第2話
2月1日
新進気鋭ながら世評の高い美貌の女性コピーライター、檜山光子が、散弾銃で頭を吹き飛ばされた惨殺死体となって自宅で発見された。光子は鈴木亜美に似ている。
💀残り5人
牧之原署
殺人事件の捜査担当刑事である呂宋は、文筆家志望の新人であった光子を引き立てた恩人である著名の
捜査の中で、光子を殺す動機のあった者が複数浮上してきたが、決定的な証拠が見付からなかった。悩み疲れた呂宋は、生前の光子について深く知るにつれ、いつしか既に死んでる光子に惹かれて行く。
2月16日の深夜、車を蛇行させつつ保険会社のビルに乗り付けた男は、よろめきながら無人のオフィスにたどり着き、ディクタフォン(事務用録音機)をセットして、自らの罪の告白を始める。
同じ年の1月末、牧之原市の保険会社の敏腕外交員である石川銀次は、顧客の実業家、地頭備前の自宅で、美貌の後妻、ピンクに出逢う。
石川は反町隆史、地頭は滝藤賢一、ピンクはチェ・ジウに似ている。
ピンクに誘惑された石川は彼女と不倫の関係に陥り、結果、倍額保険金目的の地頭殺しに荷担してしまう。
地頭を欺いての倍額保険契約締結、不慮の事故で怪我を負った地頭を、敢えて列車で同窓会の会合に出席させるよう巧みに仕組んだピンクの工作、駅頭や列車内で地頭の目撃者を作るための石川の変装など、殺人は周到な偽装のもとに仕組まれ、実行される。
結果、地頭の死は単なる列車転落事故として処理され、保険金殺人は完全に成功したと思われたが、保険会社での石川の同僚である敏腕調査員、残間は、疑問を抱き、死亡保険金支払いを差し止めさせて、ピンクの身辺調査に乗り出す。
保険金も得られないまま、手詰まりの膠着状態に追い詰められた石川とピンクは、運命共同体という立場にありながら、相互不信に陥る。
それにつれてピンクの恐るべき正体が徐々に明らかとなり、さらにピンクが亡夫の娘、海子の元恋人邦夫とも関係していることを知った石川は、ピンクと手を切ることを決意する。海子は土屋太鳳、邦夫は手越祐也に似ている。
しかし、別れ話の末にピンクは隠し持っていた銃で石川を撃つ。肩を撃たれた石川は、2発目を撃つことができずにいたピンクから銃を取り上げると、抱きついてきたピンクを撃ち殺す。
💀残り3人
全てを告白した石川の前に残間が現れる。石川は逃亡しようとするが、出血多量で力尽きて倒れ込むと、救急車を呼んできた残間につけてもらった火でタバコを吸う。
「おめぇ、単なる調査員じゃねーな?」
2月8日 - 笹子トンネル上り線復旧、対面通行規制解除。
嵐山若葉は妖怪を目撃した。老人火だ。
雨の夜に山奥で現れる魔の火。老人とともに現れ、水をかけても消えないが、獣の皮ではたくと消えるという。
一本道で老人火に行き遭ったときなどは、履物を頭の上にのせれば火は脇道にそれて行くが、これを見て慌てて逃げようとすると、どこまでもついてくるという。
別名を天狗の
江戸後期の国学者・平田篤胤は、天狗攫いから帰還したという少年・寅吉の協力で執筆した『仙境異聞』において、天狗は魚や鳥を食べるが獣は食べないと述べている。また随筆『秉穂録』によれば、ある者が山中で肉を焼いているところへ、身長7尺(2メートル以上)の大山伏が現れたが、肉を焼く生臭さを嫌って姿を消したとある。この大山伏を天狗と見て、これら『仙境異聞』『秉穂録』で天狗が獣や肉を嫌うという性質が、老人火が獣の皮で消せるという説に関連しているとの指摘もある。
老人火の近くには鳥羽一郎に似た老人が立っていた。
2月17日 - JR浜松工場内の不発弾処理により東海道新幹線と東海道本線が浜松市内で一時運転を見合わせとなる。
静岡県警の竜崎は
牧之原市のコンビニでバイトをしている皇邦夫は、歌手の海子と交際している。海子は西内まりやに似ている。しかし、さらなる成功を目指す海子は彼のもとを去り、東京へ出る。彼女のことを諦めきれない邦夫は東京へ向かおうとする。
邦夫は、相良城近くで津田沼のワゴン車に同乗する。
津田沼は『兄弟船』を歌いはじめた。
相良城は平安時代末期から鎌倉時代初頭にかけて、相良庄の武士・地頭である相良氏(肥後人吉城主の祖とされる)の館(相良館)が築かれていた。戦国時代、高天神城を攻略して遠江国の支配を図った武田勝頼は、相良に築城をおこなっている(相良古城)。
その後、遠江は天正年間に徳川家康の治めるところとなった。天正14年(1586年)、相良城は相良御殿とされ、徳川家康の鷹狩りに用いられた。江戸時代に入ると相良陣屋として相良藩の藩庁が置かれ、本多氏3代、板倉氏1代、本多氏1代の城郭となっている。
