過去編-2 危険な少年
それから数週間ほどたち、冬期休暇はまだ先だというのに、イヴは思いがけずシモーヌ叔母さまの息子に会う機会に恵まれた。
その日は朝からバタついていて、今日はきっと何か特別なことがあるのだなと、居候であるイヴもすぐに空気の違いを感じ取ったくらいだった。
朝の挨拶を叔母にすると、シモーヌは微かに眉尻を下げながら事情を説明してくれた。
「おはよう、イヴ。――実はね、急なことなんだけど、息子のジャンが今日こちらに戻ることになったの」
「しばらく滞在されるのですか?」
イヴが口元に笑みを浮かべて無邪気に尋ねると、シモーヌの顔がなぜか緊張で強張ってしまった。顔色は紙のように白く、息子が久しぶりに戻るというのに、あまり嬉しそうでもない。
「……叔母さま?」
心配になり小声で尋ねると、シモーヌはハッとしたように佇まいを正した。
「ああ、ごめんなさい。ジャンは主人と話をしたら、すぐに学園にとんぼ返りする予定よ」
「何かあったのですか?」
差し出がましいかと思ったが、イヴがさらに踏み込んで尋ねると、シモーヌは混乱したように瞳を揺らし、こちらを見つめ返してきた。それは目の前にあるものをただぼんやりと瞳に映しているだけのような、心ここにあらずといった様子であった。
やがて自分の不躾な態度に思い至ったのか、気まずそうに口を開く。
「あなたにも関係がある話だから、隠すのもよくないわ。実はね、アルベールが――ええと、ランクレ家の子息をうちで預かっているのは、以前話したわよね?」
小さく頷いてみせると、叔母も頷き返して、
「彼が学園で問題を起こしたようなの。カンニングと暴力事件で、退学になるか停学になるか、学園で処分が検討されている。その詳細な報告をするために、息子(ジャン)が戻るのよ。だからあまり良い話じゃないの」
「彼は――アルベールは戻らないんですか?」
普通なら、問題を起こしたほうが強制送還されそうなものなのに。
「それがあの子、学園を飛び出して、行方知らずなのよ」
「えっ、野垂れ死んでいませんよね?」
「それはたぶん大丈夫。元々はみ出したところのある子だったから、下町に隠れ家の一つや二つあるのでしょう。まぁ、憂さを晴らしたら、結局ここに戻って来ると思うわ。だってほかに戻る場所はないし」
幼少期の不遇な体験は、環境を変えても、彼の人生に暗い影を落としてしまったようだ。これを聞いて、イヴはなんだかとても残念な気持ちになっていた。
もしかすると彼女は、周囲の偏見にも負けずに、清く正しく生きている彼を見たかったのかもしれない。だってそのほうが物語のヒーローみたいだから。だけどそれは、身勝手な押しつけでしかないだろう。彼はヒーローのように生きなきゃいけない義理なんてない。
――とにかく従兄殿は今、崖っぷちにいるようである。元々出自に問題があるところに、カンニングと暴力事件を起こしてしまった。先行きは暗そう。温情はかけられず、退学処分になりそうな気がする。
寄宿舎を飛び出して、この屋敷にも戻って来ないって、彼は大丈夫なのだろうか。バツが悪いのか、すべてが嫌になったのか、彼の心のうちはイヴには分からないけれど。
心配にはなったが、それは不幸な目に遭った人を『大変ね』と気遣う時と同じだった。イヴにとっては他人事でしかなかった。まだこの時は。
――お喋りが一段落したところで、ジャンが屋敷に着いた。彼を一目見て、叔母が言っていたことがよく理解できた。
彼はまさに『非の打ち所がない紳士』を、絵に描いたような人物だった。短く整えた栗色の髪には清潔感があり、顔立ちもそこそこ整っている。生真面目で面白味のない感じはするものの、いかにも将来有望そうな若者である。顎が張り、肩幅ががっちりした体躯は、男らしい感じがした。
少し背が低いように感じられるが、まだ十六なので、これから伸びるのかもしれない。――なんて、ジャンのほうだって、三つ下の小娘から、こんなふうにあれこれ評されたくはないだろうけど。
「やぁ、初めまして。君がイヴ?」
彼は痩せっぽちの従妹を見おろし、強張っていた顔を少し緩めた。
「子供の時から病気と闘っているんだって? ――可哀想に。体調はどう?」
彼が大きな手でイヴの頭をポンポンと撫でる。これまた絵に描いたような、弱い者を気遣える正しい紳士という態度だ。イヴは淡い笑みを浮かべながら、ハキハキと返事をした。
「ご親切にありがとうございます。叔母さまと叔父さまのご厚意に甘えさせていただいております。おかげ様で好調です」
「ならよかった」
ジャンはもう一度笑顔を浮かべ、イヴとしっかりと視線を合わせた。
「何か困ったことがあったら、いつでも連絡してくれ。力になるから。従兄妹同士なんだから、頼ってくれたら嬉しい」
――あらまぁ、とイヴは感心してしまった。まったく彼ったら、見た目だけではなく、何を語らせても立派な紳士ぶりを見せるものだわ!
