最終章

 なんだかんだで写真撮影を終えたのは午後九時すぎのことで、すっかり人がまばらになったコンサートホールを出た二人は、疲れた様子で札幌の街を並んで歩いた。

 夜の札幌は日中とは打って変わって星が全天を覆い瞬いていた。重く重なっていた雲はどこにも見当たらず、夜道は少し生暖かい。ほぼすっかり乾いた歩道を二人は並んでテクテク歩いた。

「駐車場がちょっと遠くてね」

「そうなんですか?」

「うん。コンサートホールの周りの駐車場はもう全部満車で大変だったよ。あのコンサートホールには専用の駐車場がないって知らなくてね。知らないといえば、コンサートホールの名前もまだよく知らないんだけどさ」

「えーっと、……なんでしたっけ?」

「僕に聞かれてもなぁ」

 二人は笑い合った。

「ところでさ、僕は気づいたんだけど」

「なんですか?」

「そのメガネ。それって丸いよね。僕と同じ丸メガネだよね」

「気づいちゃいました?」

「気づいちゃいました」

「実は今日のために買っちゃったんです」

「そうでしたか……」

 伍郎は突然ビビの正面に立つと、

「うーーーん」ビビをじっくりと見つめた。

「え、え、」焦るビビ。

 すると伍郎は笑顔になり親指を立てた。

「素敵だね!」

「ありがとうございます!」

 ビビの瞳のレーザービームはもはや伍郎には通じない。いや、通じないのではなく、しっかりと受け止めて、さらには跳ね返すことまでできるのだ。もちろん仰け反ることもないし、怯むこともない。

「ペアルックならぬペアグラスってやつか。というか、そんな言葉ってあったっけ?」

「どうなのかな?」

「あってもなくてもいいか。けど、僕は気分がいいな」

「私も!」

 駐車場には伍郎の車だけがポツンと一台停められていた。無人精算機で料金を払い、車を出す。なんとなく、お互いにようやく二人だけの時間になった気がした。

「ところでこれからどうしましょ?」

「今何時だっけ?」

「ええっと……九時四十……もうすぐ十時ですよ」

「もうそんな時間かぁ。早いなぁ」

「ですね。けど私、時間ならこれからいくらでもありますけど」

「それは奇遇だね。実は僕もなんだけど」

「先生は海、見たくないですか?」

「海かぁ、いいね」

「夜の海っていいですよね」

「だね。石狩も晴れてるかな?なんなら小樽でもいいけど」

「こっから神威岬は遠いでしょうか?」

「遠いよ。けど、気持ちはわかる」

「でしょー」

 しかし、結局、ビビは夜の海を見ることはなかった。

 程なくして眠ってしまったのだ。疲れたのだろう。助手席を倒すでもなく首がガクンと横になっていた。

 伍郎は程なくそれに気づくと、車を路肩に寄せて停め、運転席から降りると、助手席を倒してビビの姿勢を楽にしてやり、丸メガネを外してダッシュボードにしまうと、その後にスーツをかけた。もちろん汚れたまんまのスーツだが、ないよりはマシだろう。多分においも大丈夫。

 しかし。

 さて、これからどうしよう……。

 もちろんビビを起こすつもりはなかった。朝から大変だったに違いないのだ。当然疲れているはずで、ならこのまま寝かせておいた方がいい。

 けど、正直このままでは自分が手持ち無沙汰になってしまうのは否めない。夏だからこのままどこかで自分も寝ちゃってもいいのだが、それにはまずこの車を適当な場所に移動させなければならない。でも、仮に寝たとしてもこの狭い車内だ。そんなに長く寝れやしないだろう。

 ごっそりあったガムがもう三粒しかないのを確認すると、全部を口に放り込む。

 ビビはきっとそのうち一旦目を覚ます。その時にはできるだけビビの部屋の近くにいた方がいい。そしたらすんなり部屋に戻れる。そのまま部屋でゆっくり休ませられる――

 伍郎は決めた。少しだけ札幌市内を車でぐるぐるしよう。どうせもうどこにも行けやしないのだ。

 車を適当に流しながら、伍郎はナナコからもらった封筒を思い出した。寝ているビビにかけているスーツの内側ポケットに入っているはずだ。赤信号の際にそれを内ポケットから引っ張り出して、そして中を見てみた。

 

 横浜ランドスケープタワー

 スカイガーデン

 特別ご招待券(二枚)


 ……横浜、かぁ。

 ……で、これをどうしろと。

 ああ見えて彼女は天然なのかな?