近世の相良城は、明和4年(1767年)に田沼意次が築いたものである。
田沼意次は御側御用取次であった宝暦8年(1758年)に江戸の呉服橋御門内に屋敷を与えられるとともに、相良1万石の領主となったが、この時の相良には城はなく陣屋のみあった。意次はその後、10代将軍徳川家治の信任を受けて老中として手腕をふるい、所領も加増を重ねた。明和4年(1767年)には家治の命によって神田橋御門内に屋敷を与えられ(この時から「神田橋様」と呼ばれることとなった)、築城を許可されて城主格となった。相良城の建設には翌年から取り掛かり11年間の月日を要した。意次は普請工事を家老の井上伊織に全て委ね、1780年(安永9年)の完成に合わせて62歳になった意次は検分の名目でお国入りを果たした。特に天守閣を築くことを許されており、縄張りを北条流軍学者の須藤治郎兵衛に任せ、三重櫓の天守閣を築いた。
相良城は萩間川、天の川を外堀として本丸、二の丸、三の丸から成り、その規模は東西500メートル、南北450メートルで約7万坪に及ぶ。三重櫓を中心に櫓は6基あり、三重の堀を廻らし、総石垣で、安永9年(1780年)12年の歳月をかけて完成した。田沼はその後もたびたび加増を受け、安永元年(1772年)には5万7千石を領することになる。
天明6年(1786年)、家治が没し、松平定信が老中になると意次は失脚、蟄居・減封が命じられた。天明7年(1787年)、退隠した意次から家督を継いだ田沼意明(意次の嫡孫)は、陸奥下村藩1万石に転出。相良城も廃城とされ、天明8年(1788年)に徹底的に破壊された。
田沼意明の移封後、相良は天領となった。文政6年(1823年)、陸奥下村藩主・若年寄田沼意正(意次の四男)が、相良に1万石の領主として復帰し、相良城跡に相良陣屋を構えた。明治元年(1868年)に田沼意尊(意正の孫)が上総小久保藩に移されるまで、相良陣屋は相良藩の藩庁として機能した。
津田沼の腕には引っ搔き傷があり、それは女につけられたものなのだという。夜、眠りにつく津田沼に代わって邦夫が車を走らせていると、大雨が降り出す。
邦夫は津田沼を起こそうとして助手席のドアを開けるが、津田沼は地面に倒れ落ちる。心臓発作により息絶えた津田沼を草陰に隠した邦夫は、津田沼になりすまして旅を続ける。
💀残り2人
邦夫は、清浄寺に立っていた沼霧冬子を車に乗せる。冬子は綾瀬はるかに似てる。丁度、NHKで大河ドラマ『八重の桜』をやっている。
弘安5年(1282年)の開山と伝えられる。この地の勝間田荘にいた在庁官人の藤原長清(勝間田長清)は、遊行2代他阿真教と親しく、『夫木和歌抄』を編纂した。勝間田氏は境内に供養塔を建立している。
その後勝間田氏は文明8年(1476年)今川義忠と交戦して勝間田城は落城、この地から逃れて静岡県御殿場市周辺に辿り着いた。 今でも御殿場市には、カツマタ姓(勝又、且又、勝俣、勝股、且股、勝亦、勝間田、勝馬田)が非常に多い。
しばらく助手席で眠っていた冬子は、目を覚ますなり、津田沼はどこにいるのかと邦夫に問う。津田沼を引っ掻いた女とは冬子のことだったのである。邦夫は、これまでの経緯を冬子に話す羽目となる。冬子は、邦夫が自分の言いなりにならなければ警察に全てを話す、と彼を脅迫する。2人は津田沼夫妻を名乗り、牧之原台地にアパートメントを借りて共同生活を始める。
牧之原台地は、静岡県中西部、遠州地方南東部にある台地。布引原とも。大井川下流域と菊川に挟まれた洪積台地である。現在の島田市、牧之原市、菊川市にまたがっている。
江戸時代までは、麓の村(現在の大字)の入会地、いわゆる草刈り場であり、未開拓の原野が広がっていた。「牧場」があったことが地名の由来とされるが、定かではない。現在でも大字の続きまたは飛び地となっているところが多い。
明治期になって、江戸から静岡に移封された徳川家達に従った新番組などの幕臣へ1470町(約1455ヘクタール)、大井川の渡船許可により失業した川越人足に204町(約202ヘクタール)払下げられたが、元の入会地を利用していた住民との紛争が多発した。台地ということもあり、農業用水はもちろんのこと生活用水の確保にも事欠いたことから、多くの脱落者が出たが、農民らによる茶園開墾も進み、現在の大茶園が形成された。結果的に農家一戸あたりの耕作面積は広いが、人口密度は希薄で、車社会になる前は、バス停から二里も歩かなければならないところもあり、極めて不便なところであった。