「ありがとう」
イヴはもう一度礼を言った。ジャンは忙しいらしく「それじゃあ」と告げて、書斎に入って行った。これから叔父と今後のことを話し合うのだろう。
従兄との対面という一大行事を終え、イヴはふうと息を吐いた。
***
そして謎多きアルベール・ランクレと対面が叶ったのは、それからさらに二週間ほどたったある日のことだった。
叔母は多くを語らなかったが、屋敷を訪れた客人や、使用人たちの噂話を盗み聞きした結果、アルベールは賭博場に出入りしていたところを、叔父が雇った探偵に見つけられ、少々手荒な方法で連れ戻されたらしい。
屋敷に戻されると、もう逃げることは諦めたのか、大人しくしているとのことだ。ただし食卓に現れないので、イヴはまだ彼の顔さえ拝めていない。
好奇心旺盛なイヴは、偶然出会う機会がないかしらと、散歩がてら廊下をうろうろしてみたのだが、残念なことに空振りが続いていた。
――イヴはふとあることを思いついて、庭に出てみた。野良猫を探すような要領で、なるべく人気がなくてひっそりしている場所、敷地の北側に行ってみたらどうかと考えたのだ。
この作戦は上手くいった。北の外れで、大木の幹に寄りかかる少年の姿を見つけたからだ。彼がいたのは小高くなった丘で、その先には切り立った崖と、深い森が広がっていた。
注意深く、彼の斜め後ろから近寄って行く。
癖のないサラサラの髪は、風に煽られて微かに乱れていたが、女性のそれのように滑らかで綺麗だった。明るい栗色というありふれた色合いであるのに、髪質が良いせいか、なんだか特別なものに感じられる。
どんな顔をしているのかは、この角度からはよく見えないのだが、耳の下から顎にかけたラインは繊細で、恋愛脳ではないイヴでさえも、ドキリとさせられるような独特の雰囲気が彼にはあった。
「……こんにちは」
珍しく気圧されたような心地がして、喉から出た挨拶の声は、我ながらびっくりするほど小さく響いた。
彼のほうはイヴが立てた足音に気づいていたのだろう。特に驚く素振りもなく、気まぐれな様子で振り返る。――アーモンド型の美しい瞳には、退廃的な気配が滲んでいた。
「何か用」
拒絶するでもなく、歓迎するでもなく、口調は平坦なのに、どこか人を食ったようでもある。聞きようによっては面白がっているのかなとも思えるし、反対に、とんでもなく面倒そうな声音でもあった。
――彼はちらりとイヴの顔を見上げ、瞳を細めた。イヴは男性女性問わず、ここまで艶っぽい人に会ったことがなかったので、呆気に取られてしまった。下品さが皆無なので、いやらしい感じはないのだが、表情の作り方や、もっといえば顔のパーツの一つ一つに、なんともいえない独特の色気がある。
彼は十六とのことだが、ジャンに感じたような骨ばった厚みや威圧感は、アルベールのどこを探しても見つからない。彼は線が細く、どちらかといえば中性的な雰囲気だった。
大人になる直前の、危うさを孕んだ彼はただただ圧倒的に美しく、こうした存在に耐性のないイヴは、視線が絡んだだけでクラリと眩暈を覚えたほどだった。
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