 それともネタ?

 判断はつかないが、いずれにしても伍郎には好印象だった。今ここにナナコがいたら「なんでやねん!」とツッコミを入れたかった。きっと笑い返してくれるだろう。

 ただし、まだちゃんとナナコのフルネームを覚えていない。何スキーだっけ?スリムスキーとかそんな感じなのだ。

「なんでやねん」

 多分そう突っ込まれる。

 失礼だからちゃんと覚えないとなぁ。

 ドライブの途中で気がついて給油をしたが、ビビは全く目覚める気配がなかった。

 よほど疲れているのだろう。試しに軽く肩のあたりを揺すってみたが、力なく揺れるのみで、脱力しきっている。

 まじか!

 そんなに油断していると、おっさんは襲うんだぞ。 

 などと思ってみてもどうにもならない。狭い車内なのだ。そもそも襲えるわけがない。協力してくれないとそういう体勢にすらなれないのだ。それに自分自身も相当疲れている……はずなのだが、あれ?なぜか全く眠くないぞ。

 これはこれで困った。

 そしてこのまま当てのない運転は辛い。

 伍郎は開き直った。勢いで国道五号に乗り、小樽方面に車を走らせる。海を見るのだ。それだ!それしかないではないか!

 夜の札幌は流石に車の流れが乏しく、あっという間に手稲を駆け抜けた。銭函に至っては本当に車がパラパラとしか走っていないのでほとんどストレスフリーだ。

 ビビが寝ているのでラジオもCDもないが、五郎の脳内ではプログレの名曲が流れ続けていた。フィガロの結婚はよくわからないので脳内再生不可能だが、大好きな某プログレバンドの何枚目かのアルバムはいとも容易く再生可能。まさに今、いい感じで鳴り響いていた。


 深い海の形状に関する物語


 厳かな歌が聞こえた

 静かな歌が聞こえた

 歌っている者が誰なのかはわからない

 歌は聞こえたが、内容はよくわからない

 私は勇気を出してその意味を尋ねようとした

 しかし私は声が出なかった


 朝日を呼び込む呪文

 そして虹がかかる呪文

 でもそれはまだ先のことだ

 音楽が始まったとき、

 私は勇気を出してその意味をたづねようとした


 しかし私は声が出なかった


 一体何が起こったというのだろう

 何かを解き放つ時がきた

 私の人生をかけて言う

 この瞬間、この瞬間だったのだ 

 

 今のこの状況に合ってるようで合ってない。もしくは合ってないようで合ってる。まさにプログレだと伍郎は思った。「プログレなんてハッタリだ」とか、あるいは「古臭い」などという人もいる。オヤジ趣味だと言われることもある。けれど伍郎はそうは思わない。

