最終章-10 クッキーの刑
ジャンは連日連夜、上司にいびられ続けて、神経が参っている様子だった。初めはあれでもまだ健全だった彼の佇まいが、段々とおかしくなり、歪みが大きくなっているのがイヴにも分かった。
彼の婚約話にも問題が出ていて、お相手の女性から『婚約を白紙に戻したい』という書面が届いたらしい。
――イヴを見つけたジャンが、足早に近寄って来た。血走らせた目を忙しなく動かしながら、彼が唐突に訳の分からないことを言い出す。
「――僕はよく考えてみたんだが、伯母上が怪しいということはないだろうか」
イヴはジャンに左腕を掴まれていることを不快に感じた。それに『伯母上が怪しい』って、何? 耳を疑ってしまう。
「なんですって?」
「まぁ、聞いてくれ。君が宝石店で暴漢に襲われたあの事件だが、カルネ婦人につき添って宝石を取りに行くよう指示したのは、伯母上だったよね? それにあの人は次々、君に変な縁談を押しつけてくるそうじゃないか。姪っ子が不幸になればいいといわんばかりのその所業――何か別の狙いがあるとしか思えないよ。もしかして君の財産を狙っているということはないのかな」
これは推理でもなんでもない、ただの馬鹿げた妄言である。大体、イヴの身になんらかの不幸が起きたとて、伯母さまにこちらの財産がいくことは万に一つもないだろう。イヴは苛々しながら、
「あなた、まともじゃないわ」
と告げて、ジャンの手を引っぺがした。
彼は寝不足で苛々しているせいで、正常な思考回路を失っているようだ。イヴがさらに言葉を続けようとしたところで、来客の報せが入った。――聞けば、例の騎士だという。
誰かと込み入った話を始めると、騎士がやって来るので、話の腰を折られてばかりのイヴは、苛々がピークに達していた。
***
まだ日も落ちておらず、夜会の開始時間にもなっていないから、本来ならば招待客が訪れてよい時間帯ではない。パーティの時、女性は支度に大変な時間がかかるものなのに、こうした早い時間に訪問するのはまったく礼を欠いた行為だと、イヴは内心憤慨していた。
髪型をどうするかまだ決めていないので、一分一秒が惜しいというのに。――というのも、髪結いのマリーが電撃的に結婚したばかりで、今は外国に行ってしまっていて、このところ髪型が決まらず、イヴはつらい思いをしていたのだ。代わりの者はいるにはいるのだけれど、マリーほど腕が良くない。
――ああ、もう、嫌だわ。髪をどうしよう? 騎士の相手をしている場合じゃないのに! カルネ婦人のお節介のせいで、騎士が来るとなぜか毎回、イヴが彼の相手をする破目になる。
イヴはソファの対面に座る騎士を眺め、ほとんど嫌味交じりに、ここにカルネ婦人がいない理由を尋ねてみた。
「――婦人と一緒にいらっしゃらないで、よろしいんですか?」
そもそも彼はカルネ婦人の馬車で乗りつけて来たはず。その際には、もちろん婦人も一緒にいたようなのだが、どこにいったの?
「カルネ婦人は別室にいます。あなたの伯母上と、何やら話し込んでいるようですよ」
「そうでしたか」
……忌々しい。
「今日は、カルネ婦人と俺は別行動なのです」
「え、どうしてですか? 夜会で婦人をエスコートなさらないの?」
「あなたの従兄のジャン殿が、カルネ婦人のエスコートを代わってくださるそうなのです。あなたの伯母さま――公爵夫人の計らいだとか。ですから俺は、今夜あなたをエスコートしたいと考えています」
――なんと余計なことを! イヴは歯噛みしたいような気持だった。そうまでして伯母さまとカルネ婦人は、イヴをこの騎士とくっつけたいのだろうか。老女たちの度を超して夢見がちなところは、なんとかならないものだろうか。他人の色恋でトキメキを得ようとするのは、金輪際やめて欲しいものである。
イヴは内心悪態をつきまくっていたのだが、表面上は激情を押し隠し、にっこりと美しい笑顔を浮かべてみせた。――実は彼女には、ここ最近の鬱憤を晴らすための、壮大な復讐計画があったのである。
イヴはソファの座面に置いてあったバスケットを取り上げ、テーブルの上に移した。赤いチェックのかけ布を外せば、下から見事な出来栄えの美味しそうなクッキーが出てくる。
「――これ、わたくしの手作りなんです」
そう言って、ワクワクした顔で騎士を見遣るイヴ。これはもう、釣り針にエサをつけ、水の中に垂らした状態だ。あとは獲物がそれに食いつくのを待つだけ。
騎士は『俺のために、わざわざ手作りの菓子を用意してくれたのか!』と感激し、カゴの中のクッキーを眺めおろした。
――さぁ、どうぞお召し上がりください! イヴがそう続けようとした時、アルベールが室内に入って来た。彼は足早にテーブルに近寄り、クッキーの入ったバスケットをさっと掬い、そのまま踵を返してしまう。
