最終章-11 西の国の王子
ヴァネル邸で開かれた絢爛豪華な夜会は佳境に入ろうとしていた。
大広間の窓は大きく開け放たれ、会場の煌びやかな灯りが、庭園の景色を浮かび上がらせている。彫刻家が納品したばかりの美しい淑女像も、夜会の大人びた雰囲気に良く合っていた。――どうでもいいことだが、イヴは美しい淑女像を眺め、伯母さまがくれた『女神像』もあのくらい優美だったなら、きっともっと大切にできただろうに、と考えていた。
とはいえイヴは夜会の主催者側なので、呑気にそんなことばかりを考えていたわけではない。
会はつつがなく進行しているように見えるが、想定外の出来事も幾つか起こっていた。――実は、ヴァネル伯爵夫妻(イヴの父母)が、伯母さまの夫である公爵閣下から急用で呼び出されるというハプニングがあり、今夜の会を取り仕切るため、伯母さまが名乗りを上げたのである。
――ジャンが暴走しなければいいけれど。イヴはさりげなく会場に視線を走らせた。彼は伯母さまに対し、被害妄想を抱いていたようだから、何か騒ぎを起こすのではないかと心配だった。
大広間の奥、東側の壁際にいるジャンを発見した。どういう訳か彼はアルベールに詰め寄っている。腕を掴んで、何やら必死に訴えているようだ。……どうしたのかしら? 面倒事の気配に、イヴは眉根を寄せてしまった。
「――お久しぶりです、ヴァネル嬢」
振り返ると、声をかけてきたのはVIPだった。プラチナブロンドの艶やかな長い髪を一つに束ねた、西の国のアルヴァ王子殿下、その人である。彼の容貌はいっそ女性的といってよいほど線が細い。
イヴは淑女の笑みを浮かべた。
「アルヴァ殿下。今宵は道に迷うこともなかったですか?」
悪戯めかしてそう尋ねると、アルヴァ殿下は苦笑いを浮かべる。
「今夜は嵐が来ていませんからね」
数か月前、嵐の晩に、彼は『西の国の商人』という肩書を名乗って、ヴァネル邸に転がり込んで来た。それがまさか王子殿下だったなんてね。
しかし西の国の王族が、わざわざヴァネル邸の夜会にやって来たのは、一体どういうことなのだろう。やはりエメラルドの首飾りが関係しているのか。
アルヴァ殿下はあれをアルベールに褒章として与えておきながら、後日、盗難されたと騒いで、ベイツ卿を糾弾しているらしい。何がどうなっているのか、イヴには見当もつかない。
「ヴァネル嬢、あなたにお詫びしなければなりません。――この夜会で闇オークションが開かれるという、おかしな噂が広まっているのはご存知ですね?」
殿下の問いに対し、イヴは端的に「ええ」と頷いてみせた。
「あの噂ですが、流したのは私です」
「なんですって?」
イヴは仰天してしまった。
「あちらを見てください」
殿下が小声で促すので、彼の視線を辿ると、その先には公爵夫人たる伯母さまと、ベイツ夫妻、西の国の貴族たち数組が固まって、何やら親密そうに話し込んでいた。
あの場にいるのはエメラルドの首飾り盗難事件で(エメラルドが当家にあるのだから、架空の盗難事件ということになるのだが)、アルヴァ殿下が犯人扱いしている、四名家の貴族たちだった。
「――ランクレ家の醜聞は、あなたもご存じですね?」
知っているも何も。親世代の醜聞が、今も自分たちに暗い影を落としている。貴族社会に激震を走らせた巨額詐欺事件は、アルベールの父であるランクレ子爵の死をもって、一応の決着をみせた。
「ランクレ子爵の死で事件は幕を閉じた形になっていますが、あの詐欺事件には、いまだに解明されていない謎が残っているのです」
「謎、ですか?」
「子爵の後ろに、黒幕がいたという噂がある」
イヴは呆気に取られて、アルヴァ殿下の顔を見つめた。
「結局、主犯には逃げられてしまったというのが、司法関係者の見解ですよ」
西の国の王子が、当国の事情をよく把握しているものだ。――例の詐欺事件は、被害者も加害者も当国の人間であり、内輪で完結している。他国の王子が色々込み入った事情をご存知だというのは、少し不自然ではないだろうか。
それに彼はまだ年若いので、事件当時はまだ成人前だったはず。それなのに、なぜ?