第二次世界大戦中に海軍の大井海軍航空隊基地が建設され、跡地は矢崎グループの工場などになっている。
戦後も慢性的な水不足は続き、茶園で不可欠な農薬の散布などに必要な水の確保にも苦労があった。地元からの要望により、1978年より国営牧之原農業水利事業が始動。水源を大井川の長島ダムに求め、導水路を経て牧之原揚水場により台地へ水を引き上げて配水する工事が進められた。台地上に樹枝状に広がる80kmあまりの幹支線水路が完成したのは1996年であった。
津田沼の車を売るために、邦夫と冬子は中古車店へ行く。邦夫が店員に自動車保険のことを聞かれて口ごもっていると、冬子が事務所へ入ってきて、車を売るのは止めたと告げる。冬子は訪問ヘルパーだったが、あまりに薄給なので津田沼を虐待していたのだ。老人ホームを辞めて転職活動していたそうだが、伊豆のホテルに就職が決まったそうだ。
「牧之原って駅がないの、移動に車は不可欠だわ」
「おめでとう」
2人はアパートメントへ戻り、口論を始める。冬子は、邦夫が津田沼になりすまして津田沼邸にある遺産を手に入れるべきだ、と主張する。津田沼のことを十分に知らない邦夫は、冬子の提案に反対する。冬子は、邦夫が窓を開けに行った隙に、電話を抱え寝室へ閉じこもる。邦夫は、ドアの下から伸びている電話線を全力で引っ張り、冬子が警察へ電話するのを止めようとする。
彼は体当たりでドアを開けて寝室へ入るが、電話線で首を締めつけられた冬子は窒息死していた。邦夫は冬子の死体をその場に残し、アパートメントを立ち去る。
邦夫が再びヒッチハイクを続けていると、覆面パトカーが彼の前で停まる。残間に言われるがまま、邦夫はパトカーに乗り込む。邦夫を乗せたパトカーは夜道を走り去って行く。
💀残り1人
2月19日 - 実業之日本社から刊行の漫画雑誌「漫画サンデー」(1959年創刊)が同日発売の2013年第5号で休刊、54年と通巻2795号に亘る歴史に幕。
残間は取調室で机をバンバン叩きながら「おめぇーがやったんだろ!?」と、邦夫を問い質したが、「あの女をやったのは確かに俺だが、檜山って女に関しては知らねー」
「『いま、会いにゆきます』に出てませんでした?」
「似てるってよく言われるよ」
2月20日 - 2001年(平成13年)に起きた明石花火大会歩道橋事故で神戸地方裁判所は強制起訴された元副署長に時効で免訴の判決を言い渡した。
光子を殺したときは難しいゲームをクリアしたみたいな気分だった。あの女は俺の作品を貶しやがった。
メインディッシュの長宗我部は2月26日に殺すことにした。二・二六事件があった日だ。
2月21日 - 第2次脇坂内閣発足後、初の死刑執行(3人執行)。
真一は肺癌で入院してる祖父を見舞いに行った。
「小さい頃はいろんなところに行ったな?」
祖父は抗がん剤の影響もあり髪の毛が抜けてお坊さんみたくなっていた。
真一は庭に出て涙を流した。
2月22日 - 愛知県東浦町の当時の副町長が2010年(平成22年)の国勢調査で人口水増をした容疑で逮捕された。
真一は大興寺にやってきた。一時期は子供がほしいってときもあった。
大興寺には、遠州七不思議の一つである、「子生まれ石」の伝説がある。
大徹和尚は、自分の死後に、裏山の川の岩から、まゆ形の石が生まれるから、これを自分の身代わりとして大切にせよと言い残して息を引き取り、果たしてその通りになったという。人々はその石を沢川から運び、和尚の墓石として大事に扱った。 その後、住職の代が代わるごとに、裏山から新しい石が生まれるといわれている。
大興寺では実際に歴代住職の墓石にこれらの石が使用されており、初代・大徹和尚のものは約75kgもあると言う。自然石の
地学的にはこれはノジュールという砂岩で、母岩の粒子間で化石や砂粒などを中心の核として、岩石中の珪酸や炭酸塩などが濃集沈殿しながら固まったものである。川の流れなどで軟らかい母岩が先に浸蝕されていく為、ノジュールは球状の塊のままやがて落下する。
現在も球状の石が岩壁から生まれ続けている様子を、寺から50メートル程先の沢川で見ることが可能である。
光子は真一とつきあっていたが、稼ぎの少ない彼に見切りをつけた。
『アンタのせいでヒドイ生活だったよ。作品パクるぐらいオッケーでしょ?』
光子の幻聴に真一は苛まれていた。
『人殺し、最低』
2月25日 - 元横綱大鵬、故納谷幸喜(享年72)の国民栄誉賞の授賞式(受取は夫人)。
硴塚桜はニュースで冬子の写真を見て自分そっくりだな?と思った。