あと少しで復讐が完了するというところで、一体何が起こったのだろうか。
「え、あの、ちょっと待って」
一拍遅れて、なんとか静止の言葉を口にするのだが、彼は聞いてくれない。イヴは慌ててアルベールのあとを追った。
――騎士はといえば、愛する女性の手作りクッキーを、さぁ今からいただこうというところで、横から意地悪な従者にかっぱらわれてしまったので、すっかり混乱して固まってしまっていた。彼は運動神経には自信があるのだが、このように突発的な事態に対処するのが下手だった。
***
廊下でアルベールに追いついたイヴは、文句を言おうと口を開きかけたところで、逆に彼から、
「――これ、中に何が入っているんですか?」
と尋ねられてしまった。
ふと気づけば、厨房の入口付近まで移動している。ここで製造したクッキーが、ふたたびそのまま戻って来たわけだ。
イヴは尋ねられたことに、ケロリとした態度で答えた。
「激辛唐辛子」
アルベールは大抵のことで彼女に対して甘い態度を取っていたので、今回のことも別に怒られることはないだろうと、イヴは高を括っていた。――ところが、だ。アルベールの端正な顔がさっと曇り、『信じられない』というように彼が呟きを漏らした。
「なんということを。――彼は近い将来、伯爵位を継ぐ人間ですよ。そんな相手に毒を盛ってはいけません。お嬢様に変な噂が立ったら困ります」
「だけどだけど」
「だけどじゃありません」
アルベールはきっぱりそう言って、バスケットをさっとひっくり返すと、中に入っていたクッキーをゴミ箱に捨ててしまう。
「あー!」
これを見たイヴは思わず涙目になった。とんでもなく打ちひしがれた様子が憐れを誘うが、やっていることを考えると、同情の余地はないのである。――ヘビやカエルのゲテモノ類を拾ってきて、嫌いな相手のベッドに放そうとして、ナニーに拳骨を食らって半ベソになっている腕白盛りの五歳児と、やっていることは同じレベルなのだから。
「騎士の相手はもういいので、お嬢様は支度をなさってください」
アルベールは一方的にそう告げて、イヴを部屋まで送り届けようとしたのだが、彼は彼で忙しい身であるため、ほかの使用人に捕まってしまった。
一人になったイヴはキョロキョロと辺りを窺ってから、厨房の戸棚を開けて、中から新しいバスケットを取り出した。
「予備があるのよ!」
そうして小悪魔的な笑みを浮かべ、騎士の待つ部屋へと、飛ぶような足取りで戻ったのだった。
「――お待たせして申し訳ありません。意地悪な従者から、クッキーを取り返してきましたわ」
「意地悪なのに、彼を解雇しないのですか?」
「そんなことしません。実は彼、わたくしの従兄ですのよ。――さぁ、もう、あの人の話はいいでしょう? それよりもぜひクッキーを召し上がってくださいな」
――従兄なのに従者をしているとは、二人の関係性はなんだかいびつだな。騎士は思わず眉根を寄せていた。――もしかして彼は、イヴ嬢のストーカーなのだろうか?
これだけ美しい女性であるから、あの従兄とやらが一方的に熱を上げても不思議はない。男のほうだってずいぶん綺麗な顔をしているが、彼女のほうは鏡を見れば美しい顔を見ることができるのだから、男の見てくれに騙されることもないだろう。従兄について語る時、わざわざ『意地悪な』とつけ加えていたくらいだ。きっとあいつが大嫌いなのだ。
――美しく可憐なイヴが見守る中、騎士はクッキーを一つ口の中に放り込んだ。喜び勇んで噛んだそれは、一口目から想定外の苦痛を彼にもたらした。
ぎゃあ、なんだこれは! ――しかし天使な彼女がこちらを見ている! こんな状況で、口の中のものを吐き出せるわけもない。
死ぬことはなさそうだが、カライ。ただひたすらカライ。泣きそうなほどカライ。悪魔に舌をギュウギュウ引っ張られて、火で炙られているかと思うくらいカライ。
きっとあの悪魔な従兄が、こっそり中身を入れ替えてから、イヴに返したのだろう。それを彼女は喜び勇んで持ち帰って来た。――このことを指摘したなら、彼女は手作りのクッキーが駄目になったと、ものすごくがっかりするに違いなかった。
「さぁ、さぁ、もっとお召し上がりください」
騎士は頭を使うのは苦手だが、根性だけは人一倍あった。――可愛い彼女を悲しませたくない。ただその一心で、次々とクッキーを平らげていく。
――数分後。イヴが部屋を出て行ったあと、騎士はその場にばったりと倒れてしまった。
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