爵令嬢よ。歳は二十」
ホプキンス伯爵家……家名を聞いてもピンとこない。
エリシャは元々家を継ぐ予定もなかったし、本人も上流社会での駆け引きになんの魅力も感じていないタイプであったから、この世界の人間関係を把握できていなかった。それに当主となってからまだ日も浅い。
「伯母上が無下にできない相手なのですか?」
この問いかけはボンディ侯爵夫人の不意を突いたようだ。彼女の怜悧な瞳が微かに揺れ、魂が抜けたかのように肩から力が抜け落ちる。
「そう……そうね。そうかもしれない」
セレステの母親は、妹の友人にあたる。そしてボンディ侯爵夫人自身も妹という存在を抜きにして、若い頃はセレステの母親と交流を持っていた。端的にいえば、互いに気が合ったのだ。
つまりセレステ・ホプキンスという娘はボンディ侯爵夫人にとって、『昔から知っている可愛い姪っ子』のような、そんな近しい存在なのである。
「確認ですが、そちらのご令嬢は、私のことを知っているのですか?」
「ええ……まぁ、そうね」
「そして気に入っている?」
「ええ、そう――そうですとも! この上なく、とても! そのご令嬢は、この縁談にかなり乗り気よ」
夫人は頷きながら、自棄(やけ)気味に言い切った。ここで強めに押しておかないと、この気難しい甥っ子は縁談を断るだろうと考えたためだ。
本当のことは絶対に言えやしない――お相手のお嬢さんは先日まであなたのことなどまるで知りもしなかったし、こちらから話を持ちかけても最初はまったく乗り気じゃなかったの――そんなことをうっかり口にしようものなら、「では互いのため、この話はなかったことにしましょう」などと言い出しかねない。
今回の縁談はもうある程度話が進んでおり、今さらどうあっても断りようがないのだと、エリシャに分からせる必要があった。
とにかく今回ばかりは彼の我儘を聞いてあげられない。今や自分の采配に、この縁談の成否が――もっといえばエリシャの人生かかっているのだ。
おそらくだが、彼にとってこれ以上の縁談は望めない――長年貴族社会で生き抜いてきたボンディ侯爵夫人の勘が、そう告げている。
エリシャは賢い人間だから、自力で家を守っていくことは可能だろう。だから縁談相手の家名や財力により、引き上げてもらう必要はない。
現状、彼に足りていないのは、もっと別のものだ。
それは人としての思い遣りだとか、愛情だとか、そういったたぐいのもの――エリシャはそれをセレステから学べるはず。
「そのご令嬢は、あなたの『顔』が好きみたいよ」
ボンディ侯爵夫人は『本当にあなた、顔が良くて得したわね』と考えながら、悪気なくそうつけ加えた。夫人としては、甥っ子の難しい性分がバレる前に、早くセレステと籍を入れてほしかった。
「伯母上――私は今回の縁談、どうしても断りたい」
一方のエリシャは感情的になりかけていた。彼のブルーアイがぐっと深みを増し、顔立ちの神々しさが際立つ。彼は真顔になればなるほど美しく、無機質さが増し、とっつきにくくなる性分だった。
しかしボンディ侯爵夫人はそれくらいで気圧されてしまうような性格をしていない。反抗されれば、相手にはその倍の圧力をかけるだけ。
夫人は顎を上げ、高慢に言い放つ。
「今回の縁談ばかりは、絶対に断れませんよ」
「伯母上は間違った決断を下そうとしている」
「いいえ、あなたこそ何も分かっていない。正しいバランス感覚を持ちなさい、エリシャ」
――くそくらえだ、とエリシャは思った。
彼はこの見た目のせいで、女性に一目惚れされることが非常に多かった。皆が皆、勝手な思い込みで、エリシャを運命の相手だと思い込む。
元々そういった傾向が強かったのだが、一年前に伯爵位を継いでからは、さらにそれに拍車がかかったように思われる。
女たちは目の前の美しい青年を手に入れようと、目の色を変えて迫って来た。そのさまは、さかりのついた猫を連想させた。鋭いかぎ爪を振るい、敵を牽制し、感情的な声で喚き、本能のまま飛びかかる――まさに悪夢そのもの。
今回の縁談相手であるセレステは、例に漏れず、エリシャの外見に惚れたあげく、あらゆるコネを使ってこの話をまとめ上げたのだろう。おそろしい手腕だとエリシャは寒気を覚えた。とんでもない女狐だ。
セレステの実家は伯爵家であるそうだから、伯母上よりも家柄は劣る。年齢だって伯母上の半分にも満たない――それでいてセレステ・ホプキンスは、侯爵家の女主人を意のままに操ったのだ。
一体どんな人生を送ってきたら、そんなふうに小狡くなれるのだろう?
