過去編-1 アルベールの評判
子供の頃臥せりがちだったイヴは、十三になった年に、療養のため家族の元を離れることになった。――単身、彼女が向かったのが、隣国である。この地には父、ヴァネル伯爵の妹であるシモーヌが嫁入りしているので、その屋敷でお世話になることが決まった。
シモーヌは思慮深く頭の良い女性で、昔からイヴの父(シモーヌからすると兄)から可愛がられていて、今だに兄妹仲は良好とのことだった。
「春が来るとね、イヴ――凍てついた大地が息を吹き返すかのように、鮮やかに景色が変わるの。あなたにぜひ見て欲しいわ」
叔母が目元を緩ませ、静かに語りかけてくる。彼女の落ち着いた声音が好きだわ、とイヴはぼんやりと考えていた。
叔母はいつも控え目で物静かだ。深い知性を感じさせる澄んだ瞳は、父と少しだけ似通っているものの、よくよく覗き込んでみると、本質的にはまるで違っていることがイヴには分かった。父はわりと頑固な一面があるというか、こうと決めたら梃子(てこ)でも動かせない強靭な精神を持っている。対し叔母のほうは、受け身で内気な特性が、佇まいにも反映されているのだった。
「叔母さま、私、春が待ち遠しいです」
イヴは小首を傾げて微笑んでみせ、視線を窓の外に移した。
この国は空気がとても澄んでいて、なおかつ気温が低い。尾根や丘の描くラインは鋭角的で、くっきりと色濃く、何もかもが美しく壮大にイヴの目には映った。
ここへ来てからもう一月あまりが経過している。長く住み慣れたヴァネル邸を離れて隣国へ――しかも大好きな父母と離れ、おそらくこの後も長い年月をここで過ごすことについて、意外にもイヴ自身は不安を感じていなかった。
それほど彼女にとって、生死の境をさまよった過去の体験は、強烈だったといえる。いつ死ぬか分からない状態を味わったことで、あまり先のことを考えないようになった。――とりあえず、今日は生きている。それだけでいい。その価値観はイヴの根底に刻み込まれた。
イヴは数か月前に大病を患い、一時はもう駄目かというところまでいったのだが、奇跡的に持ち直した。季節風の影響なのか、元々夏から秋にかけて体調を崩しやすい傾向にあり、今夏もやはりそうなった。その時に負ったダメージはとてつもなく大きかった。呼吸器系の持病から合併症を併発するに至り、重篤な状態に陥ってしまったのだ。
今年の夏はなんとか乗り切れたものの、医師の見立てでは、来年の夏を越せるかどうかは分からないとのことだった。
イヴの父であるヴァネル伯爵は、ここで重大な決断を迫られることとなった。――娘の身体に必要なのは、環境を変えて、免疫を高めること以外にないだろう。隣国では近年医療技術の発展がめざましいこともあり、そちらで療養をさせたほうがいい。そこで冬に入る直前のタイミングで、イヴは単身、こちらに移されたのだった。
「――今日は顔色がいいみたい」
叔母はこんなふうに、いつもイヴのことを気遣ってくれる。――本当に父との関係が良好だったのねと、イヴはしみじみとそう感じる。イヴ自身を気に入ってくれているというよりも、イヴを通して、彼女の父であるヴァネル伯爵に対して深い敬愛を抱いているのが、言動の端々に感じられる。
「ここに来る前より、段違いに体調が良いです。空気が変わったのが良かったみたい」
イヴは十代前半の少女らしく、はにかむような笑顔を浮かべた。
少しでも無理をすると、相変わらずすぐに熱が出てしまうし、同年代の子供と同じように過ごせていると、胸を張れるほどではない。それでもベッドの中で漠然と終末の気配を感じ取るようなことは、このところなくなっていた。
叔母は考えを巡らせるように視線を彷徨わせてから、ポツリとこんなことを語った。
「冬期の長期休暇に入ったら、息子のジャンが寄宿舎から戻ると思う。そうなったらあなたたち、初顔合わせになるわね」
そういえば、シモーヌの一人息子には一度も会ったことがない。確かイヴより三つ上の十六歳で、名門校に入っていたはずだ。彼は休日の度に実家に戻るという習慣もないようで、叔母の言うとおり、彼が戻ればイヴとは初対面になる。
