最終章-9 キャンディを君に
怒りっぽい隣国のベイツ卿が滞在していようとも、面倒な従兄が滞在していようとも、国宝級のエメラルドが行方不明になっていようとも、社交シーズンは待ったなしである。ヴァネル伯爵主催の夜会が、三日後に迫っていた。
――ところで、この夜会について、近頃おかしな噂が広まっているとのことだった。イヴはそれを親友であるミレーユ伯爵令嬢から聞かされた。その内容は、『ヴァネル伯爵邸で開かれる夜会で、エメラルドの首飾りが闇オークションにかけられる』という奇妙なものであった。
イヴはアルベールを引っ捕まえて、この件を問いただすことにした。アルベールはもちろんこの噂を知っているはずと思ったのに、ストレートにぶつけてみたら、彼は素で驚いた顔をしていた。
彼にしては珍しい落ち度である。そういえばこのところ妙に忙しそうだったので、噂を知らなかったのも、その辺に原因があるのだろうか。
「じゃあ、あなたが流した噂じゃないのね?」
イヴが確認すると、
「私は流していません」
アルベールがきっぱりと否定する。
やる気になれば、彼は上手に嘘がつける。けれどこれは本当に驚いているわね、とイヴは判断した。さすがにつき合いが長いので、その辺のところは見極められる。
視線を彷徨わせていた彼が、ふと何かを思いついた様子で眉を顰めた。
「……嵌(は)められたかもしれない」
そうして足早に歩き始めてしまうので、イヴは慌てて彼のあとを追った。
「ちょっと待って」
「すみません、お嬢様。出かけます」
「ねぇ、私も連れて行って」
イヴがアルベールの腕に手をかけた時、狙い澄ましたかのようなタイミングで、玄関のほうが騒がしくなった。どうやら来客らしい。
使用人が廊下にいるイヴに気づき、こちらに向かって来る。――聞けば、カルネ婦人と騎士がやって来たとのことである。
宝石店前で暴漢から守ってくれた、例の騎士。まったくおかしな偶然だが、彼がカルネ婦人の遠縁に当たると判明したため、その縁にイヴも巻き込まれることとなった。――正直、巻き込まれる筋合いもないのだが、なぜかあれからちょこちょこと二人がヴァネル邸を訪れるようになった。この展開がもう、イヴからすると面倒で仕方ない。
騎士のせいで『猿のミイラ』が壊れた。あの時の恨みがどうしても消えず、イヴは彼のことが嫌いだった。
私怨を抜きにして、公平な目で眺めてみれば、彼の見た目は整っているほうであるし、騎士服を身に纏っていることもプラスに働いて、女性にはさぞかし人気だろうと、それはイヴにだって分かるのだ。
しかしイヴにはアルベールという非凡な従者がいて、本物の美形というものを間近で何年も見続けているから、騎士程度のそこそこハンサムな男性を見ても、別にそれで評価が上がるということはないのだった。
それどころか、ちょっと良い容姿を鼻にかけて、なんだか有頂天でいるようなところだとか、落ち着きのないところだとか、女心が分かっていないようなガサツなところだとか、人の話を聞かないところだとか、イヴとしては鼻について仕方がない点が多々あった。
アルベールは顔がとびきり良くても、過去につらい経験をしているせいか、驕ったところがまったくない。――というか単に、本人が持ち合わせているセンスの問題なのかもしれなかった。アルベールは相手の呼吸を読むのが上手いというか、引くべきところではちゃんと引き、押すべきところでは、相手が押された事実に気づかないくらいに自然に押すので、彼と一緒にいて『スマートさを欠いている』と感じたことがなかった。
――現に今も、アルベールはイヴのあしらい方をよく心得ていた。
イヴは富豪のカルネ婦人と騎士がやって来たと聞かされ、『ああ、これでもうアルベールについて行けなくなったわ』と思う一方で、『来客に気づかなかったフリをして、アルベールについて行ってしまおうかしら』という誘惑のあいだで揺れていた。
アルベールはイヴの迷いを正確に理解していて、向き合って彼女を見おろし、口の端に悪戯な笑みを乗せた。
そうして彼はさっとイヴの耳元に手を伸ばした。なんてこともないような自然な動作で、そこからキャンディの包みを取り出す。子供だましな手品なのに、目が覚めるような鮮やかな手つきだった。
彼は笑み交じりに、優しいけれどなんとも逆らい難い調子で、こう続けた。
「――良い子にしていたら、お土産を買ってきます」
アルベールは器用にキャンディの包みをほどくと、中身をイヴの口の中に入れる。――キャンディの包みが擦れる乾いた音と、イヴの柔らかな赤い唇が飴に押されてフニャリと形を変えるさまと、アルベールの繊細な指の動きが合わさって、なんとも大人びた空気が流れたのだが、あまりにリズミカルにその時間が過ぎたので、イヴはまるでその意味に気がついていなかった。
甘いキャンディを口の中に入れられたイヴは、むぅっと子供のように膨れてしまった。――もう、子供じゃないのに!