混乱するイヴを眺め、アルヴァ殿下は困ったような笑みを浮かべた。
「悪しき根は、貴族社会にまだ残っている。――私はとある事情から、その黒幕を一か月以内に挙げなければならなくて」
「なぜですか? 西の国とは関係がないのでは?」
「そこはね、込み入った事情があるのですよ」
訳が分からない。
「ランクレ君にはその件で、協力をお願いしています」
「どうしてアルベールなんですか」
「これは彼自身の問題でもあるからです。――ランクレ家から端を発した事件だ。彼が幕引きを行うべきだと、私は考えています」
そうだとしても、エメラルドの首飾りを一旦褒美としてアルベールに与えておきながら、盗難されたと騒いだりして、どうにもアルヴァ殿下のしていることは、一貫性を欠いているように思われる。
「なぜエメラルドの首飾りが盗難されたことになっているのです?」
「私は今、ありとあらゆる角度から、犯人にプレッシャーをかけているのです。その一環だと考えてください。今夜、きっと動きがあります」
「それは一体――」
***
会場の一角で悲鳴が上がった。
――視線を巡らせてみれば、声を上げているのはカルネ婦人であった。詳細は分からないが、『夫の形見である懐中時計がなくなった』と騒いでいるようだ。
主催者側の人間として、イヴはこの事態を放ってはおけないので、話していたアルヴァ殿下に断りを入れて、そちらに歩み寄ろうとした。しかしその時、ジャンとベイツ卿が素早くアルベールに近寄り、彼を拘束するのが遠目で確認できた。
ベイツ卿がアルベールのテイルコートのポケットに手を入れると、そこからアンティークの懐中時計が発見される。
奥で繰り広げられているこれらの一幕は、声がよく聞こえないことや、遠方で姿が小さく見えることから、奇妙に現実感を欠いていた。イヴはアルベールがそんなことをするはずがないと分かっているので、余計に作りごとめいて感じられたのかもしれない。
――ただ問題なのは、あれがアルベール主導の寸劇なのか、それとも彼を嵌めようとしている人間が仕組んだものなのか、よく分からない点であった。
アルベールを敵視しているジャンが拘束する側に回っている――それは嫌な要素だった。それにカルネ婦人は潔癖な人であるから、よほど親しい人に頼まれなければ、あんな芝居を引き受けないのではないか。だとするとカルネ婦人は、本当に時計を盗まれたと思っている?
イヴははっとして振り返り、
「あれもあなたの仕込みですか?」
とアルヴァ殿下に尋ねた。
「いや、違う。想定外のことが起こっている」
殿下の言葉が深刻に響いたので、イヴは顔色を失った。――アルヴァ殿は本件に関係していない。では、何が起きているの?
――アルベールに詰め寄るジャンの姿を見て、閃くものがあった。
「ジャンだわ! 彼は今日、カルネ婦人をエスコートしていました」
カルネ婦人お気に入りの騎士が、『ジャン殿が、カルネ婦人のエスコートを代わってくださるそうです』と言っていた。
「エスコートしていたのだから、婦人の手荷物から懐中時計をすり取るなんて、簡単だったでしょう。盗んだそれを、今度はアルベールに詰め寄って、口論を仕かけるフリをして彼のポケットに入れた。――私、確かに、ジャンがアルベールにつきまとっている場面を見たんです」
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