第2話 初恋
持ち込まれた縁談をセレステが強く断らなかったため、通常ならば次は両者顔合わせということになる。
ところがいきなり縁談相手と顔合わせするのは、引きこもりの彼女には難易度が高すぎた。
そこで「お相手がどんな方かこっそり見ることは可能でしょうか」とボンディ侯爵夫人に尋ねてみたところ、「構いませんよ」との返答が。
という訳でセレステは今、ボンディ侯爵夫人と馬車に乗っている。
「甥のエリシャを騙して、公園に呼び出しておきましたからね」
ボンディ侯爵夫人の説明を聞きながら、セレステは太腿の上に置いたオペラグラスをギュッと握り締めた。
なんだか緊張してきたわ……ただ遠くから眺めるだけなのに。
しかしよくよく考えてみると、他人を騙してある地点に呼び出し、気づかれないようにこっそり覗き見しようというのだから、なかなかに下衆(げす)なやり口である。
それでも背に腹は代えられない。セレステは良心には目を瞑ることにして、覗き行為をしっかりまっとうしようと心に誓った。
「停めてちょうだい」
ボンディ侯爵夫人が御者に声をかけ、馬車を停車させる。セレステは少し前かがみになり窓に顔を寄せ、外の景色を眺めた。
生い茂った常緑樹の向こうに公園内の小道があり、緩やかにカーブを描いている。表門に近い散歩用小道と違い、こちらの裏門側にあるのは乗馬用のルートらしく、より自然に近い造りになっているようだ。木々が邪魔をして見通しはあまり良くない。
「――あとほんの少しだけ進める?」
夫人の指示で馬車が位置を変えると、視界を遮っていたカシの木が横にずれて、乗馬道のそばに佇むふたりの男性が見えた。
かなり遠いので、肉眼では服の色と髪の色くらいしか判別できない。ふたりとも暗色の騎士服姿で、ひとりは金色の髪、もうひとりは焦げ茶の髪をしている。
かたわらの木の幹には彼らの馬が繋いであり、ふたりは向かい合って何やら話し込んでいるようだ。
ボンディ侯爵夫人は瞳を細めてそちらを窺ったあと、セレステの手からオペラグラスをさっと奪い取り、小皺が刻まれた目元に当てて覗き込んだ。
「そうそう、あれよ――金色の髪のほう――見てごらんなさい」
オペラグラスを返され、セレステはドキドキしながら受け取り、それを自分の目に当ててみた。
そして一拍後――彼女は頭の中で、祝福の鐘の音を聞いた気がした。
「どう? ものすごくハンサムでしょう」
あの造形をハンサムのひとことで片づけていいのか……という驚天動地のレベルである。セレステはあんなに綺麗な人を見たことがなかった。
艶やかな金の髪に、青空のように澄んだ瞳。目鼻立ちは完璧に整っていて、繊細。
友人と笑い合っているその表情はリラックスしているけれど、それでも消しようもない優美さ、品の良さがある。
騎士というからには鍛えているに違いないが、見た感じでは、厚みや威圧感は感じられなかった。とはいえ体幹がしっかりしているようで、普通に佇んでいても、一本真っ直ぐに線が通ったような、凛とした雰囲気が彼にはあった。
「……ねぇあなた、どうかしたの?」
セレステがオペラグラスを覗き込んだまま動かないなので、対面にいたボンディ侯爵夫人が訝しげな声で問いかけてきた。
それでやっとセレステは我に返ることができた。オペラグラスを下ろし、小さく息を吐く。
「まるで大天使様のようです」
そう呟いたセレステの声は微かに震えている。頬も赤い。
彼女の内面世界では、自分の体がフワフワと宙に浮いている状態だった。
「そ、そう? ……まぁ確かに、見た目だけはね」
ボンディ侯爵夫人の小さな呟きは、幸いなことに、恋に恋するセレステの耳には届かなかった。
「とても慈悲深くて、優しそうな方ですね……それに、か、格好良い」
語尾にハートマークがついているんじゃないかという勢いで、セレステは浮かれ倒していた。
いい年をしてみっともないと言われそうだが、無理もない。引きこもりに引きこもりを重ねて、狭い世界で育った結果、彼女は少々夢見がちな性格になっていたのだ。
その反面妙に理屈っぽいところもあるので、実際に体験するまでは、ああでもないこうでもないと理屈をこね回す。そのくせいざ渦中に放り込まれると頭に血が上って、元々の思慮深さがどこかへ消え失せてしまうのである。
セレステはうっとりした瞳をボンディ侯爵夫人のほうへ向けた。
「アディンセル伯爵のそばには、美しい栗毛の馬が繋いでありますね。もしかして乗馬がご趣味なのでしょうか?」
ボンディ侯爵夫人は耳を疑った。
はあ……頭の良い子だと思っていたけれど、わたくしの勘違いだったのかしらね? この子はエリシャをひと目見ただけで、とんだお馬鹿に成り下がってしまったようだわ。だってまさかこんな馬鹿馬鹿しい質問を、恥ずかしげもなく繰り出してくるなんてね!
「乗馬が趣味というか、あの子は騎士ですからね。馬を乗りこなすのは、普通の方よりはずっと達者だと思いますよ」
「では私、乗馬を習います!」
え……ちょっとこの子、本格的に大丈夫かしら? ボンディ侯爵夫人の顔が引きつる。
「あー……それはなぜ?」
「少しでもアディンセル伯爵と仲良くなりたいからです」
乗馬を習うのと、婚約者と仲良くなるのが、どうしてもイコールで繋がらないボンディ侯爵夫人は、早々に匙(さじ)を投げることにした。
「……ま、いいでしょう。顔を気に入ったのなら、何より」
「そうですか?」
「その調子で頑張って。道のりは険しいわよ」
「はい、頑張ります」
セレステは夢見心地のまま頷いてみせた――両手を胸の前で組み合わせ、『彼のためなら艱難辛苦(かんなんしんく)、どんなことでも耐えられるわ』と考えながら。そして『努力を重ねて、彼と共にきっと幸せになる』のだと。
しかし彼女の考えは大きく間違っている。
対人関係は、相手があってこそ――自分が良くても、相手は良くないというケースが往々にしてあるからだ。こちらがひたむきに想いを寄せても、相手はそれを迷惑に思うかも。
セレステはすぐに現実のほろ苦さを味わうことになる。
なぜなら彼女は婚約者に嫌われてしまうからだ。
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