***
――夜会当日の昼下がり。彫刻家はヘロヘロになりながら、ヴァネル伯爵邸を訪ねていた。受注されていた彫像を納品するためである。
彼が納めた美しい淑女の像――粉々に砕け散った『猿のミイラ』とはまったく別の代物である。こちらはアルベールが依頼したもので、薔薇園の入口に飾るためのものであった。台座も合わせると、男性の背丈を優に超える高さがあり、顔の繊細な細工や、身に纏っている長衣のドレープ部分もかなり凝っていた。
この一仕事だけでも大変なのに、このところ様々な依頼が重なっていたので、彫刻家は満身創痍のボロ雑巾状態であった。
最近顧客になったヴァネル邸の注文主は、美しい顔で、いつも無理な納期を提示してくる。――だったらキッパリ断ればいいような話なのだが、どういう訳かあの顔で頼まれると、断るという選択肢が、頭の中から綺麗さっぱり吹き飛んでしまうのだ。
とても重い像なので、配送は業者に依頼したのだが、彫刻家も納品に立ち会っていた。
そしてヴァネル邸からの帰り道は、貧乏芸術家ゆえ、馬車代をケチって歩いて帰ることにした。急ぎ仕事に焦って、石片を右足の甲に落として怪我を負っていたため、杖をついて足を引きずり、ヨロヨロと道の端を歩く。普段は見苦しくないよう纏めている長髪も、徹夜明けの今日は下ろしっぱなしの状態である。――その上、イヴお嬢様から依頼された『猿のミイラ』復元案件のせいで、髪が塗料まみれになっていた。破片をくっつけたあとの継ぎ目に、色を足して跡が目立たないようにする必要があったのだ。塗料がこびりついているせいで、なんだか老婆のような、色ムラのある髪に仕上がっていた。
俯きながら歩いていると、通りの向こうから四頭立ての立派な馬車がやって来て、その車輪が水溜りをバシャリと弾いた。これにより彫刻家は、泥水を頭からかぶる破目に陥った。彼は寝不足ということもあり、これに激しく腹を立てた。――振り返って去り行く馬車をキッと睨みつけ、杖を振り回しながら悪態をついてやった。
「――このクソ金持ちめ! たまには謙虚に『すみません』くらい言ったらどうなんだ!」
さて、馬車の中で、富豪のカルネ婦人と同席していた騎士は、窓の外をぼんやり眺めながら、一路ヴァネル邸を目指していた。――道の隅っこに、みすぼらしい格好をした老婆がいて、ひょこひょこと杖をついて歩いている。
ここは金持ちが住む一角のはずだが、あれは物乞いか何かだろうかと騎士は考えた。最近はこうした上流階級のエリアでも、治安が悪くなってきているのかもしれないな。
老婆とすれ違った直後、背後から怒鳴り声が響いた気がして、窓のほうに顔を寄せて振り返ったのだが、通りがカーブしていたので老婆の姿を確認することはできなかった。老婆が振り回す杖の先が少し見えただけ。
「どうかしたのですか?」
カルネ婦人が呑気に尋ねてきたので、騎士は姿勢を元に戻し、軽く肩を竦めてみせた。
「どこもかしこも、怒りに満ちた人間ばかりだ。つまらないことで腹を立てても、何も良いことはないと思いますがね」
「そのとおりね」
カルネ婦人は頬に手を当て、世を憂(うれ)えて眉尻を下げたのだった。
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