騎士道に生き、駆け引きを嫌う自分には、想像も及ばぬような存在――下劣極まりない、手練手管(てれんてくだ)を弄する娘。
そして喪が明けてすぐというこのタイミングで、計ったかのように縁談をまとめ上げた節操のなさにも、エリシャは嫌悪を覚えていた。
どの貴族令嬢も『喪中に話を持ち込むのは品がない』と、(あれでも一応)足並み揃えて我慢をしていたようである。この一年、令嬢からの露骨なアプローチはあったにせよ、正式なルートを通して、具体的に話を進めようとする者はいなかった。
身内の死というだけでなく、伯爵位を有する当主が亡くなったことで、自粛度合いは通常よりも強めだったように思う。
ではいつゴーサインが出るのか?
おそらくあと数カ月もしたら、狩猟期間に入ったかのように、一斉に縁談が舞い込み始めたことだろう。ひとりだけ抜け駆けするのはなんとなく体裁が悪いという、最低限のマナーがそこにはあったはず。
しかしセレステはその裏をかき、大半の貴族が『喪中ではさすがに……』と遠慮していたところを、抜け駆けしたようである。品性を投げ打って、周囲を出し抜いたわけだ。
「あなたには想像もつかない駆け引きが、裏には存在するのです。今回の縁談はどうあっても潰せない」
ボンディ侯爵夫人はほとんど上の空で呟きを漏らした。
エリシャは知らないのだ……ボンディ侯爵夫人は眉根を寄せる。彼は貴族社会の込み入ったパワー・ゲームに巻き込まれつつある。
本来アディンセル伯爵家はエリシャの兄が継ぐはずであった。兄アンソニーには婚約者もいた。
それがアンソニーの死で白紙に戻った。
貴族社会というものは予定調和が狂うのを何より嫌う。アンソニーと結婚するはずだった相手の家や、さらにその上位に位置する名家など、魑魅魍魎どもが動き始めている。
エリシャを守るためには、こちらの権力をフルに利用して、スピード重視で縁談をまとめるしか方法がない。『身内に当たる由緒正しいボンディ侯爵家がまとめた縁談ならば』と一応の体裁は保てるから、あからさまに妨害はされないはずだ。
しかしタイミングは『今』しかない。
グズグズしていては相手に先を越される。そうなってからでは、当家の権力を持ってしても、横槍を入れるのは難しくなってくる。
それにやはりセレステ・ホプキンスという娘は、単純にエリシャに合うような気がする。エリシャのかたくなで難しい部分を、彼女が中和してくれるのではないかしら……ボンディ侯爵夫人にはそんな予感があった。
セレステは素直な性格だし、見た目だって可愛いところがある。男性を痺れさせるような圧倒的な美しさはないとしても、ふとした折に相手をドキリとさせられる、不思議な魅力のある娘だ。
「セレステ嬢はどんな方ですか」
冷めきったエリシャの声音にやれやれと呆れつつも、ボンディ侯爵夫人はここである重要な任務を思い出した。
ああ……そういえば「これだけは間違いなくお伝えください」と、セレステ本人から強く頼まれていたことがあったわね。
「見た目はかなりその……残念な部類ね」
喉が引きつり、声が掠れる。ボンディ侯爵夫人は慌てて咳払いし、お茶を喉に流し込んだ。
……まったくどうしてわたくしが、こんなふうに気を遣わねばならないのかしら? ボンディ侯爵夫人は内心この約束を面倒に感じていた。しかし、縁談を強引にまとめた手前、セレステからの要望も無視できない。
彼女曰く、「可愛らしいとか気休めをお伝えになるのは、どうかおやめになってください。それで変に期待されて、会ってがっかりされても困りますもの。あらかじめひどめに言っておいてくだされば、アディンセル伯爵も、婚約者の外見については諦めがつくと思うのです」とのことである。
馬鹿らしい、とボンディ侯爵夫人は思う。地味だけど、可愛らしい――そう言っておけばいいじゃないの。それこそが真実だ。
顔の美醜など結局は個人の好みだし、正しい判断基準などどこにもない。
たとえ絶世の美女であったとしても、「評判ほど素敵じゃなかった」と言われてしまうことはある。
もっと童顔ならよかっただとか、柔和な顔立ちならよかっただとか、ふっくらした女性が好きであるとか、相手次第では外見にノーを突きつけられるケースはいくらでもあるのだ。
だから謙遜などやめるべきだ。そんなものは時間の無駄でしかないのだから。
「――本人は見た目が残念であるのに、結婚相手である私のことは、見た目だけで選ぶのですね」
エリシャのこの切り返しは見事なものだった。ボンディ侯爵夫人は、『上手いこと言うわね』と心から感心した。
それで少々呆けた口調で、こう返すのがやっとだった。
「そうは言いますけれどね――人間は業(ごう)が深い生きものですから、ないものねだりをするのですよ。わたくしだって、そうだもの」
伯母の答えは、エリシャをひどくがっかりさせた。彼は空色の瞳を伏せ、ゆっくりと考えを巡らせる。
他者の見た目に執着し、本人の性根はねじ曲がっている……そんな令嬢とこの先どうやって共に生きていけばよいのか。
自分はきっと、セレステという女を生涯愛することはないだろう――エリシャはそう思った。
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