「息子さんは、叔母さまに似ていますか?」
イヴの素朴な質問に、叔母は困ったような笑みを浮かべた。
「いいえ。あの子は、私にも夫にも似ていないわね」
シモーヌの夫は生真面目で神経質そうな人だ。貴族ではあるけれど、イヴは彼を見ると、なんとなく時計職人ぽいなぁと思うのだった。――チクタク、チクタク、彼の中で刻まれる時は静かで、ほかとは違う速さで進んでいるような感じ。自分の好きなことには凝り性であるのに、ほかのどうでもいいことに対しては無頓着な人だ。少し寝癖があっても平気だったり、服にまるで頓着しなかったり。シモーヌの夫は感情の起伏が乏しく、親しみを感じるような社交性は皆無だけれど、悪い人ではないようだ。
シモーヌはくすりと苦笑を漏らしてから、息子の人となりを説明してくれた。
「たとえば、私と息子(ジャン)が同い年の他人だったとして、同じ舞踏会で出会ったとするわね? そうしたらあの子は、私とは決して踊らないタイプよ。――なんていうか、彼はリーダー気質で、顔もどちらに似たのか分からないけれど、なかなかハンサムなの」
……なるほど。イケてるリーダータイプなのね。美人でいかにも如才ない彼女がいそうな、非の打ち所のない紳士ってやつなのね。
イヴは叔母に対して好感を抱いていたが、それでも一般的な男性が、彼女のような堅実なタイプに興味を抱くかどうかは、また別問題であることは理解していた。
叔母の自虐交じりのコメントは、ジャンの人となりを理解するのに的確ではあったものの、聞かされたほうはリアクションに困るものだった。そんなことありません、叔母さまは素敵ですわ、そう口先だけでお愛想を言うのも、なんだか違う気がして。
叔母もそのことに思い至ったのか、気まずい空気を変えるようにこう言った。
「それから、アルベールも一緒に戻ると思う。ええと、アルベールというのはね――あなたにはちゃんと話していなかったけれど、私の妹の子供で、小さい頃からお預かりしているのよ」
「アルベール・ランクレ」
彼も戻るのか。驚いたイヴは思わず呆けたような呟きを漏らしていた。
アルベールとは従兄妹同士であるのに、実際に会ったことはなかった。しかし彼は出自の特殊性から、貴族社会では有名人なのである。貴族階級を激震させた巨額詐欺事件は、子供であるイヴですら耳にする機会があった。
「イヴあなた、彼のことを知っているの?」
子供であるイヴが訳知った様子であるのが、叔母には意外だったようだ。切れ長の瞳に純粋な驚きの色が浮かんでいる。
……だって、ねぇ? イヴとアルベールは、同じくシモーヌ叔母さまにお世話になっている身という共通点がある。イヴがアルベールの存在を知っていたとしても、特段なんの不思議もないと思うのだが、叔母はイヴのことを、何も知らない間抜けな子供だと思っているらしい。
「父は決して多くを語りませんでしたが、噂好きでおせっかいな手合いというものは、どこにだっているものです」
詳細をぼかしながらそう語れば、叔母はなんとなく事情を察したらしい。口さがない輩はどこにでもいるものだし、叔母自身も醜聞を起こした末っ子のことでは、相当周囲から当てこすられてきたに違いない。
それにイヴは病弱で屋敷にこもっていることが多かったから、公爵家に嫁入りした伯母が訪ねて来た際などは、応接室に忍び込んで、大人たちが何を話しているのか、盗み聞きをしたこともあったのだ。
これはとてもはしたない行為だし、バレたら大目玉なのだが、この手の悪戯はイヴにとってはお手のもので、見咎められたことは一度もなかった。周囲は『病弱』イコール『大人しい』と思い込む癖があるようで、イヴは身体が弱いというだけで、内面も同様にお淑やかだと見られがちだったのである。
――ところで従兄のアルベールは、例の詐欺事件が起きたから隣国に避難したわけではなく、実はもっとずっと前から、単身こちらに渡り、シモーヌ叔母さまのお世話になっていたらしい。