桜は龍臣と自宅のキッチンで卑猥なことをしていた。龍臣は、桜の太股を手でつかみ…
ゆっくりと脚をぐりぐりと広げさせてきた。
これ以上開脚できないほど大きく開かせた後、左手で桜のクリトリスの皮を器用に剥いた。
「あっ、や、やぁ~~んっ!」
お腹の筋肉が勝手にひくつくようになる。
桜は悶絶の表情を浮かべて、腰をうねらせ悶え続けた。
2月26日
二・二六事件とは、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて発生した日本のクーデター未遂事件。
昭和初期から、陸軍では統制派と皇道派の思想が対立し、また、海軍では艦隊派と条約派が対立していた(派閥については後述)。統制派の中心人物であった永田鉄山らは、1926年(大正15年/昭和元年)には第1次若槻内閣下で、諸国の国家総動員法の研究を行っていた。
一方、その後の犬養内閣は、荒木貞夫陸軍大将兼陸軍大臣や教育総監真崎甚三郎陸軍大将、陸軍軍人兼貴族院議員の菊池武夫を中心とする、ソ連との対立を志向する皇道派を優遇した。皇道派の青年将校(20歳代の隊附の大尉、中尉、少尉達)のうちには、彼らが政治腐敗や農村困窮の要因と考えている元老重臣を殺害すれば天皇親政が実現し諸々の政治問題が解決すると考え、「昭和維新、尊皇斬奸」などの標語を掲げる者もあった。
しかし満州事変に続く犬養首相暗殺事件ののち、日本国は軍政に移行する。斎藤内閣は青年将校らの運動を脅しが効く存在として暗に利用する一方、官僚的・立法的な手続により軍拡と総力戦を目指す統制派(ソ連攻撃を回避する南進政策)を優遇した。行政においても、1934年には司法省がナチス法を喧伝しはじめ、帝国弁護士会がワシントン海軍軍縮条約脱退支持の声明を行い、陸軍大臣には統制派の林銑十郎陸軍大将が就任し、皇道派を排除しはじめた。1935年7月、皇道派の重鎮である真崎が辞職勧告を受けるに至っては、陸軍省内で陸軍中佐相沢三郎による相沢事件が発生し、当時は陸軍軍務局長となっていた統制派主導者の永田鉄山が死亡した。斎藤内閣や林ら陸軍首脳らはこれに対し、皇道派将校が多く所属する第一師団の満州派遣を決定する。
皇道派の青年将校たちは、その満州派遣の前、1936年(昭和11年)2月26日未明、部下の下士官兵1483名を引き連れて決起した。決起将校らは歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、近衛歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊等の部隊中の一部を指揮して、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監、牧野伸顕前・内大臣を襲撃、首相官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠した。元首相兼海軍軍人斎藤実は殺害されたが後継の岡田啓介首相は無傷であった。
将校らは、林銑十郎ら陸軍首脳を通じ、昭和天皇に昭和維新の実現を訴えたが、天皇は激怒してこれを拒否。自ら近衛師団を率いて鎮圧するも辞さずとの意向を示す。これを受けて、事件勃発当初は青年将校たちに対し否定的でもなかった陸軍首脳部も、彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧することを決定し、包囲して投降を呼びかけることとなった。叛乱将校たちは下士官兵を原隊に帰還させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。しかし彼らの考えが斟酌されることはなく廣田内閣の陸軍大臣寺内寿一の下、一審制裁判により、事件の首謀者ならびに将校たちの思想基盤を啓蒙した民間思想家の北一輝らが銃殺刑に処された。これをもってクーデターを目指す勢力は陸軍内から一掃された。
事件後しばらくは「不祥事件」「帝都不祥事件」とも呼ばれていた。算用数字で226事件、2・26事件とも書かれる。
真一は散弾銃を手に長宗我部邸に向かった。
「あの野郎!あったまにくるな!」
何にイライラしてるのかは分からないが、長宗我部が出てきた。
真一は長宗我部の頭を散弾銃でふっ飛ばした。
闇に叫べ!7 牧之原殺人事件 鷹山トシキ @1982
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