 やがて見えてきた海は真っ黒で重く横たわり、テラテラと光り輝いていた。その上には星が降るように散りばめられている。

 鏡のように白く輝く月は、この位置からは見えないが海とは反対側にあるのは間違いない。

 そうなのだ。

 どうせ見えるのだ。

 厳かな雰囲気を伍郎は肌で感じた。車内には音はないが、脳内では音が満ちている。ビビにも聞かせてあげたいが、今は寝かせておこう。

 やはりプログレはいいな。

 けど。

 相手がいるのはもっといい。誰も座ることのなかった助手席だったが、ここ数年はビビの特等席だ。相手がいてこそなのだ。


 ビビが目覚めた時、一瞬何がなんだかわからなかった。 

 キョトンとしてると、伍郎と目が合う。

「おはよう!」

「おはようございます……」

「よく眠れたかな?」

「なんか……ここどこですか?」

「場所で言うなら南区の石山通り。ここからビビのアパートまではあと三十分はかかるかな」

 伍郎は夜通し走ったのだ。

「えー、私、その間ずっと寝てたんですか?」

「もうそれはそれはスヤスヤと」

「えー」

「実はあれから本当に神威岬まで行ったんだ。もちろん駐車場まで行っただけで車からは降りなかっただけだけどね」

「えー」

「なんにしてもぐっすり寝れたのならよかったよ」

「ごめんなさい」

「謝らなくてもいいんだよ。それより平日はやっぱり混むね」

「ああ、はい」

 ビビはここでようやく自分の体に伍郎のスーツがかけられているのに気づいた。何か妙に心地よいのはこのせいか。ビビは思わずスーツの中に顔を埋める。

「ん?眩しい?」

「いえ。ちょっと」

 この時期特有の熱い朝の光は車内にも差し込んできてはいたが、太陽はもうかなりの高さなので、直射ではない。

「そっか。ところで、そうやってスーツを顔にかけるようにして隠れるのはいいんだけど、そうするとスカートが捲れ上がって、パンツが見えそうな感じになってるんだよね」

「ええ!」

 慌ててスーツをずらし体をくねらせるビビ。倒れている助手席を起こして、捲れているスカートを整えると、伍郎に向かい照れ笑いをした。

「先生、私、髪とか酷くなってませんか?」

「大丈夫だよ。ツヤッツヤだよ」

「そうですか?」

「けど、ひょっとしたら歯磨きしてないから口の中は大変なことになってるかもしれないね」

「えー」慌てて口を抑えるビビ。

「大丈夫大丈夫。なんのにおいもしてないよ。それに、そこにお茶もあるから」

 助手席のドリンクホルダーにはいつの間にかコンビニで買ったであろう冷たいお茶が入っていた。まだ冷たいことから、ほんの少し前に買ったであろうことがわかる。

「僕も喉が渇いたからさ。むしろおっさんの僕の方がにおいを気にしないとね。実はビビが寝てる隙にお茶でうがいしてたりして」

「えー」

 ビビは笑う。伍郎も笑う。

「あーでもさ、もう僕は仕事に戻らないとならないよ。考えたんだけどさ。天気良さそうだし、九州までは飛行機使って戻ろうかな」

「そういえば台風ってどうなったんでしょう?」

「さあね。僕が帰ってくる前まではまだ九州には上陸してなかったんだけどね。とにかく、車で戻るのはやめにするよ。流石に疲れたから」

「そうですよ。それがいいですよ」

「また会えなくなるのは寂しいけどね」

「私もです……」

「サラリーマンは辛いよ。けど、働かないとね」

「ですね。私も勉強しなくっちゃ」

「お互い楽ではないね」

「ですね」

「あーけど、また会えなくなるのは寂しいなぁ」

「ですね」

 ビビは思わず伍郎のスーツをぎゅっと抱きしめる。と、内側の首の辺りについているタグが目に入った。

 

 RAINBOW

 

 と刺繍されている。驚くビビ。

「どうしたの?何かあった?僕の服、臭いかい?」

「違うの。そうじゃないの」

 ビビは改めてスーツをぎゅっと抱きしめる。

 伍郎にはその意味はわからなかったが、そのスーツは昨日の化粧の跡がついていて、あんまりそうやって抱き締めるとビビも汚れるよ……とは思った。

 しかし言わない。

 いや、言えない。

 そう。

 そうなのだ。

 なんでもかんでも言えば良いというものではないのだ。 

 そう。

 ビビが寝言で

「……ねぇ、きしゅ……」

などと呟いたことも言ってはいけないのだ。危うく獣になるところだったよ。全く人家のない山道だったし。

 

 ……などということは、しばらくは黙っていよう。


 伍郎はそう思った。

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からふるビビっと 会えない二人 中野渡文人 @nakanowatarifumito

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