というのも元々子供に関心がなかった彼(アルベール)の母は、九歳の息子が水の事故に遭った時、その場にいたにも関わらず、一切助けようとしなかったらしいのだ。それで彼が危うく死にかけたため、このままランクレ家に置いておくのは良くないと父が判断し、シモーヌ叔母さまのところに行くよう仲介したらしい。
――それはリンドウの咲く季節だったと聞いている。
水に落ちた、までは不慮の事故で済ませられるが、溺れて助けを求めている息子を放って、母親は恋人との約束を優先して、その場を去ってしまったというエピソードを聞いた時、イヴは彼女のクズっぷりに衝撃を受けた。――無関係の子猫が溺れていたって、イヴなら大慌てしそうなものなのに、このクソ女ときたら。
そんな母親に育てられてもろくな大人にならないだろうから、親子を引き離した父の判断は正しかったと思われる。
イヴは身体が弱かったせいで、外であまり遊べなかったから、多くの時間を読書に費やしてきた。そのせいか共感力が高く、『自分がもしも同じような目に遭ったなら、どうしただろう』と想像を巡らせる、おかしな癖を持っていた。
だから悲劇的な背景を持つアルベール・ランクレという少年のことが、会う前から、気になって気になって仕方がなかったのだ。もしも自分が彼の立場だったなら、家族がしでかしたことで――しかも愛してさえくれなかったクズみたいな親のせいで、子供である自分まで肩身の狭い思いをするだなんて、すごく理不尽に感じただろう。
ところが世間一般の解釈では、息子であるアルベール自身も同罪であり、醜聞を起こした家族の一員であるのだから、連帯責任を負ってしかるべし、なのだとか。
――それっておかしくないかしら? だって子供は親を選べない。親を矯正できる幼い子供なんて、どこを探したっているわけない。
そしてイヴは父のことを尊敬していたのだが、この件に関してだけは、アルベールよりも兄姉が負うべき責のほうが大きいのではないかと考えていた。
けれど誰も彼もが、父や公爵家の伯母を表立って責めはせず、それどころか、ランクレ家の負債を肩代わりした英雄みたいに祭り上げようとする風潮すらあって、イヴはそれを心底気持ち悪いと思っていた。
名士に対しては裁定が甘く、なんの力も持たない不遇な少年に対しては、鬼の首を取ったように、すべてのツケを払わせてもまるで足りないとばかりに鞭を打つ。そんな取り澄ました貴族社会とやらに、酷くうんざりさせられたものである。
「アルベールはどんな人ですか?」
九歳から親元を離れ、遠い外国で暮らしてきた従兄。純粋な好奇心から尋ねれば、シモーヌの顔に、初めて混乱と痛みの色が浮かんだ。その反応に驚き、思わず彼女の顔を凝視してしまったら、子供に顔色を読まれていることに気づいたのか、叔母はハッとした様子でいつもの穏やかな顔に戻った。
「――息子のジャンと同じ寄宿舎に入っているわ」
では、アルベールもまた優秀なのだと少し驚いた。ジャンが通っている学校は名家の子息ばかりが集められているのだが、学力においても一流を求められる。
叔母は実子と分け隔てることなく、アルベールを育てたのだ。――醜聞まみれの一家の息子を。普通ならば誇っていいような話題だが、叔母の顔は晴れない。彼女は陰鬱な調子でぽつりと漏らす。
「だけどあの子はとても難しい。頭が良すぎるのかもしれない」
「変わっていて、孤立しているのですか?」
「非凡なのは確かね」
シモーヌは寂しそうに微笑む。
「突出していて、異質。私は凡人だから、あの子を本当の意味で理解することはできない。……だけどね、悪い子ではないの」
「そうですか」
けれど、なんだろう。『悪い子ではない』という表現に込められた、ネガティブな含みは。――この時感じた違和感は、喉に刺さった小骨みたいに、ずっとイヴの中に残ることとなった。
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